大国のこと

★はじめに

「大国」などと言えば大国主命の名が浮かんでくるが、この場合の大は「多」の意味(古代にあっては大と多の区別はなかったという)で、大国主とは「多くの国の主(あるじ)」を指すものと思われる。即ち、「大きな国の一国の主」の意ではないと思う。そのためか、大国主命にはたくさんの別名がある。大まかに列挙してみると、

大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神・・多くの国の王
大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・・大きな古墳に眠る神
大己貴命(おほなむち)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・・多くの国(名前)の所有者
八千矛神(やちほこ)・・軍神
葦原醜男・葦原色許男神・葦原志許乎(あしはらしこを)・・武神
大物主神(おおものぬし)・・多くの物・心を支配する神
大國魂大神(おほくにたま)・・多くの国の産土神
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)・・地上世界を創造した神
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)・・幽界の主宰神
杵築大神(きづきのおおかみ)・・大社(おおやしろ)のある地名に基づく神名

多くの角度から名付けられており、単純にあっちの地名、こっちの地名という地名に基づく別名ではないようである。しかし、大国主命は父神を天之冬衣神と言い、母神を刺国若比売と言い、両神は縄文時代の人物かと思われるような名である。冬衣とは冬物の衣料を想像し、寒冷地の人かとも思われる。縄文文化は寒冷地の方が優れていた。また、刺国とは焼畑農業の用語と聞いたような。「小手指の「サシ」は焼畑という意味です。原野を開墾した土地につけられた地名です。」とある。東日本に多い地名で水田(弥生文化)以前の焼畑(縄文文化)農業を言ったような感じだ。天之冬衣神と大國主神を祀っているのは重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ・石川県輪島市河井町)と言い、刺国若比売の墓は宮木諏訪神社(長野県辰野町宮木。刺国若比売命陵)にあるという。国造りの神、農業神、商業神、医療神などと当時としては先進的な領域の神の親神がこんな前弥生時代的なところに縁があるとは驚きだ。現在の日本文化の基層には縄文文化と弥生文化があるという。その混合文化を創り上げたのが出雲国であり、大和国へやって来た出雲の神々だったか。

ところで、ここで言う「大国」とは大国主命のことではなく、地名の「大国」である。「大国」地名は割と多かったようで、『和名抄』では以下の地名が載っている。

山城国宇治郡大国郷(山科川・宇治川)
河内国石川郡大国郷(石川)
近江国愛知郡大国郷(愛知川)
播磨国印南郡大国郷(加古川)
石見国邇摩郡大国郷(潮川)
筑前国席田郡大国郷(御笠川・那珂川)

以上の大国郷の語源と言えるべきものは、『播磨国風土記』(印南郡大国里)は「百姓の家が多くここにたむろしていた。だから大国という。」と言い、『石見八重葎(いわみやえむぐら)』(石田春律著・文化十四年)では「石見の名始めて此村より発る故」「又は、大國魂命神社が鎮座」と言うが、『播磨国風土記』はともかく、『石見八重葎』は意味不明と言うほかない。一般には、1.広大な国土(領域)、2.住民や人家の多いところ、3.大は美称、国は一定範囲の地域、と解されているようである。大国郷が各々の国や郡の中心地だったとは思われず、「大」も「国」も言葉の原意を表しているとは思われないので、結局、3.の大は美称、国は一定範囲の地域と解釈するのが正解か。

★大国郷の解説

大国郷は近畿地方が主力でそのほかに石見国や筑前国にある。いずれの大国郷も上述してあるように河川に沿ってあり、水田稲作と関係があるのではないか。あるいは、最近はやや慢性化しつつある「梅雨前線に伴う大雨及び台風による豪雨」のような大雨洪水による河川の氾濫が徐々に耕地面積を広げ、大国郷という地名になったか。大国郷は一般的に平地や盆地平坦部にあり、一望して「広大な村」となり大国となったのかも知れない。
「大国」の文献初出は【古事記】(中巻、「伊久米伊理毘古伊佐知命」段)にある、「又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨」とか【日本書紀 卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇】にある、「卅四年春三月乙丑朔丙寅 天皇幸山背 時左右奏言之 此國有佳人 曰綺戸邊 姿形美麗 山背大國不遲之女也」とかがもっとも古いものではないか。「山代大國之淵」とか「山背大國不遲」とかあるが、これを後世的な郡郷制で表記するならば、「山城国大国郷」となるのではないか。区切り方によっては「山代大国」とか「山代」「大国淵」などもあるようだが、いずれも一理はあるがやはり後世の「山城国宇治郡大国郷」から推測すると「山城国大国郷」がいいのではないか。おそらく、当時は当該地は木津川、宇治川、桂川の三川と巨椋池(港湾として機能したか)からなる水上交通の要衝で、後世の山城、河内、摂津の豪族が三川と巨椋池の支配権をめぐって争っていたのではないか。最大勢力は山城国大国の淵(不遅)さんかと思うが、そこに関係のない大和の伊久米伊理毘古伊佐知命さんが現れ、すったもんだのあげく伊久米伊理毘古伊佐知命さんは淵(不遅)さんから三川及び巨椋池の支配権と淵(不遅)さんの二人の娘を言葉は悪いが強奪し大和へ帰ったのではないか。要するに、大和国は此の地を押さえて丹波の親しい丹波道主命や摂津の大伴氏に気軽に行けることにしようとしたのであろう。
翻って、『記紀』には、鬱、とか、淵(不遅)、とか、内、とか、同一の氏族なのか、はたまた、異なった氏族なのかは解らないが、木津川、宇治川、桂川の合流する地点にはことあるごとに似たり寄ったりの氏族が出現している。そこで、これらの氏族は何者なのか次に検討してみる。

★鬱、淵、内とはどういう氏族か

鬱、淵、内は表記も発音も違うので同一の氏族ではあるはずもない、と主張する方が多いのかも知れない。居住地と言おうか、本拠を構えたのも同じ場所ではないようだ。ところで、平安時代に入ると当該地には宇治郡郡司(宇治郡大領)に宮道氏という一族がいたようだが、時代が下るので割愛する。以下は、主に『記紀』に出てくるものを取り上げる。

鬱氏

(『古事記』中巻 孝元天皇段。『古事記』では、内氏となっている。読みは「うつ」か。)
此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】
又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命【一柱】
又娶河内青玉之女 名波邇夜須毘賣 生御子 建波邇夜須毘古命【一柱】
此天皇之御子等并五柱
故若倭根子日子大毘毘命者 治天下也 其兄大毘古命之子 建沼河別命者【阿倍臣等之祖】 次比古伊那許志別命【膳臣之祖也】
比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毘之妹 葛城之高千那毘賣 生子 味師内宿禰【此者山代内臣之祖也】 又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰 此建内宿禰之子并九【男七 女二】

(『日本書紀』 卷第四 大日本根子彦國牽天皇  孝元天皇)
七年春二月丙寅朔丁卯 立鬱色謎命爲皇后 后生二男一女 第一曰大彦命 第二曰稚日本根子彦大日日天皇 第三曰倭迹迹姫命 【一云 天皇母弟 少彦男心命也】
妃伊香色謎命 生彦太忍信命
次妃河内靑玉繁女埴安媛生武埴安彦命
兄大彦命 是阿倍臣 膳臣 阿閉臣 狹狹城山君 筑紫國造 越國造 伊賀臣 凡七族之始祖也
彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也

『記紀』ともに似たり寄ったりの伝承を載せているが、「内氏」に関する限りでは、『古事記』では味師内宿禰【此者山代内臣之祖也】と建内宿禰の父親は比古布都押之信命で、味師内宿禰と建内宿禰は異母兄弟となる。『日本書紀』では彦太忍信命は武内宿禰の祖父と言う。山代内臣への言及はない。

淵(不遅)氏

(『古事記』中巻 垂仁天皇<伊久米伊理毘古伊佐知命>段)
此天皇 娶沙本毘古命之妹 佐波遲比賣命 生御子 品牟都和氣命【一柱】
又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女 氷羽州比賣命 生御子 印色之入日子命 次大帶日子淤斯呂和氣命 次大中津日子命 次倭比賣命 次若木入日子命【五柱】
又娶其氷羽州比賣命之弟 沼羽田之入毘賣命 生御子 沼帶別命 次伊賀帶日子命【二柱】
又娶其沼羽田之入日賣命之弟 阿耶美能伊理毘賣命 生御子 伊許婆夜和氣命 次阿耶美都比賣命【二柱】
又娶大筒木垂根王之女 迦具夜比賣命 生御子 袁耶辨王【一柱】

《又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨 生御子 落別王 次五十日帶日子王 次伊登志別王》
《又娶其大國之淵之女 弟苅羽田刀辨 生御子 石衝別王 次石衝毘賣命 亦名布多遲能伊理毘賣命【二柱】》

凡此天皇之御子等十六王【男王十三女王三】 故大帶日子淤斯呂和氣命者 治天下也【御身長一丈二寸 御脛長四尺一寸也】 次印色入日子命者作血沼池 又作狹山池 又作日下之高津池 又坐鳥取之河上宮 令作横刀壹仟口是奉納石上神宮 即坐其宮定河上部也 次大中津日子命者【山邊之別 三枝之別 稻木之別 阿太之別 尾張國之三野別 吉備之石无別 許呂母之別 高巣鹿之別 飛鳥君 牟禮之別等祖也】 次倭比賣命者【拜祭伊勢大神宮也】 次伊許婆夜和氣王者【沙本穴太部之別祖也】 次阿耶美都比賣命者【嫁稻瀬毘古王】

《次落別王者【小月之山君 三川之衣君之祖也】 次五十日帶日子王者【春日山君 高志池君 春日部君之祖】 次伊登志和氣王者【因無子而爲子代定伊登志部】 次石衝別王者【羽咋君 三尾君之祖】 次布多遲能伊理毘賣命者【倭建命之后】》

(『日本書紀』卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇)
卅四年春三月乙丑朔丙寅
天皇幸山背 時左右奏言之 此國有佳人 曰綺戸邊(かにはたとべ) 姿形美麗 山背大國不遲之女也 天皇於茲 執矛祈之曰 必遇其佳人 道路見瑞 比至行宮 大龜出河中 天皇擧矛剌龜 忽化爲石 謂左右曰 因此物而推之 必有驗乎 仍喚綺戸邊納于後宮 生磐衝別(いはつくわけ)命 是三尾君之始祖也
先是(これよりさき) 娶山背苅幡戸邊(かりはたとべ) 生三男 第一曰祖別(おほぢわけ)命 第二曰五十日足彦(いかたらしひこ)命 第三曰膽武(いたける)別命 五十日足彦命 是子石田君之始祖也

鬱(内)氏がきらびやかな系譜(内色許賣命は、大毘古命 少名日子建猪心命 若倭根子日子大毘毘命<開化天皇>。伊迦賀色許賣命は、 比古布都押之信命。御真木入日子印恵命<崇神天皇>。)に彩られているのに対し、大国之淵(不遅)の女子の子供たちは近江国や北陸など辺鄙な地域に追いやられているようだ。鬱(内)氏の凋落が始まり、淵(不遅)氏の頃には崇神天皇の全国制覇も始まり宇治地域の重要度も低くなっていたのかも知れない。このあたりから淵氏(内氏か)が天皇家に正妃を出すのも縁遠くなってしまったのかも知れない。

内氏(建内氏、味師内氏)

内氏や宇治氏は、後世、舒明天皇の子孫や阿蘇国造家に多いようだが、ここでは比古布都押之信命(彦太忍信命)の味師内宿禰と建内宿禰について述べることにする。『古事記』には味師内宿禰【此者山代内臣之祖也。母、葛城之高千那毘賣】と建内宿禰【建内宿禰之子并九<男七 女二>。母、山下影日賣】とある。比古布都押之信命(彦太忍信命)は孝元天皇と伊香色謎命(いかがしこめのみこと、『日本書紀』では大綜麻杵(おおへそき)の女子、『古事記』では内色許男命(うつしこおのみこと、鬱色雄命)の女子。)との間に生まれた皇子。建内宿禰の子并九<男七 女二>は以下のごとしという。
羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城襲津彦、若子宿禰。しかし、建内宿禰は後世創作された人物で彼にまつわる話には信がおけないと言う説もある。結局、内氏として残るのは「山代内臣」氏で、その先祖を祀るのは「内神社」(京都府八幡市内里内1。祭神:山代内臣、味師内宿禰 )と言うことになる。『新撰姓氏録』には「大和国 内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」とある。大和国宇智郡の式内社に宇智神社(奈良県五條市今井。祭神:不明。)がある。こちらが建内宿禰の内氏の神社という説もある。

★まとめ

大国とは大きな国ないし多くの国を意味するような大げさなものではなく、どこにでもある(但し、西日本に偏っている)久仁(恭仁)などの地名に「大」の美称をつけたものなのだろう。対応する反意語は「小国」か。「クニ」が西日本に偏っているのも「クニ」の語源が漢字の「郡」で、これを日本語読みにして「クニ」即ち「一定範囲の領域」を言ったものではないか。大陸から来た人たちの定着率は西日本が良かったのではないか。特に、近畿地方に多いのは水田稲作が日本に入ってきてすぐに全国に広まったのではあるが、やはり近畿地方の浸透度が高かったと言うべきか。ことわざに「小さく生んで大きく育てる」と言うのがあるが、集落建設にもこのことが当てはまるのか。中世以降であるが、地名では小国が多く、大国は少ない。即ち、はじめは10戸ほどの村で小国村と言っていたところが、その後100戸ほどの村になり大国村に改めたと言うことか。近畿地方に大国郷が多いのも人口密度が高く小国郷から大国郷へ昇格するのが早かったと言うことか。但し、『和名抄』では、小国郷は備後国御調郡小国郷(広島県府中市小国町)一カ所だけで、ほかの六カ所は大国郷である。小国と大国との均衡を失し、あるいは双方はまったく関連のない語かとも思われる。小国は「山間の小盆地」というのが通説で、大国は「平野地であることが多い」とある。因みに、備後国御調郡小国郷(広島県府中市小国町)は、山間の高地で水利が不便としつつ、古墳があるという。府中というので備後国の国府があったかもしれず、そこにいた高官の人々の墓か。
特に、山城国宇治郡大国郷(比定地は現・京都市山科区の山科盆地とする説と現・京都市伏見区石田、日野、醍醐界隈とする説がある。後説では醍醐は大国→だいこく→醍醐になったとするもののようである。)は重要で、山城国宇治郡や山城国綴喜郡宇智郷などは当時は一体化されていて今日的に言う宇治市や八幡市、場合によっては枚方市あたりまでを宇智(宇治)国と言って大和国に対抗するような勢力があったのではないか。しかし、この宇智国は凋落が激しく、国主とも言うべき鬱氏、淵(不遅)氏、内氏の没落も早かったのではないか。
大国氏と言うのも非常に少ない。『類聚国史』巻187(仏道14、還俗僧)大国忌寸木主とか、『三代実録』貞観10年(868)正月七日条大国忌寸福雄などわずかなものである。この大国氏は河内国石川郡大国郷の出身か。カバネは忌寸のようである。かっての「直(あたえ)姓の国造や、渡来人系の氏族に与えられた。」とある。大国忌寸は渡来系ではなく阿倍朝臣の系統か。

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