海幸山幸

★はじめに

過日、インターネットで<海幸彦と山幸彦>の項目を見ていたら、

「山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、『記紀』に記された日本神話。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれ、神話に多い神婚説話、理想郷に留まる内容であり、民話「浦島太郎」のもととなっている。誕生地、生活などの伝説は宮崎県の宮崎市を中心とした宮崎平野に集中している。(Wikipedia)とか、

「天孫族が、隼人(はやと)族を屈服させたことを神話化したともみられ、仙郷滞留説話・神婚説話・浦島説話の先駆と考えられている。 」(小学館『デジタル大辞泉』)

とあるが、これは本当か。失礼ながら怪しの説ではないのか。「海幸山幸」の類似の話としてはインドネシアやメラネシア、パラオにもあると言い、日本では 喜界島の「竜神と釣縄」という類話があるという。これに対して、「浦島説話」は『丹後国風土記』(逸文)、『日本書紀』、『万葉集』と言う古典にも載っており、日本における分布範囲も広く、類似の話が中国、アイルランド、エジプトほか全世界にあるそうな。ざっと見ても、「海幸山幸」の話は南方(東南アジアか)起源であり、「浦島説話」は中国と言おうかユーラシア大陸起源であろう。また、日本における分布状態も「海幸山幸」がほとんど全国的な広がりを持たないのに、「浦島説話」は全国的に広がっており、かつ、海辺ばかりか山間部<寝覚の床(ねざめのとこ)、長野県木曽郡上松町など>にも伝わっている。これは「浦島説話」が庶民から庶民へ伝わった民話であるのに対し、「海幸山幸」は『記紀』編纂者が隼人征討のため無理に取り入れたものではないか。そういう意味では、「海幸山幸」神話は隼人族征討を記念した日本プロパーなものかも知れないが、それにしては大陸や半島から入ってきた各種神話の寄せ集め(仙郷滞留説話・神婚説話)になっているかと思う。

★「海幸山幸説話」と「浦島説話」はどちらが古いのか。

『日本書紀』には「海幸山幸説話」を神武天皇の父や祖父の項に入っており、「浦島説話」は雄略天皇22年(478年)秋7月の条の記述となっている。これをそのまま信ずる人もいるようだが、隼人服属が7世紀から8世紀初頭のことなので、『記紀』編纂時には「もっとも新しい時点の歴史的事件にもかかわらず、こうした話が神代に繰り込まれているのは、服属の由来の久しいことが強調」されている、と説く見解もある。『記紀』では、仁徳天皇の時代に隼人が天皇や皇族の近習であったと記されている。史実かどうかは疑わしいが、大和朝廷が熊襲(隼人)に接触した話として『日本書紀』で、景行12年熊襲梟帥(くまそたける)をその娘<姉の市乾鹿文(いちふかや)>に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた、とある。そのときの捕虜が仁徳天皇の近習になった人と言うことか。しかし、この景行天皇の親征については『古事記』には記載がないので史実とするにはやや疑問が残る。また、『日本書紀』清寧天皇元年正月に「隼人、昼夜陵の側(ほとり)に哀号(おら)ぶ。食を与えども喫(くら)はず。七日にして死ぬ。(隼人晝夜哀號陵側 與食不喫 七日而死)」ともあり、天皇の周辺には奴婢的に扱われた人がおり、家畜と同じ扱いと言うのでそういう人(南の方の蛮族)を隼人と言ったのかもしれない。私見では「ハヤ」も「カヤ」も同語で大隅国や日向国のカバネであったと思われる。
そこで、「海幸山幸説話」と「浦島説話」はどちらが古いのか、と問われれば、「海幸山幸説話」が隼人族の服属起源譚とすべく、『記紀』の編纂者が大陸や半島の神話類型を参照して日本的に創作した比較的新しい説話であるのに対し、「浦島説話」は全国的に流布しており、中部・東海地方から西日本にかけてが多いようなので、弥生時代の頃に大陸・半島より導入されたと言うべきか。従って、「海幸山幸説話」と「浦島説話」は出自も時代も違い「海幸山幸説話」が「浦島説話」のもととなっているというのは間違いではないか。

★「海幸山幸説話」と「浦島説話」の比較

論者の中には「海幸山幸説話」と「浦島説話」を比較して、非常に似ているという。おそらく、「海幸山幸説話」をお手本に「浦島説話」が作られたというのであろう。

「海幸山幸説話」の内容
山の猟師である山幸彦(弟)と、海の漁師である海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。途方に暮れていたところ、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(海神の宮殿)に赴いた。海神(大綿津見神)に気に入られ、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で暮らすこと三年がたち、山幸彦は地上に帰ることになり、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦を配下に収めた。この海幸彦は隼人族の祖である。妻の豊玉姫は子供を産み(豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と彦火火出見尊に言う。しかし、火遠理命<山幸彦>はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。)、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇の祖父にあたる。

「浦島説話」の内容
漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を海の中の竜宮城に招く。竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日(三年説が多いようだ)だったが、地上では随分長い年月(七百年説もある)が経っていた。

多くの説が取り上げる類似点として、
「海へ釣りに行く」、「小船に乗って海原の彼方の宮殿に行く」、「美しい姫と結婚する」、「楽しい結婚生活を送る」、「その期間は3年間であった」、「夫は故郷に帰りたくなり、別れ際に妻や家族から贈り物があった」、「妻の禁止事項があり、夫は守ると約束する」、「夫は故郷に帰る」、「夫は妻との約束事を守れず、二人は永遠に別れてしまう」
双方の説話の類似点は以上のもののようだが、一つの説話を単に使い回ししたともとれる内容だ。

★まとめ

「浦島説話」の類似の話は中国に多いようで、中国では囲碁にまつわる話が多いようだ。囲碁(ゲーム)に熱中して時間がたつのも忘れてしまったと言うことか。中国の説話が我が国へ導入されたとも考えられるが、私見では日本の「浦島説話」は『丹後国風土記』(逸文)では、「筒川嶼(島)子 水江浦嶼(島)子」とか、「與謝郡日置里筒川村」とか、「人夫日下部首等先祖」とか、内容が具体的である。端的に言うと、「浦島説話」は<日下部首>氏の祖先伝承であって、本来はおとぎ話などになるような話ではなかったと思われる。それを文才豊かな伊預部馬養連のお筆先になり当時のベストセラーにでもなったのではないか。当時にあっても知識人階級では写本の貸し借りなどがあったのではないか。
「海幸山幸説話」は隼人族懐柔策として人為的に書かれたものではないか。要するに、天孫族と隼人族は同族と言うことを隼人族に印象づけようとしたもので、景行天皇九州親征があったとしたなら、作者はおそらく大伴武日あたりであり、それがなかったならば『記紀』編纂時に編者の一人が執筆したものと思われる。
以上より、「海幸山幸説話」と「浦島説話」は、その発生事由からして異なるものであり、類似点が多いと言っても時間がたつと「物語」や「行政文書」などはパターン化し、似たり寄ったりなものになったのではないか。

 

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