淡路島のこと

★はじめに

過日、Wikipediaで「淡路島」の項を見ていたら、「初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られる。また反正天皇は淡路島で生まれたとされる。」とあったので、何のことかなと思ってほかの資料を見ていたら、どうやら出典は「日本歴史地名大系. 第29巻 1 (兵庫県の地名 1) 平凡社刊 1999.10.」のようで、それによると、
1.淡路の表記は、粟道(藤原宮跡出土木簡)→粟路 淡道→淡路と変遷したのではないか。阿波国は当初より粟国である。よって、淡路とは本州から阿波へ行く通路の意味である。(通説)
2.兵庫県三原郡西淡町(現・南あわじ市阿那賀伊毘)の沖ノ島古墳群では、須恵器(すえき)などの土器のほかに鉄製の釣針・軽石製の浮子(うき)・土錘(どすい)・蛸壺形の土器や棒状石製品といった漁具関係の遺物が副葬されていた。これらの出土遺物から古墳の被葬者は、立地も合わせて考えると、海に関係が深い人物が想定される。
古墳のこのような存在状態は淡路では漁業は発達していたが、有力な豪族は存在しなかったことを推測させる。それは、この島が畿内に成立した政権(いわゆる大和朝廷)ときわめて密接な関係にあったことによるのではなかろうか。
3.『日本書紀』 応神二年条に、天皇の妃乙姫は淡路御原皇女を生んだ。反正即位前記に、反正天皇が「淡路宮」で生まれた。
『古事記』 安寧天皇段に、安寧の孫の和知都美命は「淡道の御井宮に坐しき」とある。
五世紀頃には大和・河内の大王(天皇)家と淡路との関係が深かった。
4.天皇が狩猟のためたびたび淡路に赴(おもむ)いたという『日本書紀』の記事(応神13年9月、同22年9月、履中5年9月、允恭14年9月など)淡路が早くから大王家の支配下に入り、供物のものを貢上する狩猟の地であった。
5.海産物の採取・貢納に関わる淡路のアマ(海部・海人)が大王家と深い関係にあったことを示す『日本書紀』の所伝
応神22年3月 応神が妃の兄媛が吉備に帰るとき、「淡路の御原の海人八十人」に送らせた。
仁徳即位前紀 応神の死後、倭の屯田と屯倉の相続が問題になったとき、韓国にいる倭直吾子籠を迎えるために「淡路の海人八十人」が派遣された。
履中即位前紀 仁徳天皇の死後、住吉仲皇子が皇位継承の争いを起こしたとき、阿曇連浜子は「淡路野島(現・淡路市野島)の海人」を率いて住吉仲皇子に従って戦っている。
仲哀2年2月 淡路屯倉を定めた。『古事記』仲哀天皇の世に「淡路の屯倉」を定めた。
南あわじ市榎列大榎列(えなみおおえなみ)に屯倉神社がある。
6.「日本大國魂神」が大和大國魂神社として三原郡に祀られ、もと伊弉諾尊を祀って淡路に勢力を有していた氏族を中心部から追い払った。

以上のごとく述べておられるが、以下個々の内容を検討してみたいと思う。

★上記内容の検討

1.淡路の表記とその意味するところであるが、「粟」にせよ「淡」にせよ、いわゆる当て字で穀物の粟あるいは濃いの反意語の淡いとは関係がないと思われる。以前は阿波国とは粟(穀物)国の意味、と言うのが有力だったようだが、最近はあまり見かけなくなった。地名の起源となったと思われる阿波国阿波郡や淡路国津名郡平安郷《一般的には安乎(あいが)と読むようだが、平城京跡から出土した木簡の中に、「天平七年(七三五)頃、淡路国津名郡(阿)餅郷」とか「阿并郷」「安平郷」と読めるものがあり、<あへ>と読むか。阿餅(阿拝、『和名抄』伊賀国の郡名)、あるいは、阿倍(『和名抄』駿河国の郡名)は意味としては、「低湿地」説とアバ(暴)の転で「崩崖」説があるようだが、現今有力なのは「崩崖」説で、アハ、アバ、アヘ、アベは同じ意味であり、崩崖地を意味するか。私見では安平は安半の誤記で<あは>と読むかと思ったのだが。》のアハ・アヘは、繰り返すが、現在の説としてアハク、アバク(暴く、崩れる)の意味で崩壊地形を言うと言うのが多数説になりつつあるようだ。淡路島のことを和歌山県では淡島とも言う。淡島信仰で有名な神社もあり、この場合の「淡」はものとものとの間(中間)をいい、アハヒ(間)、アハシ(淡)で同源の言葉という。即ち、淡島ないし淡路島は本州と四国との間にある島と言うことになろうかと思われる。ほかに、アハヂをア・ハヂと分けてアは接頭語、ハヂは端(はし・はち)の意味で崖地を言うとなす説。一応、淡路はアハ(崩崖の意)、チ(接尾語)と考えるのが現今の一般的な説か。従って、阿波国も淡路国も元々は「アハ」と言ったかもしれないが、同じ発音では区別がつかないので「アハ(阿波)」と「アハヂ(淡路)・ヂは接尾語」と発音を分けて区別した。従って、淡道、淡路と書いても阿波国への通路の地の意味ではなく、津名郡平安(安乎か)郷を国名の語源地とするので、阿波国の阿波とは別個の言葉である。「アヘ」が先か「アハ」が先かははっきりしない。おそらく「アハ」が先なのであろう。
2.淡路島の古墳は南淡町(現・南あわじ市阿万上町ほか)付近に比較的集中しているが、いずれも円墳で前方後円墳を欠いている、と言う。形もやや持って小型。築造年代は六世紀以降のものが多い。津名郡にはやや少ない。以上から判断するならば、淡路島の海人は一般の漁師であり、大規模な網元はほとんどいなかったようである。
3.『日本書紀』反正天皇前紀に「天皇初生于淡路宮」とあるので反正天皇は淡路島の生まれ、と解する向きもあるが、「淡路宮」は所在未詳とする説が多い。一応、産宮(うぶみや)神社(南あわじ市松帆擽田103)は反正天皇の誕生の淡路宮跡と言う。しかし、応神、仁徳、履中、反正の諸天皇は河内・摂津の人であり、現在の大阪市にも東淀川区淡路とか中央区淡路町があり、地名の由緒来歴ははっきりしないものの案外古くからあるのかも知れない。東淀川区淡路は菅原道真が淀川の中洲を見て淡路島と勘違いをしたと言う逸話もあり、川の中洲のようなところを淡路とか淡島とか言ったのかもしれない。大阪市北区中之島は江戸時代からの開発と言うが古くは淡路と言ったのかも。また、淡路島は当時の天皇の別荘地だったか。
4.天皇の猟場即ち禁野があったかどうかは解らないが、応神天皇は淡路島に足繁く通ったようである。単に狩のためかほかに目的があったのかは解らない。
5.淡路国の海人は皇室関係者が瀬戸内海航路を渡るときは船頭や舵取り、水手、船などを提供したようである。また、屯倉の設置は『記紀』にある仲哀天皇の時かどうかは別にして屯倉神社(南あわじ市榎列大榎列)がある。
6.大和大國魂神社が淡路伊佐奈伎神社(現・伊弉諾神宮)を現・兵庫県南あわじ市榎列上幡多857の地から現・兵庫県淡路市多賀740の地へ追いやったと言うが、両社は元々今のところにあったのではないか。両社とも移転の記録はない、とある。伊弉諾神宮は伊弉諾尊が多賀の地(霊宮)で余生を過され、御住居の跡が御陵となり、その後神社として祀られる様になった、とある。問題は大和国の産土神とも言うべき倭大国魂神(大和大國魂神社)がどうしてこんなところに祀られているのだ、と言うことだろうと思う。諸説あるが、1.大和神社の最初の祭主であった市磯長尾市(いちしのながおち)の出自が九州の海人族であった関係により、大和神社を海人族の住む淡路島へ特別に勧請したと言う説、2.淡路の海人の槁根津彦(さおねつひこ)が倭直(やまとのあたい)の祖と言われることから三原郡の国魂神を大和大国魂神と称したとする説、などがある。一説によると市磯長尾市は槁根津彦の七世孫とあり、同じ一族が何をしているのかと言うことになるが、要は、淡路国の海人が一族かどうかは別にして二系統あったということなのだろう。一方は伊邪那岐神を祀り、他方は倭大國魂神を祀っていたのだろう。倭大國魂神を祀っていたのは倭直部氏で「特賜名 為椎根津彦此即倭直部始祖也」(日本書紀、神武即位前紀)、「以市磯長尾市為祭倭大国魂神之主。」(日本書紀、崇神7年)など。また、伊邪那岐神を祀っていたのは社家の坂上田村麻呂の子孫と称する田村氏とか石上氏のようであるが、いずれも海人族とは関係がないようだ。海人族としては阿曇氏が有名であるが、阿曇連浜子や倭直吾子籠と言う実名が出てくるところを見ると、阿曇連浜子系の一族が淡路伊佐奈伎神社の神主で倭直吾子籠系の一族が大和大國魂神社の神主だったか。二人は住吉仲皇子の乱でも足並みをそろえている。淡路国の海人が地元派と大和派に分かれていたわけではなく、それぞれのご先祖さまが祀っていた神が違うと言うことだけである。阿曇連は博多湾岸の海人であるが倭直のご先祖さまの椎根津彦(槁根津彦)は豊予海峡、吉備国の児島湾口、明石海峡等諸説がある。両海人族が淡路島で住み分けていたのであろう。

★まとめ

淡路島に一番関係が深いのは応神天皇と思われる。狩猟に出かけたのが『日本書紀』に二回(応神13年9月<時天皇幸淡路嶋 而遊獵之>、同22年9月<天皇狩于淡路嶋>)記録されている。特に、応神22年9月のときは妃兄媛の実家がある吉備国を訪れ妃の兄である御友別と誼み(よしみ)を通じている。応神天皇と言えば、言わずとしれた「三韓征伐」の主導者で『記紀』では神功皇后と言うことになっていたり、はたまた、応神三年「是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」となっていて、紀角宿禰以下の派兵が高句麗の好太王碑文の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の耒卯年(391)に年次がほぼ合致すると言って紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰の四将軍の派遣とする説もあるが、実際に出撃したのは応神天皇で四将軍はその配下にあったのではないか。例として、紀角宿禰は百済方面司令官、羽田矢代宿禰は加羅方面司令官、石川宿禰は新羅方面司令官、木菟宿禰は高句麗方面司令官。四将軍は武内宿禰の子孫という。ここで応神天皇や仁徳天皇の私見の概略を述べると、応神、仁徳の実父は景行天皇で景行天皇の有力重臣には武内宿禰、大伴武日、吉備武彦があり、応神天皇の生母は武内宿禰系の人物でこちらは武力に優れていた。また、仁徳天皇の生母は大伴氏系でこちらは財力に優れていた。応神天皇は三韓征伐のときは前線には武力に優れた武内宿禰の一族を連れて行き、仁徳天皇は財力に優れた大伴氏一族ともども筑紫国で後方支援を行ったのではないか。
話は少し飛ぶが、長期にわたる韓国遠征から帰国した応神、仁徳は戦果に乏しかったせいか母親の実家の財力で差がついたらしく、応神にしてみれば「何であいつ(仁徳)と、こうも生活レベルが違うのだ」と思ったことだろう。また、帰国したはいいがいつ高句麗の好太王が倭に攻め入るか解らない。前線基地や兵站基地の目星をつけておかねばならず、応神天皇はその準備を着々と行っていたのではないか。好太王が日本に攻め入ると言っても日本海ルートか瀬戸内海ルートかも解らなかったが、一応、有力者の多い瀬戸内海ルートを主戦ルートとし、前線基地を吉備国、兵站基地を淡路島と設定したのではないか。応神は当該地には視察のため何度も出かけただろうが、淡路島は争いのない島なのに鉄鋌とか石鏃が時折出てくるのでおかしいと思い調査したところ、どうやら淡路島は大伴氏の秘密金庫と言うことが解った。当時は、例えば、奴国王が後漢の光武帝から建武中元2年(57年)に冊封のしるしとして賜ったと言う金印が志賀島から発見されたように、宝物は居住地から少し離れた島や岡や川の中洲などに巨石の金庫をつくつてそこに保管したのではないか。淡路島は志賀島より大きいので追い追い大伴氏の宝物が出てくるかもしれない。応神天皇は一所懸命金、銀、銅、鉄などを探したけれどめぼしいものはなかったのではないか。
淡路島は大和朝廷の直轄領で屯倉があったとか、古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いでいたとか言って特殊な国のように言うが、それは当該国の地理的要件等が御食国に該当したからであって何も特殊なものではない。また、いわゆる河内王朝の天皇との結びつきが強いというのも好太王との緊張関係からと思われ、好太王が逝去(412)したら解消された。

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