安閑朝の屯倉の設置

★はじめに

継体王朝(継体、安閑、宣化、欽明各天皇)に関しては、『日本書紀』内部でも矛盾があり、他の資料と『日本書紀』の矛盾はさらなるものがある。諸説紛々として通説的見解(最近は「継体欽明朝内乱」<辛亥の変>説が有力か)は打ち出せないようであるが、ここではそういう御高邁なことは横にして『記紀』で読んだことで<はてな?>と思ったことを述べてみようと思う。
まず、「(継体天皇)廿五年春二月辛丑朔丁未 男大迹天皇 立大兄爲天皇 即日 男大迹天皇崩」(日本書紀 卷第十八 廣國押武金日天皇/安閑天皇 前紀)の件である。大意は「継体天皇は大兄を立てて天皇となし、即日(その日のうちに)、(継体)天皇は崩御された。」と言うことであろう。これが我が国<譲位>の最初の例と言う。今までの慣例を破ってまでそんなことをする必要があるのか、と言われればそうとも思うが、継体天皇にはそうしなければならなかった理由があったのかもしれない。
一言で言うと、継体天皇はお年を召されて(『日本書紀』によると58歳か)から皇位を継承されたようなので家族関係が複雑だったようである。特に、継体天皇の御代は頻繁な遷都(507年2月、樟葉宮(くすばのみや)で即位、511年10月、筒城宮(つつきのみや)、518年3月、弟国宮(おとくにのみや)、526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)と言う。)を行い、即位後の継体期は外政(朝鮮半島問題)と内政(地方豪族の台頭<例、磐井の乱>)問題に悩まされた。前者は新羅、百済に侵攻される伽耶諸国への対応で、527年6月、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑を奪還すべく近江毛野臣に六万の大軍をつけて討伐に向かわせたが、この無能将軍は何の成果も得ることなく帰還途中に病死した。後者は近江毛野の遠征の途中で起きた磐井の乱(527)である。近江毛野と筑紫国造磐井はかって知り合いだったと見え磐井にしてみると「あんな無能なやつに六万の大軍を任(まか)せるなんて大和朝廷恐るるに足らず」とばかりに毛野に反旗を翻したのであろうが、物部麁鹿火がやって来て一刀両断の元に殺されてしまった。近江毛野は継体天皇の推挙だったと思うが、やはり天皇は地方から来た人であって中央の人材とは縁が薄かったようである。
そこにやって来たのが、天皇の死で天皇としては後顧の憂いなきよういろいろ思考をめぐらしたであろうが、一番の問題は後継者問題であった。天皇の有力後継者としては後の安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇があったようだが、天皇は当然のことながら当時の政界を主導していた大伴金村に相談したことだろう。天皇と金村が一番心配したのは蘇我氏の存在だろう。蘇我氏は多数説では畿内の出身のようになっているが、勝手な私見で申し訳ないが、越の国(現在の福井県)出身で継体天皇の在地の重臣として都に上ったものであろう。天皇としてはなにがしかの地位とか権益を約束して連れてきたものとは思うが、何分にも天皇はあちこちに遷都を行い、奈良盆地に入ったのは、継体天皇廿年秋九月丁酉朔己酉 遷都磐余玉穗【一本云 七年也】で、崩御は廿五年春二月 天皇病甚 ○丁未 天皇崩于磐余玉穗宮 時年八十二(『日本書紀』による)とあるので天皇が奈良で本格的に政務を執ったのは五年弱かと思われる。しかし、これには上記『日本書紀』引用にもあるように異説が多いようで当てにはならないが、継体天皇は言わば現代的に言うと福井県の副知事(蘇我稲目のこと)が奈良の都にやって来て日本国の内閣総理大臣や諸大臣の職務を行うのは困難とみてもう少し見習いをさせようと思ったのであろうが、蘇我稲目はそうは思わず「俺はもう二十年も見習いをやっている。」と考え、継体天皇後を模索したのであろう。ここで蘇我氏のことを少し見てみると、稲目以後となるが、

穴穂部皇子暗殺:用明天皇二年六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姫尊、詔佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞嚙曰「汝等、嚴兵速往、誅殺穴穗部皇子與宅部皇子。」(『日本書紀』)
物部守屋の殺害:用明天皇二年七月蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。
崇峻天皇の暗殺:崇峻天皇五年十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。
境部摩理勢の絞殺:推古天皇三十六年、蘇我蝦夷の派遣した来目物部伊区比なる者に絞殺された。
山背大兄王の殺害:皇極天皇二年十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。・・・終與子弟妃妾一時自經倶死也。

以上の五件はいくら詔や他の賛同があるからといっても当時も現在も犯罪であろう。
ほかに、馬子の推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷による天皇をないがしろにする行為、などが挙げられている。また、「用明天皇二年夏四月舍人迹見赤檮、伺勝海連自彥人皇子所退、拔刀而殺。」とあり、『聖徳太子伝暦』では、馬子の命と言う。
以上の事実より有り体に言えば、蘇我氏は殺し屋なのである。

★継体天皇と大伴金村の皇位継承対策とは

おそらく継体天皇は蘇我氏のこういう好ましくない性癖についてはすでに越の国にいた時から知っていたであろう。稲目は馬脚を現していないようだがこのような性癖は一般的に遺伝的なもののようでおそらく稲目は未だ仕事に自信がなかったので同僚や他氏族に襲いかかるようなことはしなかったのだろう。当然のことながら継体天皇は蘇我稲目や馬子に皇位を簒奪されたくはなかったろうし確実に自分の子や孫に皇位を引き継がせたかかっただろう。しかし、稲目は着実に皇位を狙っていた。稲目の見立てによると継体天皇の有力皇位継承者である後の安閑天皇<勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)>や宣化天皇<檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)>には国政遂行能力が乏しい。これら二人を欺罔して稲目やあるいはその子を天皇の地位に就けようと図っていたのではないか。そうはさせじと策を練ったのが継体天皇と大伴金村で、まず、安閑天皇への継承を確実なものにするために生前譲位を敢行し、政権中枢にはベテランの大伴氏や物部氏を据えて安閑天皇の老齢、知力の衰えなどを補おうとしたのではないか。
首尾よく安閑天皇に譲位しても次に起きてきたのは(安閑)天皇の後継者問題である。

安閑天皇元年冬十月庚戌朔甲子、天皇勅大伴大連金村曰「朕、納四妻、至今無嗣、萬歲之後朕名絶矣。大伴伯父、今作何計。毎念於茲、憂慮何已。」大伴大連金村奏曰「亦臣所憂也。夫我國家之王天下者、不論有嗣無嗣、要須因物爲名。請爲皇后次妃建立屯倉之地、使留後代令顯前迹。」とあり、天皇には四人の妻がいたが子供に恵まれなかったようだ。ここは「大伴大連金村奏曰」以下の部分は後の挿入で、後継者のいない天皇が大伴金村に後継者対策を依頼したものではないか。その対策が明らかにされなかったので『日本書紀』は「大伴大連金村奏曰」以下の関係のないいい加減なことを書いている。現在のように情報共有などというのは当時にあっては大伴大連家のノウハウを公開するようなもので一子相伝で行われていた職業(伴)の継承は大連家の存亡にも関わるようなことだったのではないか。
大伴金村としては「またか」という思いだっただろう。継体天皇を越の国から招聘したはいいが、天皇の老害(現今で言う認知症か)や子息たちのできの悪さは金村を大いに悩ませたのではないか。特に、宣化天皇は稲目に騙されっぱなしのような気がする。例を挙げると、宣化前紀にある天皇の人物評「是天皇爲人器宇清通 神襟朗邁 不以才地 矜人爲王 君子所服」は中国の歴史書の引用とする説あり。従って、天皇の人となりの実態は不明と言うほかない。宣化紀元年二月「以大伴金村大連爲大連 物部麁鹿火大連爲大連 並如故 又以蘇我稻目宿禰爲大臣 阿倍大麻呂臣爲大夫」とあり、大臣は継体期に巨勢男人がいたが継体天皇23年(529年)9月薨去、とあり空位ではあった。何の経験もない蘇我稲目が突如大臣になることは考えられないことだ。また、阿倍大麻呂と言う人物もほかには見えないという。物部麁鹿火が宣化天皇元年(536年)7月に薨去とあるので物部尾輿が直ちに大連に補任されたのかも知れないが、「物部木蓮子 【木蓮子 此云伊施寐】 大蓮女宅媛」(大蓮は大連の写本もあるようだ)というのもあって物部一族の人には何でも大連の肩書きをつけていたのかも知れない。但し、欽明前紀四年冬十二月に「大伴金村大連・物部尾輿大連爲大連、及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣、並如故。」とある。物部尾輿も物部麁鹿火とは父子あるいは兄弟関係にはなく、宣化期は大伴金村を除いては未経験者の寄り集まりという雰囲気だ。稲目は宣化天皇に強引に自分を大臣に就けさせ、邪魔な金村を天皇を強要して「二年冬十月壬辰朔 天皇 以新羅冦於任那 詔大伴金村大連 遣其子磐與狭手彦 以助任那 是時 磐留筑紫 執其國政 以備三韓 狭手彦往鎭任那 加救百濟」としたが、大伴兄弟は危険分散を図り磐は筑紫にとどまり、狭手彦は朝鮮半島に渡り任那を鎮圧し、百済を救済したようである。おそらく稲目は金村を亡き者にしようとしたが大伴兄弟が父の金村に何かがあったらすぐにも帰国態勢に移行するようだったので稲目は金村暗殺を断念した。当時は蘇我氏の力もさほどではなく大伴兄弟の返り討ちにでもあったら元も子もなくなるので自重したのであろう。当時は中央豪族の物部麁鹿火や大伴磐・狭手彦と地方豪族の近江毛野との力量差は歴然としていたようだ。特に、大伴磐・狭手彦兄弟は現今で言う大企業社長の御曹司で換言すれば「バカ息子」という感じだったのではないか。そんな人たちの足元にも及ばない地方豪族とは何だったのだろう。

★安閑天皇が膨大な屯倉を設置した理由は何か

安閑天皇二年五月の条にたくさんの屯倉が設置されたことが記されているが、これには諸説あり、1.事実である(すべてが正)、2.嘘八百である(事実ではなく後付けの空想。通説的見解か。)、3.過去の著名な屯倉をならべた、4.反乱(例、筑紫国造磐井の乱)鎮圧の際に敗者から提供されたもの等が言われているが、以下、該当箇所を『日本書紀』から抜粋して、検討を加えてみる。

二年春正月戊申朔壬子 詔曰 間者連年 登穀接境無虞 元々蒼生 樂於稼穡 業々黔首 免於飢饉 仁風鬯乎宇宙 美聲塞乎乾巛 内外清通 國家殷富 朕甚欣焉 可大酺五日 爲天下之歡○夏四月丁丑朔 置勾舍人部・勾靭部
○五月丙午朔甲寅
置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉
豐國碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉 【取音讀】  大拔屯倉・我鹿屯倉 【我鹿 此云阿柯】
火國春日部屯倉
播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉
備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉
婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉
阿波國春日部屯倉
紀國經湍屯倉 【經此云湍 俯世】 河邊屯倉
丹波國蘇斯岐屯倉 【皆取音】
近江國葦浦屯倉
尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉
上毛野國綠野屯倉
駿河國稚贄屯倉
◯秋八月乙亥朔 詔置國々犬養部
◯九月甲辰朔丙午 詔櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等 主掌屯倉之税
◯丙辰 別勅大連云 宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原 冀垂名於後

二年春正月の前口上はどこかの書物を引用したような自画自賛で、夏四月は自分の身の周りの安全を図り勾舍人部・勾靭部を置き、五月には諸国に二十六の屯倉を設置、秋八月には諸国(屯倉を設置した国々であろう)犬養部を設置、九月には櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等に屯倉の税業務を主掌させ、別に金村に牛の放牧を難波の大隅嶋と媛嶋で行うよう勅している。よって自分の名が後に残る、と言うのであろう。但し、牧は後世廃止されているようである。

屯倉の設置地域は、
九州北部(筑紫国、豊国、火国)屯倉数8箇所
中国・四国(播磨国、備後国、婀娜國、阿波國)屯倉数10箇所
近畿地方(紀国、丹波国、近江国)屯倉数4箇所
東海地方(尾張国、駿河国)屯倉数3箇所
関東地方(上野国)屯倉数1箇所
以上、26箇所の屯倉の内半数以上の18箇所が九州北部と中国・四国地方に偏っており、この地域を重視した設置と思われる。
地理的には比定地にもよるが内陸部が多い。地名の配列に規則性がないので錯乱しているという説もある。
安閑天皇の「在位中、全国各地に30余りの屯倉(みやけ)が設置されたと伝えるのは、安閑朝が動乱期であったことを示すものであろう。」[黛 弘道博士]

置國々犬養部
犬養部は屯倉の守衛のために犬を飼養し番犬などとして飼っていたようである。主なる上級伴造は県犬養連(祖神:神魂命、本貫:河内国茅渟県(後世の和泉国)か河内国古市郡)、若犬養連(祖神:火明命、本貫:和泉国日根郡犬飼村か、門号十二氏の一つ(若犬養門<後に皇嘉門>)、『新撰姓氏録』和泉神別、河内神別<若江郡の古族か>)、海犬養連(祖神:海神綿積命、本貫:筑前国那珂郡海部郷、門号十二氏の一つ(海犬養門<後に安嘉門>)、阿曇犬養連(祖神:海神綿積命、本貫:海犬養連と同じと言うが、摂津国西成郡安曇江の辺りという説あり。阿曇犬養連は『新撰姓氏録』摂津神別にしか現れない)
屯倉や大蔵、内蔵、宮城門などの守衛は大和朝廷が始まって以来存在したことだろうが、このたびの犬養部設置は短期間で大量に屯倉を設置したので海部を割いて犬養部を設置したものであろう。旧来の倉庫係と思われる椋(くら)連氏や巨椋(おおくら・おぐら)連氏、大椋(おおくら)置始(おきそめ)連(県犬甘同祖)氏などと同族と主張している犬養氏もいるようだ。犬養の地名と三宅の地名が近接地にあるのも犬養氏が屯倉の守衛という根拠とされる。

櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等 主掌屯倉之税
税務行政も予定しているのでかなりの収入を見込んでいるのであろう。収入を天皇と元々蒼生(おほみたから・百姓)と分かち合うというのである。

別勅大連云 宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原 冀垂名於後
当時すでに牛の畜産業なんてあったのか。この牛は食用牛や乳牛ではなく使役牛(牛車、農耕牛など)であったと思われるが、天皇も現今で言う高級外車がほしかったと言うことか。おそらく、水田稲作の人手不足を解消するためスイギュウの増殖を行ったことと思う。当時の馬は現在のポニーのような大きさで1牛力=1.5馬力くらいに換算され安閑天皇、大伴金村大連は牛に目をつけたのだろう。その牛をどこから輸入したかも問題だ。水田稲作にスイギュウを使うのは東南アジアに多いという。文面から判断するなら、当時の庶民はまだ牛を飼うことはできず、大連即ち大伴氏が牛の繁殖・育成を行い、成牛になったら雌牛は大伴氏が次の繁殖に回し、雄牛は田部等に払い下げられたのではないか。当時の牛は、2011/06/17の産経新聞の報道によると、「1300年前の馬も過労だった!?」<天武天皇(在位673~686年)の時代に造営が始まったとされる奈良県橿原市の藤原宮跡(特別史跡)で、造営期に建築資材を運んだ運河跡から見つかった馬の後ろ足の骨に、過度な運動による関節炎のような症状があることが17日、奈良文化財研究所の分析でわかった。奈文研によると、馬の骨の病変が見つかる例は珍しく、労役で酷使されたことが原因ではないか、としている。>当然のことながら、農耕牛も同じような状況にあったのではないか。

以上を検討してみると、

日本は応神天皇この方朝鮮半島政策は基本的に百済に肩入れして、応神朝では弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝。百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭の馬を阿知吉師(あちきし)に付けて献上した。和邇吉師(わにきし)が論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を持って来朝。手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき、などとあって、新羅からの来朝者もあったが百済からの来朝者が圧倒的に多かった。話は大きく飛んで、雄略天皇の時代にも「雄略天皇廿年冬 高麗王大發軍兵 伐盡百濟」「同廿一年春三月 天皇聞百濟爲高麗所破 以久麻那利賜汶洲王 救興其國」(雄略20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略天皇は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させた)とあり、大伴金村が「改使而宣勅 付賜物并制旨 依表賜任那四縣・・・或有流言曰 大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣」(使いを改めて宣勅す。賜物並びに制旨を授けて、表(百済の上表文)によりて任那四縣を賜う。ある人つてごとして曰く、大伴大連と哆唎國守穗積臣押山と百済の賂を受けたり)<任那四県割譲事件>とあり、四県割譲がそんなに大きな意味を持たないと思うのだが、とにかく、継体天皇治世の朝鮮半島任那への出兵(継体21年、近江毛野を大将とし、六万人の兵が向かったという)は我が国の経済を疲弊させたようである。この出兵の状況を有り体に言うと、継体天皇が六万人の兵員を用意し近江毛野につけてやったわけではなく、毛野が途中で兵員を集め朝鮮半島へ渡ると言うことで、六万というのはその予定数だったと思われる。当然、各地域の割当数は朝鮮半島に近くなるほど多くなり、六万の数を割り当てるなら、私見で恐縮だが、九州北部が三万、中国四国が二万、畿内ほかが一万となったのではないか。当時の人口がどれほどかは解らないが、地域の経済活動に大きな影響を及ぼすこんな数値なんて受け入れられるはずもなく、近江毛野は徴兵の段階で筑紫国造磐井と争うことになった。十分な兵員のいなかった毛野は当初は筑紫国造磐井に押され気味だったが、物部麁鹿火大連の援軍により朝鮮半島に渡った。しかし、彼は兵法が解らなかったのか、朝鮮半島に渡った著名将軍たち(例、応神天皇と仁徳天皇、大伴磐と大伴狭手彦)とは違い前線の将軍と後方のロジスティクス(兵站)の意味がわからなかったようだ。毛野の場合は軍事費ばかりがかかり成果はゼロに等しかったのではないか。働き手の男子は徴兵されるや物資は徴用されるで九州北部や中国四国の人は大変だったと思う。毛野は何の成果もないまま帰国したのであるが、安閑天皇の治世に入って真っ先に行ったのはその後始末であろう。不況の立て直しには古今東西を問わず公共事業が有効かと思うが、安閑天皇、大伴金村大連のコンビは屯倉の設置を行った。この屯倉というのは倉庫ばかりでなく国営田畑まで備わった百姓は労働と耕作技術を提供し、収穫を公(おおやけ)と私(わたくし)で分け合ったようである。屯倉の設置数も疲弊度の高い九州北部や中国四国を多くし、東日本へ行くに従って少なくしたようである。徴税吏員も櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士は大伴氏の勢力があった地域の人が多いのではないか。また、犬養氏は伴造の県犬養連、若犬養連は後世の和泉国を本貫としていたといい、これまた大伴氏の勢力下にあった人ではなかったか。海犬養連、阿曇犬養連は筑紫国を本貫にしていたという。九州北部の屯倉を重視していたからであろうか。但し、阿曇犬養連は摂津国西成郡安曇江の人という見解もあり、海犬養連氏ともども摂津国あたりあるいは和泉国、紀伊国海部郡の人だったのかも知れない。
一説によると、継体天皇の崩御後「継体・欽明朝の内乱(「辛亥の変」)」が起こり、継体天皇の次の天皇は欽明天皇であり、安閑、宣化の入る余地はない、とか、欽明朝と継体朝(安閑朝・宣化朝)の二朝が並立していた、とか、言う説があるが、安閑、宣化の両朝が天皇家の系図に入る余地がないのなら両朝の『記紀』における説話は全部事実ではなくなり、二朝並立の場合は主流が欽明朝で傍流が継体朝となるようだ。安閑、宣化両天皇が実在しなかったならば、安閑紀にある屯倉の設置の話などはせいぜい大伴金村大連の計画倒れと言うことになるのだろう。しかし、実際には屯倉のその後の話は宣化朝、欽明朝と続いており、
宣化紀には
「宣化元年夏五月 脩造官家 那津之口 又其筑紫肥豐 三國屯倉 散在縣隔 運輸遥阻 儻如須要 難以備率 亦宜課諸郡分移 聚建那津之口 以備非常」とあり、
欽明紀には
「欽明16年秋七月己卯朔壬午、遣蘇我大臣稻目宿禰・穗積磐弓臣等、使于吉備五郡、置白猪屯倉。」
「欽明17年秋七月甲戌朔己卯、遣蘇我大臣稻目宿禰等於備前兒嶋郡、置屯倉。以葛城山田直瑞子、爲田令。田令、此云陀豆歌毗。」
「欽明17年冬十月、遣蘇我大臣稻目宿禰等於倭国高市郡、置韓人大身狹屯倉言韓人者百濟也・高麗人小身狹屯倉。紀国置海部屯倉。一本云「以處々韓人爲大身狹屯倉田部、高麗人爲小身狹屯倉田部。是卽以韓人・高麗人爲田部、故因爲屯倉之號也。」
宣化、欽明両朝の屯倉の話を合わせると九州北部と中国四国の屯倉の話になるようだ。特に、欽明朝の屯倉設置に関しては蘇我大臣稲目宿禰の名が出てくるが、稲目は金村の意図するところは解らなかったが、屯倉は良く設置したようだ。

★まとめ

大伴金村や物部麁鹿火、はたまた、巨勢男人が、
一云 (1)凡牟都和希王娶杭俣那加都比古女子 名弟比彌[賣]麻和加 生兒(2)若野毛二俣王 娶母母思已麻和加中比彌[賣] 生兒(3)大郎子 一名(3)意富富等王 妹踐坂大中比彌王 弟田宮中比彌 弟布遲波良已等布斯郎女四人也
此意富富等王 娶中斯和命 生兒(4)乎非王 娶牟義都國造 名伊自牟良君女子 名久留比彌[賣]命 生兒(5)汗斯王 娶伊久牟尼利比古大王 生兒伊波都久和希 兒伊波智和希 兒伊波己里和氣 兒麻和加介 兒阿加波智君 兒乎波智君 娶余奴臣祖 名阿那爾比彌 生兒都奴牟斯君 妹布利比彌命也
(5)汗斯王坐彌乎國高嶋宮時 聞此布利比彌[賣]命甚美女 遣人召上自三國坂井縣 而娶所生 (6)伊波礼宮治天下乎富等大公王也

(上宮記に曰く、) 一(ある)に云う。 凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)杭俣那加都比古(くいまたなかつひこ)が女子(むすめ)、名は弟比彌麻和加(おとひめまわか)を娶りて生める兒は若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)。 母母恩已麻和加中比彌(ももしきまわかなかひめ)を娶りて生める兒は大郎子(おおいらつこ)、一の名は意富富等王(おほほとのみこ)・妹(いも)踐坂大中比彌王(おしさかのおおなかのひめみこ)・弟(おと)田宮中比彌(たみやのなかひめ)・弟(おと)布遲波良己等布斯郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)四人(よたり)。
この意富富等王、中斯和命(なかつしわのみこと)を娶りて生める兒は乎非王(おひのみこ)。 牟義都國造(むげつのくにのみやつこ)、名は伊自牟良君(いじむらのきみ)が女子(むすめ)、名は久留比彌命(くるひめのみこと)を娶りて生みし兒は汗斯王(うしのみこ)。 伊久牟尼利比古大王(いくむねりひこのおおきみ)が兒の伊波都久和希(いはつくわけ)‐兒の伊波智和希(いはちわけ)‐兒の伊波己里和氣(いはころわけ)‐兒の麻和加介(まわかけ)‐兒の阿加波智君(あかはちのきみ)‐兒の乎波智君(おはちのきみ)、余奴臣(よぬのおみ)の祖(みおや)名は阿那爾比彌(あなにひめ)を娶りて生みし兒の都奴牟斯君(つぬむしのきみ)が妹(いも)布利比彌命(ふりひめのみこと)を娶りき。
汗斯王(うしのみこ)彌乎國(みおのくに)高嶋宮(たかしまのみや)に坐しし時に、この布利比彌命(ふりひめのみこと)甚(いと)美(うるわし)き女(みめ)と聞き人を遣わして三國坂井縣(みくにのさかないのあがた)より召し上げ、娶りて生める所は、伊波礼宮(いはれのみや)に天の下治しめしし乎富等大公王(おほとのおおきみ)なり。

上記のような系図を継体天皇に見せられても「またか」と思ったのではないか。おそらく当時の地方の中小豪族はほとんどがその種の系図を持っていたものと思われる。おそらく古墳時代にあっても<偽系図作り>の職業がすでにあったのではないか。大伴金村らが天皇の選定を急いだのは新天皇のご先祖さまの貴賤ではなく一刻も早く世の中を安定させ、紛争や対立を起こさないようにしようとしたためであろう。それに、凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)などというのは垂仁天皇の第一皇子<本牟都和気命>のことではないかと難癖をつける人物も現在では少なからずいるのではないか。
新しく事業を興そうとするなら人、物、金が必要であるが、大伴氏はそのほとんどを提供しているのではないか。当時は貨幣経済の時代ではなかったので金の代わりに土地と言うことになろうかと思う。不況対策としての屯倉の設置が成功したかどうかは解らないが、おそらく疲弊度の高かった九州北部は「宣化紀」に「宣化元年夏五月 脩造官家 那津之口 又其筑紫肥豐 三國屯倉 散在縣隔 運輸遥阻 儻如須要 難以備率 亦宜課諸郡分移 聚建那津之口 以備非常」とあり、順調には行っていなかったようで筑紫肥豐三國の屯倉の貨物を那津之口に新設の官家に集積し修正を加えている。あるいは、「海表之國 候海水以來賓 望天雲而奉貢」とあるので、屯倉の設置は外国からの侵略に備えるためと言う向きもあるが考えすぎであろう。また、中国地方では欽明朝に『日本書紀』では欽明16年秋七月と欽明17年秋七月の二回だが蘇我大臣稲目宿禰を派遣し、屯倉を追加して設置している。欽明朝では、また、倭国高市郡や紀国海部郡という大伴氏の勢力下に屯倉を設置しているので大伴氏の勢力を削ぎ、天皇や蘇我氏の懐を暖めようとしたのではないか。この種の事業は短期集中で行うのが成功の正鵠かと思うが、安閑・金村コンビは要点をつかんでいたと思う。安閑天皇は在位が最長でも四年間と言うことで成果を見る(懐を肥やす)暇はなかったと思われる。
屯倉の設置が、継体・欽明の二朝並立の継体側の戦費調達手段と考えても安閑・宣化がなぜ九州北部や中国四国地方と結びつくのか解らない。
豪族の大伴と蘇我の覇権争いとも考えられるが、『日本書紀』欽明23年8月には大伴狭手彦が高句麗を討伐し、多数の珍宝を獲て天皇、稲目に献上したとある。天皇には七織帳だけだが、稲目には甲二領・金飾刀二口・銅鏤鍾三口・五色幡二竿・美女媛(媛、名也)幷其從女吾田子、送於蘇我稻目宿禰大臣。於是、大臣遂納二女、以爲妻居輕曲殿、とあり、女性まで贈っている。大伴が蘇我に潰されないための贈り物攻勢の一環か。
以上より判断すると、安閑朝の多数の屯倉設置は不況対策、経済活性化のためではなかったか。

 

 

 

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