大彦と大伴

★はじめに

大彦も大伴も、はたまた、大王(おほきみ)や大久米も命名の発想は同じで、おそらく、彦も伴も王(きみ)も久米も何らかの地域や職域や同位者の長であり、その長を束ねる者あるいはそのヒエラルキーの頂点に立つ者が大彦なり大伴なり大王、大久米と呼ばれていた者なのだろう。彦は『魏志倭人伝』によると対馬国や壱岐国の長官で言わば畿内から遠く離れたところの遠隔地の中小豪族なのだろう。伴ははっきりしないが国語で「共」とか「等」とか書いて「とも」というのは「複数をあらわす意味である」という見解があり、複数の最小単位である二(二人)を「つま(tuma)」と言いそれ以上は「とも(tomo)」と言う、とする説がある。従って、「とも」とは同業あるいは同種の職の人のグループを言うか。王(きみ。君、公)は天皇の血筋につながる畿内の中小豪族を言うか。久米は、また久味(くみ)とも言い、「くみ」は漢字で書くと「組」となり、組織的な人の集まりを言うか。『記紀』の久米氏は軍事的性格が強いようなので、現今で言う師団とか旅団とか連隊を言ったものか。我が国でも戦後一時期までは企業の社名にも○○組とか××組とつけていた会社があった。しかし、組が組織の意味を持つ最盛期は江戸時代であり、上古にそんな意味があったのか、と言われれば少し問題が生じるが、組(くみ)の語源は「紐などを組み合わせる」意のクムの連用形という。即ち、AとBとをつなぐとか結ぶとか言うのに似ているというのだろう。その意味で、組(く)む、含(くく)むは「含めて仲間にする」意と言い、くみする(与する、組する)「クミ(組・仲間)」+「する」仲間になる、などは早くからあったという見解もある。
日本の上古における組織の成り立ちは中小豪族の寄り集まりという見解もあり、彦、伴、王、久米なども元々は中小豪族であり、言葉は悪いが、その力の弱い烏合の衆を大きな組織としてまとめ上げたのが大彦や大伴、大王、大久米ではなかったか。

★大彦などはたくさんいたのか

上古にあっては彦とか伴(伴造)とか君とか久米とかはあちこちにいたようなので、大彦などと称する人はあちこちにいたのか、と言うことである。例として、
大彦なら『記紀』には「第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。」とある大彦命と埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」とがある。現在は両者は同一人物と考えるのが多数かと思うが、別人と考える向きもあるだろう。
大伴に関しても『記紀』には大連(おおむらじ)で著名な大伴氏のほか、
『古事記』景行天皇「此之御世、定田部、又定東之淡水門、又定膳之大伴部、又定倭屯家。又作坂手池、卽竹植其堤也。」
『日本書紀巻第七』景行天皇五十三年冬十月、「於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。」
とあり、ややニューアンスは違うものの東日本の大伴部は大伴大連氏とは関係がなく膳大伴部のことというとの説がある。但し、景行天皇の時代に「部」制度があったかは大いに疑問であり、また、「部」字の始用については、6世紀以降とする説や、天智朝の「庚午年籍(こうごねんじゃく)」からとする見解もある。そもそも、「大伴」の概念も景行天皇の頃にできたと思われ、「大伴部」は後世の作文かと思われる。
大王(おおきみ)は、キミ(君・公)のカバネは古くは在地の首長に対する尊称であったが、後にカバネに転用され『日本書紀』によると「公」は皇族の後裔と称する氏族に、「君」は地方の有力豪族(皇族系を含む)が称したようである。有り体に言えば天皇家の一強と中小豪族の多弱の世界であり、天皇家以外の使用は考えられないようである。
大久米については、久米は「組(くみ)」の意で「国を組むと言うことに起因する」という見解もある。即ち、久米氏は日本の国を組織化して国の態をあらしめた氏族と言うことになるのだろう。しかし、その後の久米氏は神武天皇の直属の軍隊として活躍している。このように直属の軍隊(久米)を持っていた氏族として天皇家のほか吉備氏、伊豫氏(伊予津彦命の子孫。四国は別名伊予之二名嶋と言い伊予国に最大勢力があったようである。)があろうかと思う。大伴氏については吉備氏への対抗上そのような組織はあったかと思うが、はっきりはしない。なお、『新撰姓氏録』には久米氏として二流が登載されているが、一方は天皇家の久米で、他方は大伴氏の久米か。天孫降臨の際、『古事記』の伝承では天忍日命・天津久米命が同格と言い、『日本書紀』・『古語拾遺』の伝承では同格ではなく天忍日命が大来目を従えるという異同があるが、おそらく天忍日命が従えたのは大伴氏の大久米であり、天皇家の大久米ではないと思う。但し、『新撰姓氏録』の両久米氏はいずれも上級伴造の大伴氏の系図を冒したものとする説もある。おそらく、大久米は大和国ばかりでなく、吉備国や伊予国、摂津国にも存在していたのではないか。いずれも今で言う各国の防衛大臣である。

★「大」の意味

一般に大彦、大伴、大王、大久米の「大」は同位者の中の第一位の者と考えられている。自力でその地位に就いたものか、はたまた、他の同位の者に推されてその地位に就いたものかは解らないが、世襲的地位を獲得したのは大王即ち天皇家であとはその臣下となり臣とか連とかのカバネを授与され国政に参画したようである。従って、ここで言うカバネに「大」の字がつく人はそのカバネの中の最有力者と言うよりはそのカバネの長として指揮、監督した人ではないのか。具体的には、大彦なら「彦」カバネの人は地域の首長が多いようなので一定地域を支配した人で現代的には市区町村長のカバネが彦なら市区町村をまとめた都道府県の知事のような人を言ったのではないか。また、大伴については「伴」は、殿守(とのもり)・水取(もいとり)・掃守(かにもり)・門守(かどもり)・史(ふひと)など天皇の内廷の業務やあるいは鍛冶(かぬち)・鞍部(くらつくり)・錦織(にしこり)・陶部(すえつくり)・呉服(くれはとり)など技能職を連想する向きも多いかと思うが、現実には現在の国家の統治権である三権に相当する業務を行わなければならず、大和朝廷の特定の職務(主として現在の行政に関する業務)を世襲的に分掌する官人集団即ち「伴」が発生した。その後、伴にも身分差が生じ伴造(トモノミヤツコ)―伴(トモ)―品部(シナベ、シナジナノトモ)の階層が生じ、さらに「臣、連、伴造、国造、百八十部」と分化し、その百八十部(モモアマリヤソノトモ)が伴に該当し、伴造のもとで多くの職務に分掌し、それぞれに品部を率い、朝廷に奉仕した。大伴とはこれら伴造を統轄するものであり、伴造は現在の各省庁大臣に相当し、大伴とは、畢竟、現今の内閣総理大臣に相当すると思われる。従って、大伴の氏の名が最後まで残ったのはその必要性からではないのか。大王は風にそよぐ葦のごとく、あるいは、小が大を飲むごとく、時代を読み、大豪族を取り込み自己の支配を完成したようだ。大久米は言わば各氏族の護衛隊のような軍隊で親衛隊とか近衛兵などと言われた類いの人ではなかったか。日本では古代にあっては武門の名家などと言ってもこの種の氏族がほとんどで、現在の自衛隊に相当する軍隊は事変が起きたつど各豪族に呼びかけて兵員を供出してもらい軍隊を編成したのではないか。何分にも当時は常備軍を持つと言うことは相当の経済力を持っていなければならなかったかと思う。失礼ながら天皇家は御身ご大切とばかりに、自分を守るのにキュウキュウとしていた。例えば、『魏志倭人伝』では「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛(宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。)」とか「『令集解』職員令左衛士府条に引用される弘仁2(811)年11月28日付太政官符に大伴氏が靭負3000人を領して左右分衛した」とか、天皇も枕を高くして寝るにはこのくらいのことをしなければならなかったと言うことか。久米氏の没落が早かったというのも皇宮警察的業務から自衛隊的業務への転換が円滑にいかなかったからではないか。後任は大伴氏で天皇家の大久米も大伴氏の大久米も大伴氏の配下に入ったと言うことだろう。

★まとめ

大彦、大伴、大王、大久米はみんな一角の人物であり、中小豪族を束ねただけの大王がどうして国のトップに躍り出たかは不明であるが、神武天皇の懐柔策が功を奏したのか。神武天皇の自己保身も強烈で北の丹波氏対策としては現・京都市の賀茂氏を当て、西の吉備氏対策としては現・神戸市の大伴氏を当て大和の守りを鉄壁にしたのであろう。大和朝廷草創期では、神武天皇の時代は道臣命、大久米命、八咫烏が活躍し、崇神天皇の時は四道将軍、即ち、『日本書紀』に言う、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の四人の将軍が全国制覇に乗り出した。垂仁天皇の時代には、垂仁五大夫(すいにんごたいふ)として、『日本書紀』には「阿倍臣遠祖武渟川別、和珥臣遠祖彦国葺、中臣連遠祖大鹿嶋、物部連遠祖十千根、大伴連遠祖武日、とある。大彦系と大伴系の氏族が息長く活躍していることが解る。しかし、物事に難癖をつければ切りがないところで『記紀』では大彦命を崇神天皇の伯父で岳父と位置づけているが、一説では垂仁天皇の時代の人と曰っている。大彦命は三輪王朝の創設者の一人であり、道臣命(大伴氏)は磐余王朝の創設メンバーの一人か。大伴氏は磐余王朝の創設期にも、はたまた、垂仁五大夫にも名を連ねているので磐余王朝とか三輪王朝とか言っても両者はまったく無関係の王朝ではないと思う。阿倍氏や和珥氏は実務能力もさることながら天皇に娘を嫁がせ繁栄したようだ。大伴氏は長期にわたって大和朝廷を支えた実務派だったようだ。

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