日本神話の継承者

★はじめに

『記紀』で取り上げている神話の主なる発祥地域としては、1.九州北部(元祖の英雄神は須佐之男命と天照大神)、2.出雲を中心とする日本海沿岸(元祖の開拓神は大国主命)、3.大阪湾沿岸域(元祖の創造神は伊弉諾尊と伊弉冉尊)、4.熊野(上古の熊野国。主祭神は高木神。)が主なもので、ほかに人皇間際になって九州南部の東南アジア系神話も取り入れられているが、当時の政治情勢の結果と思われ割愛する。また、人皇になってからの英雄譚を神話と取り上げる向きもあるが問題外として日本神話には取り入れない。神話と言うからには人間の物語に似せてはいても神は全知全能であり、従って、人間ができないようなことでもできてしまい、人間にとっては非常識なことでも神にとっては正常なことなのである。
ところで、男性のY染色体DNA型で日本人にあるハプログループは、D1b系統、O1b2系統、O2系統、C1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統があり、特に前3系統で日本人全体の約8割以上を占めているという。その先祖を訪ねるため、各ハプログループの発生と移動を見てみると、

1.ハプログループD1b
約6万年前頃にアルタイ-チベット近辺でハプログループDEからハプログループDが誕生したと推定
ハプログループDのうち、東進して日本列島に至り誕生したのがハプログループD1b
アルタイ-チベット付近にとどまったグループから誕生した系統がチベット人に高頻度のハプログループD1a
縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた。約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1bが誕生。(アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー説)
ハプログループDが華北を経由し九州北部に到達し、日本列島でD1bが誕生。(崎谷満説)
移動ルートは中央アジア、シベリア、北海道(マイケル・F・ハマー説)とアルタイ山脈麓、華北、朝鮮半島、九州北部(崎谷満説)
2.ハプログループO1b2
ハプログループO1b2は日本人及び朝鮮民族に高頻度である。頻度は26% -36%
日本人(和人)に高頻度でアイヌ民族には見られない。弥生時代以降の水稲農耕民
O1b2に属す集団は2800年前に中国江南から山東半島、日本列島から朝鮮半島へ水稲栽培をもたらしたとしている説がある(崎谷満説)
移動ルートは中国江南地方、山東半島、九州北部、朝鮮半島か。
3.ハプログループO2
日本人の頻度は約20%。漢民族(最大65.7%)、ビルマ系民族(最大86.7%)、朝鮮人(最大50.9%)に高頻度
日本国内の分布は九州北部~本州中部に多い
一部は弥生人として縄文時代に日本にミレット農耕(生産性が低い環境に育つ小規模に作付けされた雑穀栽培)をもたらしたが、その大部分は弥生時代以降の中国大陸及び朝鮮半島からの流入であろう(崎谷満説)
移動ルートは中国大陸、朝鮮半島から九州北部か。

以上をまとめてみると、日本の男性の半数が中国人、朝鮮人末裔のY-DNA O系統に属し、渡来時期もせいぜい3000年ほど前だ。おそらく、中国大陸や朝鮮半島の沿岸部からやって来たものと思われる。その頃の中国大陸と言えば秦や前漢の時代で秦や前漢の滅亡のたびに難民が日本に押し寄せてきたのだろう。難民なので高度の技術を持っている人もいれば、何もできない人もいたのだろう。日本で歓迎されたのは水稲栽培の技術で長江流域や江南の人は歓迎され、黄河流域や朝鮮半島の人はあまり歓迎されなかったようだ。朝鮮半島の水稲栽培は日本人(倭人)が伝えたとの説もある。従って、日本神話の故郷も長江流域や江南方面にあると考えるのが常識かも知れないが、一方では日本神話の内容は北方系という説もある。あれやこれや考えると日本の文明の起源は長江文明、黄河文明、遼河文明と言うことになるのだろう。序列をつけるのは何だが、一番日本への影響が大きかったのは長江文明、次いで遼河文明、あまり大きな影響を与えなかったのは黄河文明と言うことかと思う。従って、中国、朝鮮、日本は同じ人種と言ってもその文明や文化の成り立ちは異なるようだ。

★『記紀』が採用した神話とは

日本神話の類型を古さから言うと1.伊弉諾尊、伊弉冉尊 2.素戔嗚尊、天照大神 3.高木神 4.大国主命と言うことになろうかと思われる。1.伊弉諾尊、伊弉冉尊の神話は中国の「伏羲・女媧」神話を始め中国、東南アジア、インドに類似の神話が多いという。また、始祖となった男女二柱の神の最初の子が生み損ないになるヒルコ(蛭子、蛭児)説話も世界的に多いらしい。これは近親婚を戒めたものという。2.素戔嗚尊、天照大神の神話は伊弉諾・伊弉冉のバリエーションの一つかと思われる。3.高木神は後ほど高皇産霊尊となるが、私見で恐縮かと思うが天皇家の出身母体を山部と解釈するなら高木(こうぼく)信仰があってもおかしくはないのではないか。一応、その本性としては、朝鮮古代の起源神話(檀君神話など)と同一系統神、太陽神、神社の神木の起源ともなった農耕神など。4.大国主命の神話は限りなく日本海側沿岸の開拓神と言おうか開拓者にまつわる説話が多い。大国主命には多くの別名があり、あちこちに出向いて開拓や土賊掃討などを行ったのではないか。但し、それぞれの神名による神話を大國主神に統一したという説もある。
『記紀』の編纂者はおそらく「伊弉諾尊・伊弉冉尊」神話のみを採用しようとしたのであろうが、あちこちから横やりが入り、結局、「伊弉諾尊・伊弉冉尊」神話を主軸にほかの神話をその傘下に置いて一つの神話にまとめようとしたようである。
以上より考察すると『記紀』にある日本の神話は主として中国大陸から水稲稲作とともに導入されたものなのであろう。その導入時期は弥生人とともになのか、はたまた、国史編纂の間際になって導入されたものかははっきりしない。『古事記』で出雲神話の取り上げ方が少しばかり多いのは当時にあって大和神話は未だ未完成であったか。

★日本の神話を継承してきた人々

日本の畿内の神話、九州北部の神話、熊野の神話、出雲の神話にはそれぞれ代々継承する人がいて少なくとも飛鳥・奈良時代までは存在していたと思われる。無論、平安時代の『延喜式』にも語り部は出てくるが、これは変質した語り部であろう。継承方法としては語り部による継承が主なもので文字による継承は補助的なものではなかったか。上記神話発祥四地域の共通点としては、1.海部(海人族)が勢力を持っていた地域であること 2.語り部がいたことである。特に、資料が割とはっきりしている畿内と出雲を見ると、
1.海部に関しては、当時は半農半漁の時代で、現今で言う漁師ばかりでは生業とはなり得ず水稲稲作は無論のこと船による交易も行っていたのではないか。その商圏としては出雲の場合は現在の出雲市を拠点に出雲神族により現在の新潟県糸魚川市から福岡県宗像市の日本海沿岸地域を交易の場としていたのではないか。一方、畿内の場合は後世の大伴氏が摂津国雄伴郡(現・神戸市兵庫区南部か)あるいは摂津国西成郡雄惟郷(大阪市中央区あるいは南区の三津寺町・畳屋町・笠屋町など)を拠点に現在の兵庫県加古川市から和歌山市までの大阪湾岸、淡路島、徳島市から愛媛県松山市までの四国沿岸を商勢圏として交易を行っていたのではないか。
海部に関しては『魏志倭人伝』にも「無良田食海物自活乗船南北市糴(良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。)」(對海【馬】國)とか「差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴(やや田地ありて、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。)」(一大國)とかあって、当時の人にあっても足らざるところは交易により必要物資を入手していたようである。産業としての漁業は「好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之(よく魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。)」とあり、今とは違いほとんどが潜水漁法だったようである。即ち、海部の本業は交易と漁業であったようである。水稲稲作は『魏志倭人伝』では対馬、壱岐は田地が悪いようなことを言っているが、技術的に未だしの感があったのではないか。
2.語り部
語り部とは古伝承を宮廷の儀式で奏上した品部で、早い時期(天武天皇の頃が最盛期か)に宮廷の儀礼に入れられたと考えられている、と言う。現在残っている具体的な内容は平安時代のもので、『延喜式』によると、践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に、伴宿禰、佐伯宿禰は、美濃8人、丹波2人、丹後2人、但馬7人、因幡3人、出雲4人、淡路2人の語部を率いて参加し、語部の古詞(ふるごと)を奏した。「其(そ)の音、祝詞(のりと)に似たり」という古詞の内容は現在伝えられていない。しかし、語り部と言っても一様ではないようだが、ここで言う語り部とは「上古之世,未有文字,貴賤老少,口口相傳,前言往行,存而不忘。」と言う齋部廣成の『古語拾遺』が言った<口口相傳,前言往行,存而不忘>の部分で、文字と紙と筆記具が導入される前は口承で記録を残し、口承の内容が石碑に刻まれたもののように永くから変わらず伝わっている(口碑)という役割を担った人々を言う。『出雲国風土記』に出てくる意宇郡安来郷の語臣猪麻呂(息子に語臣与がいたという)が具体的にどういうことをしていたかは解らないが、語部の伝承方法は一族による相伝であったと言う。おそらく一般に語り部と言えば宮廷儀式における古伝承の奏上者なのであろう。『延喜式』には、左、右衛門がこれらの語部を集めて古詞を唱える練習をしたとあるので、宮廷における語り部を統轄していたのは伴氏、佐伯氏だったか。かっての武門の家柄も平安時代に入ると合唱隊の指揮者と言うことか。語り部にはほかに天語連とか海語連と言うのも出てくるが、現今で言う宴会における太鼓持ちのことか。そんなことを言ったら身も蓋もないので、一応、漁民集団の贄(にえ)の貢進にまつわる服属の古詞を奏するものが海語部で、その伴造が海(天)語連だったという。天語連のみが『新撰姓氏録』に登載されている。『日本書紀巻第二十九天武天皇紀下』「天武天皇十二年九月乙酉朔丙戌、大風。丁未、倭直・栗隈首・・・語造、凡卅八氏賜姓曰連。」この語造から語連になった氏が『新撰姓氏録』に言う天語連なのか。

海部は交易をも生業にしていたと思われるが、舟の移動はスピーディーであり、大量の輸送をも可能にしたのではないか。しかし、山部の交易が内々のものであったのに対し、海部の交易は最初から遠隔地の外部との取引であったのではないか。例えば、狩猟での取り分が前回と今回が違うなどと言っても村人同士なら村長さんの一存で、家族の間なら家長が鶴の一声で解決しただろうが、仲裁者のいない第三者との取引ならば争いになりかねない。そこで、何らかの記録をする者が必要になったかと思う。当時は記録媒体や記録用具はなかっただろうから何らかの方法でそれを補わなければならなかったと思われる。そこで考案されたのが語部による記録ではなかったか。出雲国の交易船団には必ず記録係と言うべき語部と意思疎通を図る訳語・通事(いずれも<おさ>と読む。現今の通訳。)が必ず同道したのではないか。船団が大がかりなものになっていることについては、兵庫県豊岡市の袴狭遺跡から出土した船団を描いたと思われる線刻画木製品(4世紀頃か)に顕著である。また、この語部の記録というものはかなりの秘匿事項ではなかったか。例えば、当時は物々交換がほとんどだったと思われるが、交換比率は諸般の事情により取引相手ごとに別々だったのではないかと思われるが、それが漏れては出雲なら出雲と遠隔地の取引先との商売が混乱してしまい取引不能になってしまう。出雲の語部の分布は濃密などと言われていて、他の国の語部は無姓(備中国に直の姓を持つ氏がある。)なのに対し、出雲国は『出雲国大税賑給暦名帳』などに臣、君、首などの姓を持つ語部氏がいた。なお、語部君族猪手なる人物がいて君族なる姓を解く向きもあるがこれは君と解すべきではないか。出雲国だけに有姓の地方伴造がいたのは出雲は早くに語部の管理者である出雲神族の人々が倭国に移ってしまい残された語部諸氏の旧来の語部業務は雲散霧消してしまったのではないか。そこで新しく入ってきたのは古伝承を宮廷の儀式で奏上すると言う大和朝廷の仕事ではなかったか。多くなりすぎていた旧来の語部に姓を与えて序列を設けたのであろう。一方、畿内の語部については文献に表れてくるものは皆無で、おそらく大伴氏が単独で管理していてその管理方法が厳しかったのであろう。大伴氏には大伴室屋の息子で大伴談という人物がいたが、談と言う名前は語部に多いという。おそらく語部の管理を行っていたと思われる。大伴氏と語部は関連性が乏しいように思われるが、大伴氏にあっては枢要な位置を占めていたのではないか。

★まとめ

日本神話を継承してきたのは、おそらく、出雲神話にあっては出雲神族、畿内神話にあっては大伴氏かとも思う。出雲神族については具体的には太安万侶で有名な多氏で、多氏は神武天皇の子の神八井耳命の後裔と称しているが失礼ながら眉唾物ではないか。太安万侶は天武天皇が、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した、と聞き、これはもっけの幸いと「こういうことができるのは当家(多氏)と大伴氏だけだ」と考え、早速、大伴氏に協同で国史編纂の申し入れをしたが、当時は体制派だった大伴氏はやんわりと断ったのではないか。そしてできたのが太安万侶一人により編纂された『古事記』だったのではないか。『古事記』は出雲神話の部分はいいが、人皇の代になると時代が下れば下るほど粗雑なものになった。おそらく、大伴氏の協力が得られなかったからであろう。大伴氏と多氏では国政参画の度合いが違い、国史編纂のような国家的事業には大臣や大連を経験した家柄の人を当てるべきではなかったか。但し、天武天皇が『帝紀』などというので皇族を多数任用しているがいかがなものか。何せ天皇家にはその種の資料はなく、かつ、天皇家直属の語り部がいたかどうかははなはだ疑問だ。大伴氏はと言えば肝心なところは教えてくれず、後世の大阪商人ばりに「俗姓・筋目にもかまわず、ただ金銀の氏系図になるぞかし」(井原西鶴『日本永代蔵』)というもののようだ。大伴室屋(倉庫の意味か。歴代天皇は大伴氏の倉庫の中身を狙っていたのだろう)とか大伴金村(金銀鉄を産出するところの意味か)など大伴氏に反感を持ったようなネーミングをしているところがある。蘇我蝦夷や蘇我入鹿の蝦夷や入鹿は彼らの本名ではないと言う説もある。大伴氏には彼らが集めたデータは口外しないと言う掟のようなものがあったのだろう。天皇に嫁いだ人がほとんどいないのも機密が漏れるのを警戒したためか。それ故か、大伴氏には豊富なデータがあったようで、顕著なのは『万葉集』かと思われる。『万葉集』の四千五百余首のうち相当部分は大伴氏伝来の門外不出の歌だったのではないか。『万葉集』の巻頭を飾るのが雄略天皇の御製歌と言うのもいかにも大伴氏らしい。

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