門部氏

★はじめに

門部と言えば門号十二氏のことと思いきや、門号十二氏の前に「門部氏」という氏族がいたようである。門号十二氏は、

丹比 山部 健部 的 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部 海犬養 猪養の十二氏で、ほとんどが前代の門守(大伴、佐伯)や屯倉の守衛(若犬養、海犬養、猪養は犬養の誤字か)、軍事氏族(丹比、山部、健部、的、玉手)で、あまり守衛と関係ないのは壬生と伊福部か。この二氏は現今で言う縁故採用された氏族か。犬養が多いのは『日本書紀』(巻第十八安閑天皇)「二年夏五月丙午朔甲寅 置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉 豐國尖碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉 火國春日部屯倉 播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉 備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉 婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉 阿波國春日部屯倉 紀國經湍屯倉・河邊屯倉 丹波國蘇斯岐屯倉 近江國葦浦屯倉 尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉 上毛野國綠野屯倉 駿河國稚贄屯倉 ◯秋八月乙亥朔 詔置國々犬養部」とあり、「現在では、犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっている。」とする。この場合の犬は猟犬や食肉犬などではなく、言わば軍用犬で現在でも自衛隊には海上自衛隊の警備犬(けいびけん)、航空自衛隊の歩哨犬(ほしょうけん)がいるそうな。屯倉守衛犬が放し飼いで使役されていたものか、はたまた、リードにつながれて使役されていたものかは定かではないが、犬養氏・犬養部は長続きしなかったらしく、その後、軍事氏族へ転向したようである。但し、犬養部を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連の4氏が存在したと言うが、県犬養連を除いては海人系氏族のようだ。この犬養は漁業とは関係なかったのだろうか。一応、門号十二氏は律令制以降の制度とすれば、それ以前にもその種の職掌の人はいたようで、早くも『魏志倭人伝』には「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」とあって、<守衛>の文字が見える。日本の文献では「『令集解』職員令左衛士府条に引用される弘仁2(811)年11月28日付太政官符に大伴氏が靭負3000人を領して左右分衛したとあり」が極めつきであり、後世でも左右衛門府の衛士の定員が各々600<厳密には、衛門府(定員400人)・左右衛士府(定員各600人)。その後時代が下るとともに衰えて行ったようである。>とあるので、雄略天皇の時代に比べ律令の時代になると人数は半減したか。雄略天皇は吉備氏を警戒していたようで、内応者にでも寝首をかかれては元も子もなくなるとばかりに大伴室屋に厳重に警備させたのであろう。
ところで、門部氏だが、『新撰姓氏録』に以下の二氏が載っている。

大和国 神別 天神 門部連 連 牟須比命児安牟須比命之後也

右京 神別 天神 波多門部造 造 神魂命十三世孫意富支閇連公之後也

いずれも、大久米命の子孫で、特に、前者は七拳脛命(ななつかはぎのみこと。日本武尊の東征の際の膳夫。)の孫(まご)で猪石心足尼(いいしごりのすくね)の子孫といい、久米氏・門部氏の嫡流という説もある。宮城十二門の各門に置かれた氏族を「門部(かどべ)」と総称し、門号十二氏の部民がその任に当たった、と言う見解もあるが、上述の門部氏はカバネもあり部民ではなく、律令前にあっては独立した後世で言う左右衛門督(かみ)ではなかったかと思われる。
後者は、途中で波多門部氏(波多を省略し単に門部と称した、と言う。)と波多氏に分かれ、波多氏には武内宿禰の長男である波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする波多氏が著名であるが、波多の地名は『和名抄』に、大和国高市郡波多郷、出雲国飯石郡波多郷、肥後国天草郡波多郷があり、中央豪族の波多氏はおおむね大和国高市郡波多郷出身であろうが、異流も多いようだ。
肝心の門部氏のご本家とも言うべき<久米氏>については、『新撰姓氏録』では、

左京 神別 天神 久米直 直 高御魂命八世孫味耳命之後也

右京 神別 天神 久米直 直 神魂命八世孫味日命之後也

の二流が記されている。いずれ双方とも「我が家が大久米命直系の子孫」と主張して譲らなかったのであろうが、久米氏は上記のように異流が多いようで、ほかに『新撰姓氏録』では<右京 皇別 久米朝臣 朝臣 武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也>と<大和国 皇別 久米臣 臣 柿本同祖 天足彦国押人命五世孫大難波命之後也>が登載されている。

★門部とは、海部、山部などと同じ頃に発祥した職業集団か

「部」の設置であるが、『日本書紀』に「応神天皇五年秋八月庚寅朔壬寅 令諸國 定海人及山守部」とあり、『古事記』応神天皇段に「此之御世定賜海部 山部 山守部 伊勢部也」とある。日本には血縁集団を表す用語に「カラ(柄)」と「ウヂ(氏)」、職業集団を表す用語に「トモ(伴)」と「ベ(部)」、後世の位階に相当するカバネを表す用語に「ムラヂ(連)」と「ヲミ(臣)」などがあり、いずれも前者が古く後者が出てくると徐々に一般的には使用されなくなった、と言う。前者の「カラ(柄)」、「トモ(伴)」、「ムラヂ(連)」などは『記紀』にのみ出てくる用語(特に、「トモ(伴)」、「ムラヂ(連)」)で、金石文、日本に関する外国文献にはなく、疑問視する向きがあるようだ。
まず、「トモ(伴)」は外国文献にないと言うが、『魏志倭人伝』に「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千余家」とあり、<多模>を内藤湖南博士はタマ(玉、魂)と解しておられるが、山田孝雄博士はトモ(伴造)と解しておられる。次いで、「ムラヂ(連)」であるが、『記紀』と同じ頃に出版された『風土記』にも山部連小楯とか石作連大来(『播磨国風土記』)や信太連(『続日本紀』)などがあり、ことさらに『記紀』ばかりを強調することはないのではないか。なお、臣の金石文は「埼玉県行田市稲荷山古墳から出土の鉄剣銘にみえる〈乎獲居臣*〉の〈臣*〉が〈臣〉の字ならば,臣の称号の用例は5世紀後半にまでさかのぼれる。」とある。「臣*」は金石文のため「臣」とは少し字形が違い、諸先生は神経質になっているようだ。また、「連(むらぢ)」は金石文に出てこないと言うのであろうが、一般に、臣が地域の有力者へのカバネであるのに対し、連は職域の有力者に対するカバネである、とされている。従って、「臣」は『魏志倭人伝』に言う地方首長クラスの人(「卑狗(彦か)」「爾支(稲置か)」「兕馬觚(島子か)」「多模(玉あるいは伴か)」「彌彌(耳か)」など)に与えられたか。「連」は職域と言うことで現今で言う有能な職人は畿内と九州北部に偏りがあったのではないか。従って、「連」のカバネは「臣」と異なり全国的に広がったものではないと思う。少なくとも『魏志倭人伝』の時代には「伴」はあったかもしれないが、「臣」「連」などのカバネはなかったようだ。また、記紀ともに最初に設置された部は海人部と山守部なので海人部(大阪湾岸一帯か)は伴とか連を使い、山守部(奈良盆地一帯か)は部とか臣を使ったか。私見では伴と部は伴から部へ移行し、連と臣は連(連枝が語源か)は天皇の姻族の臣下であり、臣は姻戚関係のない(その後はあったかもしれない) 臣下を言ったと思う。『魏志倭人伝』にも倭の山や海の風物や風俗が描かれている。
「部」はいつ頃日本に導入されたのかというと、標準的な見解として<五世紀後半には成立していた百済の「部司」制度により渡来人の「部」がまず成立し、それが在来のトモ(伴造)制度に波及するとともに、やはり五世紀後半に確立した百済の「氏」も導入された。>(平野邦雄東京女子大学名誉教授)というので、「部」や「氏」は五世紀後半に百済の制度が取り入れられたと言うことになる。因みに、渡来人の「部」としては、錦織部(にしこり・にしごりべ)(絹織物の生産に従う)、衣縫部(きぬぬい・きぬぬいべ)(衣服の縫製に従う)、鍛冶部(かぬち・かぬちべ)(鉄と兵器の生産に従う)、陶作部(すえつくり・すえつくりべ)(陶器の製作に従う)、鞍作部(くらつくり・くらつくりべ)(馬具の製作に従う)、馬飼部(うまかい・うまかいべ)(馬の飼育に従う)などがあった、と言う。日本古来の伴が部になったものとして、殿部(とのもり)(天皇の乗輿,宮殿の調度,灯火をつかさどる)、水部(もいとり)(供御の清水や氷をつかさどる)、掃部(かにもり)(殿内の掃除をつかさどる)、門部(かどもり・かどべ)(宮殿の諸門の守衛をつかさどる)、蔵部(くらひと)(内蔵,大蔵の出納をつかさどる)、物部(もののべ)・佐伯部(さえきべ)(軍事・警察、刑罰をつかさどる)などがあった、と言う。
以上より門部という語は五世紀の後半に百済の部司制度が導入された時に、門守から門部と変更されたようであるが、その職務内容は『魏志倭人伝』にも「守衛」の言葉があるように、古くから天皇家が家臣にさせる主要な任務であったことが解る。

★久米氏と門部

平安時代の門部氏は門部連氏、波多門部造氏ともに大久米命の子孫と名乗っているので大和朝廷初期の執政権が久米氏から大伴氏へ移動したとしたら、我が国の黎明期から景行天皇の全国統一までの間は門守の任務は久米氏が担っていたのではないか。その後は大伴氏が単独で門守(後世の衛門府長官)の職を担っていたようだが、重責に堪えられず、門守から門部に編成され、令制では衛門府となるに従い管理者の数が増加され、最終的には「門号十二氏」となったようだ。これらが「門号十二氏」が古来門部として宮城門守衛の任を負ってきた氏族であると推測される、と言う説もある。
久米氏が大和朝廷発足期から宰相として国政に参画したことは事実とは思うが、国家も徐々にステータスが上がっていくと、従来型の天皇の身の回りを世話するタイプから現今で言う行政能力のある人が重用されるようになったのではないか。その意味で久米氏は秘書官としては適していたかも知れないが、司法・行政・立法の三権の長には適任ではなかったと思われる。久米氏の衰退は神武天皇の頃から始まっていたと思われるが、その後任の大伴氏にまとわりついて平安時代まで家名をつないだと言うことは名家の手本とでも言うべきものだ。

★まとめ

門部(従って、門部氏も)という語は百済から部司制度が入ってきてからの語のようで早くて五世紀後半、説によっては七世紀になってから生まれた言葉という。『記紀』には、応神天皇の時代に「此之御世定賜海部 山部 山守部 伊勢部也」とか「令諸國 定海人及山守部」などとあるのはまったく以て眉唾物で当時にあっては海部(あまのとも)とか山部(やまのとも)とか言っていたのであろうか。日本古代史の先生によっては『記紀』の推古天皇より前の文言はでたらめという人もいる。
門部氏は門部連は大和国から出なかったようでこちらが本流と思うが、都が大和国を離れてから門部連一族は何をしていたのであろうか。遷都後、当分の間は平城京の管理などがあったであろうが、その後はどうなったのであろうか。波多門部造は京都へ引っ越したとは言え何か家業でもあったのであろうか。『新撰姓氏録』に名を連ねるのでそれなりの生活をしていたであろうが、栄枯盛衰は世の習いとはいうもののどこかの守衛業務でもあったのであろうか。
門号十二氏と門部氏の関係だが、 伴の時代には門守といい、部司制度の導入に伴い門部となり、令制では衛門府と言い、門守、門部、衛門府と名を変えようが大伴氏以下の門号十二氏が負名氏(なおいのうじ)として宮城門守衛の任を負ってきたとするのが一般的見解である。そこに門部氏と称する類似の職種の氏族がある。門号十二氏のような丹比 山部 健部 的 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部 海犬養 猪養と言う有力氏族名ではないようで十二氏では山部 健部 伊福部が部のつく氏である。部のつく氏族は部民を管理した氏族なのか、はたまた、部民から管理職になった氏族なのかは解らないが、門部氏も厳密にその職務を検討してみなくては何ともいえないものの、十二氏の長官とも言うべき大伴氏が前任者の久米氏の子孫と言うことで門部あるいは衛門府の職員に取り立てたものではないか。後世、役職には督(かみ)、佐(すけ)、大尉(だいじょう)、少尉(しょうじょう)、大志(だいさかん)、少志(しょうさかん)の四等官のほか、府生、府掌、使部、直丁(以上、事務官系)、「門部(かどべ)。左右衛門府の職員で、伴部。定員は各六十六人。宮城門の警備官。」とあるので、この職掌名から門部の氏の名がついた比較的新しいものか。
雄略天皇の時代は、1.部司制度の導入 2.暦法の変更 3.渡来人の部の設置による技術革新 4.中国南朝との積極外交。『宋書倭国伝』、『南斉書倭国伝』、『梁書倭伝』に倭王武が出てくる。特に、順帝の昇明2年(478年)の倭王武の宋に対する上表文は格調高く著名だ。しかし、これには異を唱える人がいて倭王武の中国に対する遣使は宋に対する一回のみと言う。とは言え、外国の正史に日本の天皇の一文が載せられているのは雄略天皇だけだ。 5.養蚕振興(雄略紀六年三月天皇欲使后妃親桑 以勸蠶事)など多くの事績が上げられるが、門部連の氏の名が発生したのは五世紀末から七世紀末までの間なのだろう。本家の久米氏が二流に分かれているように門部氏も二流に分かれているようだ。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中