大伴談

★はじめに

大伴談(かたり・語とも書く)は通説的見解では大伴室屋の子、金村の父とされている。系図によっては談は室屋の弟で金村は室屋の子とするものもあるようだが、採用する学者先生はほとんどない。『日本書紀』に出てくる談の事績は少ない。抜粋をしてみると、

雄略天皇九年三月「天皇欲親伐新羅 神戒天皇曰 無往也 天皇由是 不果行 乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連【談 此云箇陀利】・小鹿火宿禰等曰 新羅自居西土 累葉稱臣 朝聘無違 貢職允濟 逮乎朕之王天下 投身對馬之外 竄跡匝羅之表 阻高麗之貢 呑百濟之城 況復朝聘既闕 貢職莫脩 狼子野心 飽飛 飢附 以汝四卿 拜爲大將 宜以王師薄伐 天罰襲行 」(意訳:雄略天皇は新羅に天皇親征(親伐)を行おうとしたが、神が戒めて「それはだめだ」と曰ったので断念した。よって、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰の四人を大将として討伐を命じた)
「小弓宿禰 追斬敵將陣中 喙地悉定 遣衆不下 紀小弓宿禰亦收兵 與大伴談連等會 兵復大振 與遣衆戰 是夕 大伴談連及紀岡前來目連皆力鬪而死」(意訳:紀小弓宿禰は追撃し敵将を陣中で斬る。喙(とく・慶尚北道慶山)の地をことごとく平定したが、喙の遺されたものたちは(倭に)従わなかった。紀小弓宿禰はいったん兵を收め、大伴談連等と會った。兵はまた大いに奮い立ち、喙の遺衆と戦ったが、その夕方、大伴談連及紀岡前來目連は、皆、力闘して亡くなった。)
有り体に言うと、出征して戦死した、と言うことなのだろう。
ほかに大伴談に関することとしては『新撰姓氏録』に、
「左京・神別・天神・大伴宿祢・宿祢・高皇産霊尊五世孫天押日命之後也・初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命。大来目部立於御前。降乎日向高千穂峯。然後以大来目部。為天靱部。靱負之号起於此也。雄略天皇御世。以入部靱負賜大連公。奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語。相伴奉衛左右。勅依奏。是大伴佐伯二氏。掌左右開闔之縁也」
「望与愚児語。相伴奉衛左右。」とあって、父の大伴室屋大連が衛門を子息「語」と分衛したいと願い出て認められた。しかし、これは『令集解』職員令左衛士府条所引の弘仁二年(811)11月の太政官符に、室屋が靫負3000人を領して左右を分衛した、と言う大規模なもののようだ。この組織はその後の大伴氏の衰退のためか律令制には継承されなかった。
ほかに「右京・神別・天神・佐伯日奉造・造・天押日命十一世孫談連之後也」とある。
大伴談は若くして亡くなったため子息は金村(大伴氏嫡流)と歌(佐伯日奉造の祖先)だけだったようである。佐伯氏にはほかに衛門の開閉を行った佐伯氏があるが、これは大伴室屋の子の「御物」の子孫であり、こちらの佐伯氏の方が歴史上著名である。
なお、『古事記』雄略天皇段は、東は埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘(獲加多支鹵大王)や西は熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘(獲□□□鹵大王)、あるいは、『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武にも比定される雄略天皇伝としてはあまりにもお粗末で、現代的に言うと著者の太安万侶は「お前は読者をバカにしているのか。本代を返せ。」と叱られるのがオチのような内容だ。言うなれば一個人の力(稗田阿礼なども編纂者の一人という説もある。)で国史を編纂するなどと言うことは非常に難しく、おそらく太安万侶はその種のことに有力だった大伴氏に資料提出を願ったのかも知れないが、大伴氏は安万侶に「お前のじいさんかひいじいさんかは知らないが、大部と書いて「意富部(おおべ)」と読み、太氏の部民なのに大伴氏が「おおとも」と読んで大伴氏の部民にした、とお上に訴えた。天孫降臨以来の大伴氏にケチをつける輩には大切な資料を見せられない。」とかなんとか言ったものの、大人げないと思い、手持ち資料が豊富な景行天皇賛美の歌を書いた資料を渡したのではないか。大伴氏もいい加減なら安万侶も安万侶でよく検討もせず景行天皇賛美の歌を雄略天皇段に載せている。

★大伴談の名前の由来

古代にあって「談(かたり。語とも)」の名の人はおおむね<語り部>であったという説がある。語り部はその発祥は全国的で、各地の首長の下に隷属していた部民(べみん)であったと思われる。文献学的に確認できるのは、
702年(大宝2年)御野国味蜂郡春部里の戸籍に「語部」
720年(養老4年)「日本書紀」天武天皇12年9月条に「語造(かたりのみやつこ)」が連のカバネを賜る。
733年(天平5年)「出雲国風土記」意宇郡安来郷に「語臣猪麻呂」
739年(天平11年)「出雲国大税賑給歴名帳」に「語部君」「語君」「語部首」
797年(延暦16年)「続日本紀」養老3年(719)11月の条に「小初位上朝妻の手人竜麻呂」に海語連(あまかたりのむらじ、天語連「新撰姓氏録」とも)の名とカバネを賜った。
『古事記』<712年(和銅5年)>に出てくる稗田阿礼は語部かどうかは同書の内容からははっきりしない。現今では『古事記』の編纂者の一人と理解されている。語り部の分布地が東は遠江(とおとうみ)、美濃、西は出雲、備中(びっちゅう)と言うので、いずれ全国的なものとは思うが、大和朝廷が全国制覇の早い時期に朝廷の制度として取り入れた、と考える向きが多いようである。それでは、大和朝廷の初期には語り部などというのはいなかったのか、と言うことになるが、おそらく当初は軽い職種に見られていたが朝廷による倭国統一が進むとその初期の段階で重要性が認識されたのであろう。
語り部の意味内容も文字の普及とともに変わったようである。国民の90%以上が文盲の時代は、語り部は記録係であり、生ける書類でもあったであろう。その後、大陸や半島からの識字者や日本人でも識字に意欲を示す人が出て一部上層階級では語り部は必要がなくなったが、多くの下級官吏や庶民には語り部の言葉による伝達等が必要ではなかったか。次いで、官吏等にはおおむね文字が普及し、文字の読み書きができない者は当然ながら事務官には採用されなかったのではないか。ここいらから語り部の行く末は枝分かれし、『貞観儀式』や『延喜式』の平安朝の記録によれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭のおり、諸国から集められた語り部が〈古詞〉を奏していたと言い、それは祝詞(のりと)に似たかたりごとで、一部は歌曲風でもあったという(『北山抄』)。同時に吉野国栖(くず)が〈古風〉を、悠紀(ゆき)の国(大嘗祭の時、神事に用いる酒料、新穀などを献ずる国)の歌人が〈国風〉を奏した、とある。何か今で言う神主や流行歌手、民謡歌手、演歌歌手のような感じだ。祝詞を除いては言わば余興の一種になっていたのではないか。
語り部と言えば、文字のなかった時代に語り伝えられて来た神話・歴史・伝承等を口誦で語り伝えることを職掌としていた人々、と解する向きが多いが、神話・歴史・伝承等を口誦で伝えるのは語り部の職務の一部であり、それらが物語り化して最後まで残ったと言うことではないのか。
さて、大伴談の名前の由来だが、考えられることとしては、
1.母親が語り部出身で、母方が「談」と名付けた。
2.父・室屋が国史編纂の遠大な計画を持ち、「談」にそれを託そうとした。
3.兄・談は文官に、弟・御物は武官にし、お家の安泰を図った。御物の物は武器のことか。
大伴氏は天皇家と並び称されるほどの古い家柄であり、日臣(道臣)の時代から語り部が隷属していたと思われるが、あるいは、家伝の継承を語り部が行っていたのかも知れない。室屋の時代になり紙もそんなに珍しいものではなくなり、息子の談にそれまでの口承の家伝を文書にするように命じたのかも知れない。とにもかくにも、室屋・談親子は公私にわたって忙しかったようだ。

★室屋の国史編纂

雄略天皇の時代は、言わば古代の画期であり、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることなどから、雄略朝を大和朝廷の勢力が拡大強化された時代ととらえることができる。その先導役を務めたのは大伴室屋で、おそらく雄略天皇が室屋を抜擢したのは吉備氏対策のためかと思われるが、瓢箪から駒で室屋は多方面に活躍したようだ。その国史編纂だが、天皇は版図拡大を図るとともに「置史戸・・・唯所愛寵 史部身狹村主靑・桧隈民使博德等(雄略紀二年是月<冬十月か>)」ともあるので、文人を好み、軍事的なことばかりか、文化的なことにも理解を示したのではないか。大悪天皇などと評判はよくなかったようだがそれは若かりし頃のようで歳とともに円熟してきたのではないか。室屋の国史編纂の発端も、天皇御愛寵の身狹村主靑や桧隈民使博德が頻繁に室屋のところへ行くので天皇が「お前たち、室屋のところへ何をしに行っているのだ」と問いただしたところ、「漢字の読み書きを教えている」と言い、「何人くらいの学生がいるのか」との質問には、「五十人くらい」と答え、天皇も「それじゃあ、視察しよう」と言うことで行ってみたら五十台の机と学生が整然と座って勉強をしていて当時にあっては壮観だったのではないか。おそらく語り部と史部から選抜された人が主力だったのではないか。天皇は感激した。私見では上述の「置史戸・・・(雄略紀二年是月<冬十月か>)」の「史戸」が大伴室屋が設置した国史編纂の部ではないかと思っている。雄略天皇の遺詔に「大連等、民部廣大、充盈於国。」というのもこの学生の光景を絶賛したものではなかったか。大連等の等は複数の意味ではなく、大伴室屋を言ったものではないか。参考として『万葉集・巻三337』の「憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽」の<憶良等>の等と同じ使用例ではないか。

★まとめ

最後に、大伴室屋が目指した『日本国史』とも言うべき史書はどうなったのかと言うことである。室屋が編纂を託そうとした息子の<談>は若くして戦死し、雄略天皇崩御後は直後に起こった星川稚宮皇子の叛乱を東漢掬と共に鎮圧。清寧天皇には后妃、皇子女がなく、諸国に天皇の御名代として白髪部舎人・膳夫(かしわで)・靱負(ゆげい)を設置したりと短い在位年数で終わる各天皇の大喪の礼や即位の礼の儀式等に奔走し何もできなかったのではないか。従って、国史編纂の<史戸>も室屋の死とともに自然消滅し、わずかばかりの残された資料は大伴氏が保管することになったのではないか。室屋にすれば<談>が生きていてくれさえすればの思いばかりが募ったであろうが現実は彼の思い通りには行かなかった。

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