大部氏とは

★はじめに

過般、某私立大学の名誉教授(物故)の書籍を読んでいたら「私は大伴は元来、大部であった可能性が強いと考えている。」と曰っていた。古記録でも大伴を大部と書いてあるものが少なくないので、あながち失当とは言えないのかも知れないが、あまり一般的ではないのではないか。そこで、大部(おおとも)について検討してみると、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』に要領よくまとめられているので抜粋してみる。

『姓氏家系大辞典』(第一巻アーカ 太田亮 角川書店版)

大部 オホトモ オホベ 部は伴に同じ。よりて大伴は又大部ともあり。但し、オホベと読むものは其の條を見よ。

1.大部連 三代実録、日本霊異記等大伴連を大部連に作るもの多し。

(私見 おそらく伴を百済の例に倣い部と翻訳したものをそのまま無批判に採用したものであろう。)

2.大部直(武蔵) 大伴部直、大伴直に同じ。武蔵国造族なり。
3.大部首 和泉の氏なり。此も大伴部の首長なりし氏なるべし。
4.大部造 播磨風土記、賀古郡鴨波里條に「大部造等の始祖古理売此の野を耕して、多く粟を種う。」と見ゆ。播磨大伴部の首長の氏なるべし。

(私見 直、首、造の大部は大伴部の中略で大伴部を大部<二字化政策の影響か>と書いて読みを「おおとも」としたものかと思う。大部と名乗ってもいろいろな氏が混在しているようで、例えば、大部造は『新撰姓氏録』の「大和国・諸蕃・任那・大伴造・造・出自任那国主龍主王孫佐利王也」のことといい、任那の滅亡とともに大伴氏に従ってきた帰化人か、と言う見解もある。)

5.大部宿禰 東大寺要録に見ゆ。
大部 オホベ オホブ オホトモ 和名抄越中国新川郡に大部郷あり。高山寺本丈部に作り、今亡と見ゆ。東大寺要録に新川郡に大部庄あれば大部の方よかるべしと。
大部のオホトモと読むものは大伴なれど、オホベと読むものは多(意富)氏の部曲なり、注意を要す。

従って、大部と書いても読みは「オホトモ」と「オホベ」の二種類があるようで、オホトモなら<大伴>、オホベなら<多部>のことのようである。現在、地名で大部と書くものは何カ所かあるが読みは「おおべ」と「だいぶ」だけである。よって、大部をオホトモと読むのは平安貴族のこじつけか。
某私立大学名誉教授は大部と書いてある文献を拾い上げているが、
『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)平安時代初期 <弘仁13年 (822年)か> 著者は奈良右京の薬師寺の僧景戒
『伊勢風土記逸文』
『三代実録』(『日本三代実録』)延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。
『扶桑略記』 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂。
『太子伝暦』(『聖徳太子伝曆』)延喜 17 (917) 年成立。編者は平安時代前期の歌人藤原兼輔 (877~933) 。
『播磨風土記』(『播磨国風土記』)編纂が行われた期間は和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)頃まで。編者は当時の国司であった巨瀬邑治・大石王・石川君子、大目であった楽浪河内など。
『姓氏録』(『新撰姓氏録』)平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された。
大部と書かれてある文献は上記のようであるが、風土記を除いてほかは全部平安時代のものであり、名誉教授が期待するような大部は大伴の古形というのも成り立つのかどうか。即ち、大部が出てくる文献は時代的に新しいと言うことである。なお、上記、大部首は『新撰姓氏録』に<和泉国・未定雑姓・大部首・首・ 胆杵磯丹杵穂命之後也>とあり、胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)は饒速日命の別名という見解もある。この大部首は物部氏か。

★伴(とも)と部(べ)

一般的な伴と部に関する解釈については以下のごとくである。
日本では部は伴とも言われる。古くは宮廷に伴・伴緒とよばれる官人の集団が出仕したが、五、六世紀に多くの帰化氏族を迎え、部という広汎な職務の分掌組織が成立し、朝廷が形成された。伴として内廷の職務に従うトノモリ、モヒトリ、カニモリ、カドモリ、クラヒトなどは、殿部、水部、掃部、門部、蔵部などの伴部に編成され、新たな部として、帰化氏族を中心に錦部(にしこり)、衣縫部(きぬぬい)、鍛治部(かぬち)、陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、馬飼部(うまかい)、などの生産的技術的な品部(しなべ)や伴部(ともべ)が新設された。これらの伴部は百八十部(ももあまりやそのとも)と言われるほど多様化し、上部にこれを統率する伴造(とものみやつこ)を配し、さらにこれら全体を管理する臣・連を最上位に位置づけた。
以上を要約すると、日本にはまず内廷の被用人たる伴ないし伴緒がいて、その後五、六世紀に半島や大陸から生産技術を持った帰化人がやって来て個々の技術集団を故国に倣い「部」と言った。従って、「伴」をはじめから中国音の「バン」とはせずに、日本語に翻訳して「トモ」(仲間、グループの意味。友に同じ)と読んだのは「伴・トモ」の方が古い言葉だったのではないか。『古事記(上巻)』が五伴緒と表記し、『日本書紀巻第二神代下一書の第一』が五部神と表記するのも後者が中国に見せることを前提にして(筆者に中国人もいたという)書かれたことを考えれば八世紀に入っても「伴」が優勢だったのではないか。『日本書紀』では本文で部を使っても、氏の名に大部というのは見当たらない。当時にあっても、伴を部と漢訳したからと言って大伴氏の氏の名を大部とするのは非常識の範疇に入ったのではないか。『日本書紀巻第二一書第四』では「于時 大伴連遠祖天忍日命 帥來目部遠祖天槵津大來目」とあって天磐戸の前で待機していたのは天忍日命(大伴氏)と大來目(久米氏)の一団だったようだ。五伴緒はいなかったと言うことで、神武東征の時にも出てくる大伴氏や久米氏の遠祖が朝廷草創期には貢献したと言うことなのだろう。それに五伴緒の「五」と言う数字は当時の我が国にあっては一般的ではなくツングース系の百済や高句麗の軍隊が使用したものという。五伴緒の説話は『日本書紀』編纂時に不満を持った氏族(中臣氏か)がねじ込んだものなのだろう。

★名誉教授のその他の異説

1.この物部・大部は異なる集団なのか、否そうした相違はなく、元来、共通した集団・人々ではなかったのだろうか。
2.「大」とか「物」とは抽象的で、その用語じたいには、本来の意味を含むものではない。とすれば、大部・物部の原語は「部」じしんである。
3.大伴氏・物部氏の歴史とされた、事績などは「部」に帰属するものであり、後世の大伴氏・物部氏と言う二つの集団のものではない。
4.大伴氏・物部氏は五、六世紀の大和王権にとって、トモ、トモノヲ、ラと呼称される大王の直属の集団たちであり、特定の豪族集団ではなかった。
5.トモ、トモノヲ、ラ体制の解体は物部氏・大伴氏の衰退をも招致するものであった。天武以降にこの二つの豪族は氏族として新しい出発点についた。

以上を要約すると、物部・大伴両氏は天武朝以前は大王直属の隷属民であり、大部とか物部と言っているのは「部」(民)のなにがしかの違いを言ったものか。但し、名誉教授は「大」とか「物」には意味がないと言っている。言ってみれば両氏は一介のトモ、トモノヲ、ラと言うことなのだろうが、「ラ」の意味がわからない。漢字で書くと「等」とか「裸伴(あかはだがとも)」となるのか。その後こういう説を採用している学者はいないのではないか。ただ、少し気になるのは両氏は「連(むらじ)」のカバネを称しているが、連は臣と違い、主として『記紀』の世界だけの話で、金石文等には臣のみが記されているという。従って、学者の中には連を眉唾視する見解もある。連を名乗った氏族は大伴氏・物部氏のほか中臣氏・土師氏・弓削氏・尾張氏などがあり、連の多くは渡来系の有力氏族であったという。言わんとするところは、地域の有力者は臣、職域の有力者は連と言うことか。大伴氏、物部氏は渡来系の人なのか。

★まとめ

『記紀』特に『日本書紀』には「部」と書いて「トモ」と訓じている例が散見するが、氏族の氏の名である「大伴」を「大部」と書いた例はないようである。従って、『播磨国風土記』、賀古郡鴨波(あはは)里條に「大部造等の始祖古理売此の野を耕して、多く粟を種う。」と見ゆ。播磨大伴部の首長の氏なるべし、とあるが、これだけで大部を「オホトモ」と読むのか、あるいは、「オホベ」と読むのかははっきりしない。単に、『新撰姓氏録』「大和国・諸蕃・任那・大伴造・造」を根拠にそのような判断を下しているのかも知れない。名誉教授の言う「私は大伴は元来、大部であった可能性が強いと考えている。」と言うのは文献的な根拠が乏しいと思われる。又、飛鳥・藤原・平城宮跡から出土した木簡に「大部」を称する人名が出始めている、と言っておられるが、減筆(字画を省いて文字を書くこと)や省略(三文字なら二文字にする)などはよくあることなので「オホトモ」か「オホベ」かなどを含め厳密に検討する必要があろうかと思われる。
大伴と物部は元同一の「トモ」もしくは「ベ」で、天武朝以降に二つの氏にわかれた、と言うことであるが、文献的にはそうはなっていないし、大まかに言うと大伴氏は内廷(現今の事務官)の管掌者であり、物部氏は生産的技術的(現今の技官)な部の管掌者ではなかったか。従って、事務官たる大伴氏にとっては後世の「読み、書き、そろばん」は必須のものだっただろうし、技官の物部氏にとっては「読み、書き、そろばん」より技術の習得が肝要で、おそらく「読み、書き、そろばん」は得意ではなかったのではないか。名誉教授も言っておられるように、大伴氏の歴史は文献等で解るが、物部氏の歴史は大伴氏の年譜に物部氏の人名や事件などを当てはめて割り出すとなっている。
具体的には、大伴氏が天孫降臨や神武東征などで活躍しているのに、物部氏は天孫降臨では不出場、神武東征では神武天皇というメイン・ラインから外れ饒速日命と言う飛行機あるいは船で奈良盆地にやって来た人物の子孫と言っている。要するに、物部氏は倭国創設の枠外にあった一族のようだ。通説的見解が言うように物部のように部のつく氏は百済からの帰化氏族が故地に倣い部という分掌単位についた氏族の氏の名ではなかったか。従って、物部の本来の意味は物品管理者とでも言うべきか。
出身地も大伴氏が摂津国八部郡(元は雄伴郡。雄伴郡は、淳和天皇の時代(在位823年 – 833年)、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名された。現在の神戸市兵庫区南部一帯か。)と思われ、吉備氏に圧迫されたのか(『古事記中巻(孝霊天皇段)』に、大吉備津日子(おおきびつひこ)の命と若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の命は、二柱相副(そ)いて針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いわいえ)を居(す)えて、針間を道の口と爲して、以ちて吉備の國を言(こと)向(む)け和(やわ)しき、とある。)、その後同じ摂津国の西成郡雄惟郷(雄惟は雄伴の誤写という。現在の大阪市中央区一帯か。)に本拠地を移したようである。その後、大伴氏が奈良盆地に本拠を移したのは景行天皇の頃か。なお、大伴の語だが、『万葉集巻一』にある「大伴の御津の浜」の大伴は雄伴のことといい、当時の摂津国では「を」を「おほ」ないし「おお」と発音し、現在とほとんど変わらなかったと言うことか。従って、大伴の語源は一般的に解されている「伴(現今で言う公務員)」の統轄管理者(現今で言う内閣総理大臣)ではなく地名と言うことか。その場合の「伴」は「妻」と同じで半島のように突き出たところを言うのであろう。
一方、物部氏はその出身地がはっきりしない。穂積氏と同族説を採れば淀川右岸となり、内氏あるいは鬱氏とすれば淀川左岸か。いずれにせよ物部とはいいながら川部のような気がする。物部となったのは雄略朝で時の大伴大連室屋が『日本書紀・巻十四雄略天皇段七年是歳条』に「天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。【或本云 吉備臣弟君 還自百濟 獻漢手人部・衣縫部・宍人部】」とあって、雄略天皇及び大伴室屋は中国や朝鮮(特に、百済)からの広汎な技術導入を図っていたのではないか。大伴室屋は非常に忙しかった人らしく、『新撰姓氏録』にも「雄略天皇御世。以入部靱負賜大連公。奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語。相伴奉衛左右。勅依奏。」とある。そこで、室屋は一計を案じ、あんな「とんてんかん」などを相手にしていられないとばかりに物部大連目を雄略天皇に推挙したのではないか。大伴氏と物部氏の接点は大伴氏は大阪湾岸に勢力のあった海部であり、物部氏は淀川流域に勢力があった川部とするならば淀川河口あたりで接点があり知り合いではなかったか。
名誉教授はまた大伴氏、物部氏は中級の豪族とも言っているが、天武朝に部の廃止で大伴と物部になったというので天武朝以降のことかと思われるが、臣が地域別豪族なら連は元々は「連枝」の湯桶読みで天皇家の姻族を言ったものではないか。内廷の管理者が多く江戸時代の譜代大名が禄高は少ないが重職に就いていたのと似てはいるが、天武朝以降は藤原氏が台頭し、古参の大伴氏や物部氏が中級貴族に成り下がったかどうかは解らない。
以上を総括するなら、大伴は大部であったとか、大伴氏物部氏が天武朝までは部と言われ、氏族と言われるようになったのは天武朝以降という某私立大学の名誉教授のお説は文献的な根拠のない「トンデモ説」の類いになってしまうのではないか。

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