穂積氏のこと

★はじめに

一説によると穂積氏の本拠地は大和国山辺郡穂積邑(比定地は奈良市東九条町穂積寺跡か天理市前栽か。不詳。)および十市郡保津邑(磯城郡田原本町保津)と言っておられるが、おそらくこれは穂積氏が大和国に本拠を移してからのことで穂積氏の本貫と言おうか今で言う本籍地は別のところにあったと思われる。そもそも穂積氏は物部氏の本家筋に当たる家柄で、系図によると伊香色雄命の長男(異説あり)である大水口宿禰の子孫が穂積氏でその余の大新川とか十市根とかの子孫が物部氏のようである。古代豪族のこと故(ゆえ)、はっきり、すっきりしないのが常でどのような理由から穂積氏と物部氏が一体化したのかは解らないが、一応、ここでは穂積氏について論考してみようと思う。

*穂積の意味
1.ホ・積の意で、「ホ」は垂直に伸びた先端部分を言う。例として稲・ホ(イナホ・稲が伸びた先端部分)、ホ・の火(火の炎の先端部分。また、火のことをもホという)。「積」は原始カバネと言う。例として、出雲積、鰐積(和珥氏の原始的姓氏)、阿曇(阿曇氏)など。
2.穂摘み。稲穂を摘む専業者か。
3.稲芻(とうすう・米・まぐさのこと。ここでは米)を献じたので穂積と言う。現代的に言うと「金(かね)を積んで某校に裏口入学する」などと同義か。
4.稲刈り神事のため刈り取った稲穂を積んでおくところ。稲穂が穂茎を言うのか穂の実を言うのかは不明。穂の実ならば円錐形の米の山ができるか。はさ掛け<稲木(いなぎ、いなき、いのき)>のことか。
おそらく、稲(農作業)に関したことなので、2.穂摘み、あるいは、4.刈り取った稲穂を積んでおくところ、が正解なのではないか。初期の稲作では、収穫時に同じ場所・同じ時期でも実入りにばらつきがあったため稲から稲穂の部分だけを選別し石包丁でむしるように切り取った。従って、4.よりは2.の方が正解に近いと思われる。

*穂積氏は何をしていたか。
文章ではっきりしているものは、
「熊野鈴木系図」によれば、「その先(祖先)稲芻を献ずるものあり、因って号を穂積と賜う」とあり、穂積氏は元来は耕作に従事するものであった。即ち、現今で言う農家だったと言うことである。
穂積氏の具体的な活動が『記紀』に記述されるのは、6世紀前半の穂積押山(ほづみ の おしやま)からである。押山は「『日本書紀』継体天皇6年(512年か)4月6日条によると、穗積押山は百済に遣わされ、筑紫国の馬40頭を贈った。(六年夏四月辛酉朔丙寅 遣穗積臣押山 使於百濟 仍賜筑紫國馬四十匹)」から始まり、ヤマト王権の百済における執政官として活動していた。次いで、穂積押山の子である穂積磐弓は、欽明16年7月4日に蘇我稲目とともに吉備国の五郡に赴き、白猪屯倉を設置した(秋七月己卯朔壬午、遣蘇我大臣稻目宿禰・穗積磐弓臣等、使于吉備五郡、置白猪屯倉)、など主として蘇我氏との姻戚関係から宮廷官吏に台頭したもののようである。そのほか穂積氏は水田稲作の指導者だったらしく、各地に出張あるいは定住し教授していたと思われる。また、淀川の広域管理についても沿岸の各豪族の調整役として今で言う事務局長のような役割をはたしていたのではないか。

★穂積氏はどこの出身か

『和名抄』によれば、穂積郷は以下の四箇所となっている。即ち、「摂津国島下郡穂積郷」「播磨国賀茂郡穂積郷」「尾張国丹羽郡穂積郷」「美濃国本巣郡穂積郷」である。いずれの穂積郷の地名説話も穂積氏と地名の関係を説くところが多く、<穂積>地名は地形地名ではなく人名由来の地名のようだ。以下、各穂積郷の概略を述べる。

「摂津国島下郡穂積郷」
郷域(場所) 現在の大阪府茨木市、穂積地区、奈良・沢良宜地区、水尾・内瀬(ないぜ)・真砂・郡山付近一帯(『茨城市史』)
文献初出  宝亀11年(780)12月15日「西大寺資材流記帳」官符図書の項<摂津国三巻>のうちとして「一巻 島下郡穂積村<白紙二副長四寸>とある由。
穂積郷と穂積氏との直接関連付ける史料はない。
一説に、天平勝宝八年(756)の摂津国島上郡水無瀬庄図と摂津職河辺郡猪名所地図写に見える署名が、摂津職大夫文室真人智努と少属穂積臣牛養となっていることで、この少属(しょうさかん)穂積臣牛養さんが地元の人であるかどうかである。確証はない。『新撰姓氏録 左京 神別』に穂積朝臣と舂米(つきしね、つくよね)宿祢が同祖とある。穂を摘む人と脱穀をする人は非常に近い関係にあることは解るが、これだけで両氏が「摂津国島下郡穂積郷」出身とは断言できない。しかし、『日本霊異記・上巻』に見える、島下郡舂米寺は上穂積地区の白鳳期古瓦を出土する穂積廃寺に求める見解があり、よって、穂積氏と舂米氏とは当郷を本拠にしていたとする説がある。いずれもムード的にはいいかもしれないが、文献的には厳しい。
穂積地名は近隣の豊中市(豊中市穂積一丁目、二丁目)にもある。文献初出は文治五年(1189)三月の「春日社領垂水西御牧榎坂(えさか)郷田畠取帳」に穂積村帳がある由。こちらには穂積遺跡(豊中市服部西町一丁目)があり、弥生時代後期から中世に及ぶ複合遺跡という。
私見で恐縮だが、物部氏発祥の地が摂津国河辺郡為奈郷か山城国乙訓郡物集郷あたりとすると饒速日命一族が栄えたのは淀川右岸であり、『記紀』や『先代旧事本紀』の伝える河内国とは何なのか。そもそも、飛行機や船で来たと言うのもおかしな話で、饒速日命の子の宇摩志麻遅命の麻遅(マチ、マヂ)は蘇我満智の満智と同じ意味で、マチは現代的に言うと間地と書き、道路、畦、街などの意味であり、土地区画整理組合の組合長ないし土地区画整理士のような人だったのではないか。

「播磨国賀茂郡穂積郷」
郷域(場所) 兵庫県加東市穂積
文献初出  『播磨国風土記』(霊亀元(715)年前後に成立か。)
『播磨国風土記』によれば、「穂積里はもと塩野と言ったが、これは同地で塩水が出たことによると言い、穂積は穂積臣の一族がこの地に居住していることによる」と言う。
穂積高町遺跡(兵庫県加東市穂積字高町)では弥生中期後半の木棺墓や土壙墓のほか6棟の住居跡が検出されている。

「尾張国丹羽郡穂積郷」
郷域(場所)  愛知県一宮市千秋町穂積塚本
文献初出  不明。強いて言えば『和名抄』<承平年間(931年 – 938年)>か。
穂積氏祖の穂積真津の次男・宮手が尾張国丹羽評に移住し采女臣の姓を賜った、と言う。
現地名穂積塚本は、元は穂積と塚本の二か村で、字名として塚本郷西北、塚本郷西南、穂積郷西がある。
穂積は大和国の穂積氏が来住したことにより、塚本はその親族の葬地によるという。

「美濃国本巣郡穂積郷」
郷域(場所)  岐阜県瑞穂市穂積町
文献初出  大宝2年(702)御野国戸籍。
御野国戸籍では本簀郡栗栖太(くるすだ)里、山方郡三井田里、加毛郡半布里などに穂積あるいは穂積部を名乗るものが多く見えているが、その本拠地か。
地名の由来は穂積姓の人々が土着したことによるという。穂積咋(穂積押山の曾孫)など。

以上を考察してみると、穂積郷の郷名の由来は穂積氏が当該郷に来住ないし土着したことによる。ただ、「摂津国島下郡穂積郷」だけは穂積氏との直接の関連を裏付ける史料はない。おそらく穂積氏淵源の地で最初から穂積で地名の由来は考える必要がなかったのだろう。遺跡が付帯しているところは弥生時代からがほとんどであり、穂積と水田稲作は無関係ではない。意外と稲作が不向きな地域にあるのは、古代にあっては小規模水田がほとんどで大型平野や大規模灌漑用河川は必要ではなかったと思われる。

★まとめ

穂積氏が後世の「摂津国島下郡穂積郷」から中央に上ったのは継体天皇の頃と思われる。穂積押山が継体天皇6年(512年か)4月6日条に登場するのも、蘇我氏と穂積氏が通婚関係を結ぶのもこの頃と思われ(穂積押山の妻は蘇我韓子の娘・弟名子媛と言う)、『新撰姓氏録』には摂津国に穂積朝臣や穂積臣が出てこないので少し疑問ではあるが、本家が穂積朝臣で分家が穂積臣とするならば、穂積臣の方は少なくとも奈良時代までは摂津国島下郡穂積郷にいたのではないか。都が長岡京や平安京に遷都されて摂津国穂積郷に近いと言うことで最終的に平安京に移ったのではないか。
同族と思われる舂米宿祢氏(ほかに舂米連氏もいたようだが宿祢氏と連氏の関係は不明。おそらく、舂米宿祢、舂米連、舂米というようなヒエラルキーが形成されていたのではないか。)も摂津国島下郡穂積郷を本貫にしていたと思われるが、穂積(稲刈り)と舂米(脱穀)だけで水稲栽培はできるのかと言うことになろうかと思う。水の管理をする水口氏とか雑草刈りをする草刈氏などもあったと思われるが、稲作も徐々に合理化され、種まき(田植え)から稲刈りまでを一軒の家が行い(穂積氏)、脱穀から流通までを別の家が行う(舂米氏)というように職業分化が発生したのではないか。穂積郷が残って舂米郷がないのも穂積が米作りのメインで舂米はサブと認識されていたからではないか。
穂積氏も舂米氏も水稲稲作が普及すると仕事も激減し、中央の有力者(蘇我氏か)を頼って宮廷官吏化したものと思われる。穂積氏は朝鮮半島における倭国からの出向官吏として仕事をしていたようだが、舂米氏は地方では在地の有力者となったようにも見える。中央の舂米氏は何をしていたものやら。ある意味平安京の米穀の仲買人として活躍していたのかも知れない。
穂積氏が現在の豊中市域あたりまで勢力を伸ばしていたとすれば、もし物部氏の本拠地が尼崎市田能あたりであったとするなら物部氏はお得意の隣家乗っ取りで氏族名を<物部穂積>あるいは物部の部の概念は後世のものなので<穂積>と号し、大水口宿禰の時に嫡流の大水口宿禰の子孫が穂積氏を称しその余の傍流の大新川とか十市根の子孫は物部を称したか。物部氏の草創期の記録は淀川左岸の領域に塗り固められているが、穂積氏が淀川広域管理業務に従事した際集められあるいは記録された内容をやや大げさに言うと物部氏が自己の始祖伝説として盗用したと言うことか。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中