岡山市北区大供

★はじめに

以前、岡山市大供の漢字が読めず、岡山市の人に読みを聞いたところ<ダイク>と読むと言うことだった。何かの当て字か誤読かと思ったが、日本の地名は同じ漢字を書いても読み方が幾通りもありこれもその類いのものかと思っていた。それに地名には意味がわかるものと何を言っているのかまったくわからないものもある。ところが、最近、岡山市のことを調べていたら岡山市北区大供とあったので「あの大供か」と思いつき、地名の語源でも調べてみようと思った。
現在、地名に大供の漢字を使っているのは、岡山市北区大供以外に、

福島県郡山市田村町大供 (フクシマケン・コオリヤマシ・タムラマチ・オオトモ)
滋賀県高島市今津町大供大門(シガケン・タカシマシ・イマヅチヨウ・オオトモダイモン)

の二箇所がある。語源的には滋賀県高島市の方は古代豪族<大伴氏>の一族に由来すると言い、また、大伴とも書くという。両市は遠く離れていても<大供>の読みは<オオトモ>であって、<ダイク>ではない。やはり岡山市の大供(ダイク)の読みは特異なのだろうと思う。しかも、<ダイク>と読む地名は「大工」「大工町」以外はほとんどなく、苗字に大九、大句、代工、台区(すべてダイクと読む)などとあるのは全部と言っていいほど大工の異形で、中には明治新姓もある由。

★岡山市の大供の経緯

岡山市の大供の地名は文献初出としては、『寛永(1624ー1645)備前国絵図』に村名が出てくると言う。その前は、備前国御野郡鹿田庄と言っていたのであろうか。吉田東伍博士によれば、
『文学博士吉田東伍著 増補 大日本地名辞典 中国・四国第三巻』p.210

「大供(ダイク)
岡山市の西南部なり、今鹿田(しかた)村と云う、大供以南は田野渺々<びょうびょう>、海江に連接し、今村、古鹿田(こかた)村、芳田(よした)村、福浜村等とす、蓋中古以降、漸次の汀線退却に因りて生ぜる新墾也」」と。
田野渺々とは田んぼが一面に広がっていたのか、はたまた、原野だったのかは解らないが、どうやら江戸時代から本格的に開墾されたようである。その前は、弥生時代後期や中世の水田の遺構という大供遺跡があり、当該地は低湿地と思われ人が住む環境になったのは江戸期近くになってからではないかと思われる。
『岡山藩領手鑑』(文化年間1804ー1818)によれば、大供村には201軒の家があり、798人の住民がいたという。この住民(の先祖)は元々大供村に住んでいたわけではないようで菩提寺は外部にあった。即ち、上伊福村97軒、岡山城下87軒、一之宮村17軒とあり、当然のことながら寺の数は多数に分かれる。そのほかに、預屋敷11,下屋敷4があった。城下隣接の村ゆえという。村内には安立山大福寺(城下蓮昌寺末寺)があったが、檀家がなかったためか寛文六年(1666)に廃寺となった。
以上より判断するならば、大供村は江戸時代以前は細々とした人家もまばらな水田地帯であったが、江戸期に入り急に開発が進んで、中規模の農村になったのではないか。

★大供の語の由来

1.大工と書こうとしたのに大供と誤記した。
しかし、大供村には農家以外は、紺屋四軒、鍜冶屋一軒、桶屋一軒(『岡山藩領手鑑』)とあり、専業大工はいなかったようである。おそらく大工仕事は各人が行い家屋建築や屋根の葺き替えなどは地区の人が総出で行ったのではないか。大工町は宇喜多秀家が大工を集めて住まわせた岡山城下の一町としてあったようだが、農村には専業で行うほどの仕事量がなかったようだ。従って、大供の語源が大工というのは成り立たないと思われる。

2.多大な供物の義という。
インターネットに載っていた一般人の見解だが、この場合の供物は税金を意味するらしい。通説では供物は「神仏に供えるもの。神に供えるものを神饌,仏に供えるものを一般に仏供という。」と解されており、通説に従えば、供物の最高のものは稲あるいは米であるのであながち失当とは言えないのかも知れない。大供村の主産物は米と思われるからである。但し、供物を税金と解するのはいかがなものか。

3.大伴の誤記・誤読。
大伴氏は大阪商人の元祖とも言うべき氏族で、景行天皇が吉備氏に大型古墳の造営を許可したと聞いたら、早速、天皇に渡りを付けて「作業員には塩分の補給が必要だ」などと曰って製塩業の許可を得たり、「大量の作業員には宿舎が必要だ」などと言って宿泊施設を建てたりと後世の鹿田庄あたりで、製塩や稲作などを行っていたのではないか。古墳時代が終われば大伴一族は本国に帰ってしまい、大伴と言う名だけがかすかに残ったと言うことか。当該地は江戸時代以前から大伴という俗称で呼ばれていたのかも知れないが、江戸時代になって大伴を漢字にする際大供と誤記し、さらにそれをダイクと誤読したか。

4.ダイクと呼ばれていた地名を漢字に表記する際、大供とした。
これは文字はあまり意味をなさず、音が問題でやや大げさに言うと地名の根源にまで遡るものなので次に項を改めて検討する。

★ダイクの語源は何か

これは備前国御野郡出石郷界隈で古くから「ダイク」と言われた地名があったことが前提になる。
「ダイク」は地名として分割すれば、「ダイ」「ク」と分けられると思われる。
「ダイ」に関しては「タイ」とともに漢字で表すと「ダイ・タイ(台・岱・平)」などとなり、いろいろ論文なども出ている。一例を挙げると、
『地名語源辞典』(山中襄太)P214ー215に、
「タイは束北地方の方言で「平地・野原」のことであり、アイヌ語では「森林」の意だと言う。佐賀県では低湿地のことをタイと呼んでいる。兵庫県では山頂をダイ、茨城県では高地や台地のことをダイという。カシュガル語では山をtayといい、タイ国では森林をtaiという。」と。
「ク」に関しては「いつく」の「く」で、地名の接尾語となり具体例では「牛久(うしく)」「高来(たかく)」「賀来(かく)」「企救(きく)」などが上げられる。
山中襄太先生はタイを東北地方の方言と限定しているが、以前、「大物(だいもつ)」の地名で説明したように「大(だい)」は全国区の地名で、秋田県鹿角市尾去沢大物(だいもつ)、宮城県刈田郡七ケ宿町大物沢(だいもつさわ)、滋賀県大津市大物(だいもつ)、京都府京都市南区上鳥羽大物町(だいもつちょう)、兵庫県尼崎市大物町(だいもつちょう)などがある。
この場合の「ダイ」は漢字で書くと「台」となり、高地(相対的なもので平地の標高がゼロメートルとすると、標高5mや10mの高さでも高地となる)の上部が平になったところを言い、比較的規模の大きいものを言う。北海道の根釧台地から鹿児島県のシラス台地まで全国的に見受けられる。
しかし、「タイ・ダイ」に関しては異説も見られ、以下のごとくである。
『あぶない地名 災害地名ハンドブック』(小川豊)P134
「タイ/1.水に面した河岸段丘の土地で、昔の氾濫時の流路跡や、川沿いの所。2.海岸で段丘地形で砂丘または溶岩台地。3.洪水になりやすい扇状地」と。
即ち、「ダイ・タイ」とは徹底した水害地域で河川の氾濫や海の高潮の影響を受けやすいところのようだ。岡山市北区大供も往時は旭川の氾濫や児島湾の高潮の影響をまともに受けたところではなかったか。

★まとめ

岡山市北区大供は現在は岡山市役所や北区役所があり岡山市の行政の中心地となっている。かっての寒村も周りには大学病院やJR岡山駅も徒歩圏で今や一等地といいほどになっている。その地名の意味がグズグズして何やらわからないでは県庁所在地の威厳も吹っ飛んでしまうので微力ながら検討をしてみた。
まず、当該地は江戸期に入って命名されたとは言え遺跡的には弥生時代からのものがあり、決して吉田東伍博士の言うような「新墾」とは思われない。主要な産物が米なので「大供」とは幣物と解する向きもあるが字面にとらわれすぎではないか。また、大伴氏の吉備における活動も左様な記録がなく、また、伝承・遺跡もないので確率としては低いものにならざるを得ない。従って、今のところは「ダイ」は災害地を表し、「ク」は場所を示す語と解するのが妥当ではないか。但し、「ダイク」地名の起源は旧大工町(現東中央町)で「ダイク」の地名は宇喜多秀家が命名する前からあったのかもしれない。全国的にも意味不明な大工川、大工沢、大工島、大工などの地名があり、いずれも水辺に関係しており、一考を要すると思われる。

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