記紀の物部氏の説話は本当か

★はじめに

『日本書紀』には、

*日本書紀 卷第三 神武天皇 即位前紀「其中亦有乘天磐船而飛降者 余謂 彼地 必當足以恢弘大業 光宅天下 蓋六合之中心乎 厥飛降者 謂是饒速日歟」
*日本書紀 卷第三 神武天皇 即位前紀 戊午年十二月「嘗有天神之子 乘天磐船 自天降止 號曰櫛玉饒速日命」
*日本書紀 卷第三 神武天皇 三十一年夏四月「及至饒速日命 乘天磐船 而翔行太虚也 睨是郷而降之 故因目之 曰虚空見日本國矣」

などと説いて、しきりと饒速日命が天磐船(現今の飛行機)に乗って虚空見日本國(具体的には現在の奈良県)に降り立ったことを言うが、これを信じる人は現時点では皆無かと思われる。しかし、天磐船を海や川を渡る船と解する人は多いようで、内陸の大和国へ行くには海は除外され川と言うことになるが、具体的には、木津川か大和川ということかと思う。饒速日命の子孫の最たるものは物部氏で、これから判断するならば物部氏は川部と言うことになるようだ。
物部氏は大和川から大和国へ来たと言う説、淀川及び木津川から来たと言う説、あるいは九州遠賀川流域から来たと言う説が有力であるが、遠賀川説は神武東征や邪馬台国東遷説に絡めて言われることが多いが、理論的根拠は乏しいと思われる。大和川説も物部氏がその後河内国や摂津国に勢力を伸長しているので大和川から大和国に入ったという根拠は薄いと思われる。後世になって大和川は物部氏が重用したと言うことかと思われる。特に、『先代旧事本紀』の天神本紀で天磐船の船長等は船長 跡部首等祖-天津羽原、梶取 阿刀造等祖-大麻良と言っている。跡部は現在の八尾市跡部・渋川・植松付近に比定されると言い、旧大和川流域の平地に位置すると言う。阿刀はその前身の地名という。阿刀氏の居住地は山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)と言われ、ややもって淀川、木津川流域系のような気がする。上記『先代旧事本紀』には船子 為奈部等祖-天都赤星と見え摂津国豊島郡に関しては、「摂津国 川辺郡 為奈郷」として「猪名川流域の豊嶋(てしま)郡から川辺郡にかけて、すなわち現大阪府池田市・豊中市、伊丹市・川西市・尼崎市の平野部とその周辺にまたがる広範囲を示す地名」とある。従って、阿刀は必ずしも跡部郷とは関係があったとは言い切れない。
物部氏は物部八十氏と言うくらいでいろいろな氏族の伝承等をまとめて物部氏としているようなのでその本流が那辺にあるかは判断するのは難しいが、一応、偽書とはされるものの『先代旧事本紀』などを参考にしてみると、
1.『天神本紀』では、
饒速日尊稟天神御祖詔、乘天磐船而天降坐於河內國河上哮峰、則遷坐大倭國鳥見白庭山、白庭山、或作白山、所謂乘天磐船而翔行於大虛空、巡睨是鄉而天降坐矣、即謂『虛空見日本國』是歟、とあるので河内国の人と見なしうるか。
2.いつ頃の人かというと、神武天皇の論功行賞にも出てこないし、氏の名の物部の「部」という概念は新しいものと言い、台頭したのは大伴氏より後で五世紀頃かと言う説もある。また、氏の名に「部」のつく氏族は忌部、額田部、海部、新田部、祝部、笠縫部、為奈部、十市部、跡部、來目部、軽部、雀部、日下部などがあるが、出自に関しては諸説あるも畿内出身の氏族が多いのではないか。
3.何をしていたかというと、川部としては川漁師と言うより、航路管理を主として行っていたのではないか。現代で言う水先案内とか通行税、関税等の徴収などを行っていたのではないか。軍事の氏族として有名ではあるが、それは物部と言う氏の名で世に出るのが遅かったからで、物部氏の主流の前身となる氏族が紛争解決に頻繁に出撃していたかどうかは疑問。物部氏軍事氏族なる説はおそらく物部麁鹿火が筑紫国造磐井の乱を鎮定した後ではないのか。

★物部の「部」とは何か

一般的に氏の名の下につく「部」というのは、百済の政治制度であった部司制を受け入れた大和政権の政治制度(部民制)に由来するとされ、その時期は五世紀末から六世紀初めという。我が国の伴(とも)を漢訳したものといわれる。物部氏の場合<物部十市根大連>が物部姓を名乗っている。物部十市根は垂仁天皇朝の五大夫の一人というので実際とはかけ離れた命名になっている。これに対して、大伴氏の大伴(おほとも)は天皇の称号である大王(おほきみ)に対するもので、現今の内閣総理大臣を意味するものとも思われ論旨は一貫している。もっとも、物部の部を漢字で書くと「~の辺り」を意味する「辺」と書いたのかも知れない。それが部民制の「部」にひかれて後世「物部」になったとも考えられる。物部氏が『記紀』に出てくるのは『日本書紀』垂仁天皇条に物部十千根大連が多い。垂仁天皇25年2月8日条では五大夫の一人に、垂仁天皇26年8月3日条では天皇の勅で出雲に出向き、出雲の神宝の検校を行なっており、垂仁天皇87年2月5日条では物部連による石上神宮の神宝管掌の起源譚がある。垂仁天皇と物部十千根大連のつながりは不明なるもこのあたりから物部氏は台頭したか。

★物部の「物」とは何か

物部の「物」に関しては従来の説では以下の二説がある。

1.武器説
2.精霊説

物部というのは元々武器の製造業者を意味していたという説がある。物部氏の本貫とされる河内国には弓削氏がおり、弓は縄文時代から国内で制作された武器で、弓削氏は物部氏の傍流とも、あるいは、下部組織の伴造とも言われている。
物部氏には『日本書紀』では、大伴氏に比べ格段に祭祀に関する説話が多く軍事ばかりでなく神事も司っていたという説がある。
「物」の意味であるが、『和名抄』に載っている物部郷17郷を概観しても地学的に不安定な土地に見え、下野国芳賀郡物部郷には別に大字で「物井」という地名もあり、地形・地質等に関する名前ではないのか。物井は物居かも知れないが、何か脆弱な地盤を連想させるところだ。
以上をまとめてみると、物部の物は大伴氏が管掌した「佐伯」と同じで、佐伯が「さえぎる」から出ている言葉とすると、山の佐伯とは山に囲まれた小盆地を意味し、野の佐伯とは林や川に囲まれた地域を言ったものではないのか。即ち、「物」とは遮蔽物、障害物を言ったものか。物や佐伯の中で何が行われていたかは解らないが、あるいは一般的に言う武器が造られていたのか、はたまた、生活のための農業が行われていたのかも知れない。しかし、ざっくばらんに言うと大伴氏、物部氏とも軍事の氏族というので兵士として徴兵されることが多かったのではないか。佐伯を管理したのが佐伯氏で、物を管理したのが物部氏なのである。

物部氏が祭祀を司ったというのも問題で、物部氏は一体に他氏の事績等を自分に取り込むことを得意とし、祭祀に関しても必ずしも物部氏だけではないが氏神が判然としない大豪族がほとんどだった。例えば、天皇家も天照大神を氏神とし伊勢神宮に祀ってあるが、天皇が伊勢神宮に参拝するようになったのは明治時代以降とか。大伴氏も神戸市の本住吉神社や大阪市の住吉大社が大伴氏の氏神を祀る神社かと思われるが、そういう話はほとんど聞かない。氏神が大きくクローズアップされるようになったのは、地方の豪族が大和国に滞在するようになりその敷地に地元の産土神を祀るようになったからではないか。物部氏もその時流に乗り遅れまいと物部氏の氏神を祀る神社探しを行ったのであるが、『新撰姓氏録』には以下のごとくある。

「大和国 皇別 布留宿祢 宿祢 柿本朝臣同祖 天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後也 男木事命。男市川臣。大鷦鷯天皇御世。達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地。以市川臣為神主。四世孫額田臣。武蔵臣。斉明天皇(皇極天皇か)御世。宗我蝦夷大臣。号武蔵臣物部首并神主首。因欠失臣姓為物部首。男正五位上日向。天武天皇御世。依社地名改布瑠宿祢姓。日向三世孫邑智等也」

やや意味不明だが、宗我蝦夷大臣が武蔵臣を名乗っていた布都努斯神社(現・石上神宮)の神主を物部首并神主首とした。臣姓を失ったので物部首となった、と言うもののようである。宗我蝦夷大臣がどうして布都努斯神社の社家のカバネを下げることができたのか解らない。そんなことは天皇が行ったのではないか。おそらくこの話は蘇我氏と物部氏を混同しており蘇我蝦夷に先行して物部連某が布都努斯神社の乗っ取りを謀り、武蔵臣に難癖を付けて「お前は今後物部大連の配下に入り物部首とする。よって、布都努斯神社の資料はすべて物部宗家が預かる」などと言って布都努斯神社の神官としての記録は物部氏の記録となったのではないか。上記の『新撰姓氏録』の文書を見ても布留宿禰一族が物部一族と理解しているとは思われない。布都努斯神社の本来の祭神は布留の産土神だったのではないか。従って、『記紀』に出てくる物部氏にまつわる神事に関する説話はほとんどが眉唾物で、布留宿禰の記録だったのではないか。

★まとめ

物部氏は大伴氏と比肩するようなことが書かれているが、道臣命は神武天皇の時代の人かも知れないが、饒速日命や宇麻志麻遅命の説話は後世に追加された可能性がある。そもそも神武天皇には日本海ルート(先導役は八咫烏)と瀬戸内海ルート(先導役は道臣命)を開拓し、朝鮮半島に打って出ようという気概があったようだが、饒速日命と宇麻志麻遅命は奈良盆地にいて何をしようとしていたのだろうか。
饒速日命や宇麻志麻遅命の説話は創作として、後世になって河内国古市郡(誉田御廟山古墳)や和泉国大鳥郡(大仙陵古墳)などに大型古墳があり、当時そのような大型古墳を造営できる氏族は誉田御廟山古墳なら物部氏、大仙陵古墳なら大伴氏とも考えられ、実際の大伴、物部両氏が活躍時期を一緒にしたのは四世紀から五世紀頃だったのか。
軍事部民たる佐伯部や物部にはどのような違いがあるのか。佐伯郷は西日本に多く、物部郷は中部から東日本にかけて多いようである。物部氏の東国経営が大伴氏に比べ進んでいたと言うことか。
物部氏の系図には伊香色雄命とか鬱色雄命とか、また、天磐船の船長には跡部とか舵取に阿刀とか船子に倭鍛師、笠縫、為奈部などが記録されており、これらは淀川水系や河内、大和の地と思われ淀川流域に物部氏発祥の地域があったと思われる。

(追記)物部氏は嘆かわしい氏族でいろいろな氏族の系譜を寄せ集めているのであるが、物部氏発祥の地を手短に言うと、

第一候補 始祖:大新川命 場所:兵庫県尼崎市田能字新川(尼崎市で猪名川と藻川に囲まれた島の内の北端部) 付近の遺跡:園田競馬場遺跡(田能高田遺跡)、田能遺跡 遺跡の概要:園田競馬場遺跡(弥生時代後期から古墳時代の集落。破鏡)、田能遺跡(弥生時代前期から古墳時代前期。集落。木棺墓。大工事による大溝。遺骸。六三二個の碧玉製管玉の首飾り。白銅製釧。細型銅剣の鋳型。)両遺跡からの出土品は九州北部の遺跡からの出土品に類似しているとの説あり。 物部の語源:藻川から押してみると「藻の辺(ものべ)」か。物部氏には天磐船の船子に笠縫とか曽曽笠縫とかが出てくるが、笠縫には水生植物(スゲなど)が必要とのことでモノノベのモは藻で、藻とはスゲなどの水生植物を言ったものではないか。物部は地名の読みになると「モノベ」が多い。

第二候補 始祖:大綜杵か。 場所:京都府向日市物集女町 付近の遺跡:縄文時代からの集落。古墳が多い。地名の語源として、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)とする説が有力。私見では、モズメは古く「毛都米(モツメ)」であったようで、モツメ→モツミ(藻積)で穂積と同じで水生植物の藻を積んで置いた場所か。

一応、物部氏の系図に取り入れられている人物は現代流に言うと「淀川広域水利組合」の歴代組合長さんの名前のようで、なぜか穂積氏と関わりが深いようだ。即ち、穂積氏の祖は『古事記』孝元段「穗積臣等之祖内色許男命」、『日本書紀』開化巻「穂積臣遠祖鬱色雄命」と言い、『日本書紀』崇神七年八月条「穂積臣遠祖大水口宿禰」、垂仁二十五年十月条「倭大神 著穗積臣遠祖大水口宿禰」と食い違いを見せ、『新撰姓氏録』では穂積朝臣条「伊香色雄命之後」、穂積臣条「伊香賀色雄男大水口宿禰之後」とある。鬱色雄命、大水口宿禰、伊香色雄命は物部系図では一本になっているが別系統の人物と思われる。特に、鬱(内)氏に関しては京都府八幡市内里内にある内神社では武内宿禰の弟(味師内宿禰<うましうちのすくね>) が祭神になっているが武内宿禰は祭神ではない。記紀にあんなに取り上げられながら地元では一顧だにされないのはどういうことか。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中