八咫烏とは

★はじめに

神武東征に出てくる「八咫烏」は一般的には鳥類のカラスと解釈されているようだ。その種の話は例によって中国や朝鮮の類話を日本風に解釈し、彼の地の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」をもって八咫烏としたもののようである。恐れ多くも、国家によって編纂された正史である『記紀』には三本足のカラスなどとは書かれていないのに、一般的には三本足のカラスと考えられている。当時の有識層は中国、朝鮮の文物に弱く何でも無批判にありがたがって受け入れたようだ。三本足のカラスの絵は「キトラ塚古墳の壁画や珍敷塚(めずらしづか)古墳(福岡県)の横穴石室壁画、千葉県木更津市の高部三〇号噴出土鏡、玉虫厨子(法隆寺)の台座などにみられる。」と言う。東アジアでは古代中国の文化圏地域に特有のものらしく「朝鮮半島ではかつて高句麗があった地域(現在の北朝鮮)で古墳に描かれているが、朝鮮半島南部(現在の韓国)にまでは広がっていない」と言う。これも高句麗から福岡県に一足飛びに入ってきたと考えるべきか迷うところであるが珍敷塚古墳(六世紀後半)や竹原(たけはら)古墳(六世紀後半)の壁画は高句麗の風習を描いたものとされ高句麗人が描いたものか。但し、珍敷塚古墳の鳥(とり)については三本足のカラスと言う専門家は現時点ではいないようだ。また、キトラ塚古墳(7世紀末から8世紀初)の壁画でもそのようなカラスは私見では確認できなかった。日本に三本足のカラス伝説が入ってきたのは少しばかり遅く八世紀に入ってからではないか。従って、八世紀初頭の『記紀』には左様なカラスが出てこなくても何ら不思議ではないのである。「中国では前漢時代から三足烏(さんそくう)が書物に登場」と言うので前漢を紀元前206年 – 8年の王朝とするならば神武東征の頃に三本足のカラス伝説があったというのはややもっておかしい話だ。そもそも「ヤタガラス」に「八咫烏」という漢字を当てるのもおかしいのではないか。

★八咫烏命名の根拠

八咫烏の読みは「やたがらす、やたのからす」だそうで、これで行くとヤタガラスは「やた」と「からす」の二語からなるようである。神武東征の段でヤタガラスも論功行賞に与っているのであるが、「頭八咫烏 亦入賞例 其苗裔 即葛野主殿縣主部是也」(【日本書紀 卷第三 神武天皇 二年春二月】)とある。まさかカラスから人間が生まれてくるわけでもなく、ヤタガラスは、結局、葛野(かどの)の人と解されよう。葛野とはどこなんだと言うことになるが、多数は山城国葛野郡と解しているようだ。即ち、現在の京都市北西部の人と言うことになる。しかし、実際にヤタガラスを祀っているご子孫の方は上賀茂神社や下鴨神社の社家の人々でこちらは山城国愛宕郡にある。従って、葛野主殿縣主部の葛野はどこなのかであるが、諸説あるも神武天皇時代には愛宕郡は未だなく後世の愛宕郡と葛野郡を合わせて葛野郡と言ったというのが多くの人の説くところである。葛野郡から愛宕郡を分離する際、どうして賀茂氏が条件がやや不利な愛宕郡を選んだか解らない。伏見稲荷大社の創建者・秦伊侶具は賀茂氏の出身という説もある。あるいは、山城国においては桂川中流域、鴨川下流域を秦氏の支配下におき、加茂川、高野川、鴨川上流域を賀茂氏の支配下にあてがい、その支配する地域を分割したか。とにもかくにも、これは後世のことであり、神武天皇時代は葛野郡や愛宕郡はもとより紀伊郡や宇治郡も賀茂氏の支配下にあったのかもしれない。

ヤタの起源

『新撰姓氏録』に以下の氏族が載っている。
山城国 神別 天神 矢田部 鴨県主同祖 鴨建津身命之後也
とあって、矢田部氏は鴨(賀茂)県主と同族という。矢田部の矢田は田んぼの意味ではなく、従って、田部も田畑耕作民やその伴造でもない。あるいは、愛宕郡、葛野郡、紀伊郡、宇治郡あたりに矢田ないし矢田部という地名があってもおかしくはないと思うが、今のところ見つからない。矢田には低湿地とか地滑り地の意味があるといい、あまり好ましい地名ではないので後世に佳名に変更したか。
いずれにせよこの矢田部氏の矢田がヤタガラスのヤタの語源ではないか。因みに、ほかの矢田部氏はすべて物部氏系である。

左京   神別 天神 矢田部連 連   伊香我色乎命之後也
大和国 神別 天神 矢田部     饒速日命七世孫大新河命之後也
摂津国 神別 天神 矢田部造 造   伊香我色雄命之後也
河内国 神別 天神 矢田部首 首   同神六世孫伊香我色雄命之後也

伊香我色雄命(いかがしこおのみこと)は現在の大阪府枚方市伊加賀界隈(天野川が淀川に入るあたり)を支配地とした豪族と思われ、大新河命は伊香我色雄命の子と言うのでこの矢田部氏は元々は天野川と淀川の交差した地域を支配したと思われる。伊香我色雄命の父は鬱色雄命(うつしこおのみこと)といい、鬱は内とも書き現在の京都府八幡市内里界隈(木津川、宇治川、桂川の三川が合流する)を支配した豪族ではなかったか。八幡市内里には内神社があり祭神は山城内臣と味師内宿禰と言う。しかし、これは間違いで鬱色雄命と鬱色謎命ではないか。いずれにせよ物部氏の系図には他氏(伊香賀氏や内氏)の人物ないし系図が取り込まれているのではないか。当時は配下の者の所伝はその上級の者がちゃっかりと自己の家伝に加えるのが一般的だったのかも知れないが、物部氏の「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」的発想はいかがなものか。
ヤタの漢字の本則は谷田という人がいる。その読みは、
ヤタ・ヤダは東日本、タニタ・タニダは西日本とすっきりと分かれているようだ。境目は愛知県で愛知県にはヤタとタニタが混在している。しかし、例外的に西日本にヤタ地名や東日本にタニタ地名がある。
西日本のヤタ地名
奈良県高市郡高取町大字谷田(やた)
東日本のタニタ地名
青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田小国谷田(たにた)
青森県つがる市木造善積谷田(たにた)
山形県東田川郡庄内町田谷谷田(たにだ)
最適の漢字として奈良官僚がヤタに谷田の字を当てたのだろうが、読みが出身地により二分したので「矢田」に統一したか。この矢田は全国でヤタと読み例外はないようである。おそらく、ヤタは縄文語で弥生時代になる前は全国に散らばっていた地名なのだろうが(四国、九州には少ないと言う説もある)、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代になると谷の読みは縄文系の人は「ヤ」と読み、弥生系の人は「タニ」と読んだらしい。奈良県で谷をヤと読んだのは、奈良県人は縄文人系の人が多いのか、あるいは、東国系の人が高取町にまとまって住んでいたのか。青森県や山形県で谷をタニと読んだのは水稲稲作が早くに入ってきたからか。水稲稲作の伝播は九州北部から日本海を北上し、青森県まで行き、青森県から太平洋側を南下し関東に到達したという笑い話のような話がある。

カラスの起源

一説によると現在の加茂川は平安京造営前は今の烏丸通りを流れていたといい、首都造営には邪魔と言うことで現在の流路に変更されたという。(ほかに6世紀に秦氏によって変更されたという説もある)従って、旧加茂川の河跡はカラス(涸洲)と言われ烏丸は「からすま」と発音されるのなら「烏間」と書くべきだったのではないかと思われるが、烏丸(からすまる、と発音する向きもある。平安時代は<からすまる>と読んだと言う)と書いている。河跡は砂と小石ばかりと言うことで、烏丸小路と言う道路になったが、藤原氏の邸宅街だったという。ところで、烏丸の語源もいろいろあるようだが、一説にカラスは河原州のことといい、京都市には河原(かわら)町があり、琵琶湖の烏丸半島(滋賀県草津市下物町)にも草津市川原町とか草津市川原(かわら)があるが、いずれも別の川の河原ではないのか。京都の河原町は現在の鴨川の河原であり、琵琶湖の川原町とか川原は葉山川の川原ではないのか。因みに、枯(から)す、涸(かれ)すの語義は、<汲み出したり、蒸発させたり、流入を防いだりして、池や川の水などをなくする>と言うことだそうで、河原州はいかがなものか。また、丸も朝鮮語などという向きもあるがこれも日本の環濠集落の痕跡で何かに囲まれたところの意味ではないのか。丸の内も近世では壕や濠に囲まれた城域の中を意味するが、弥生時代にあっては環濠の中を意味したのではないか。烏丸の丸の場合は両岸の堤防を言ったものか。因みに、丸の語源は「回る(まわる)」の意か。古くはマルではなくマロと言ったという。マル印やバツ印は日本にも元からあるようで何も朝鮮語のお知恵を拝借しなくともいいのではないか。
今の京都市には矢田烏(やたがらす)の地名は見当たらないのであるが、往時は隣り合ったくらいに矢田と烏(涸洲)の地名があったのではないか。これが一体化されて八咫烏とされたのではないか。

★まとめ

ヤタガラスと言えば我が国では鳥類のカラス一色でそれに尾ひれを付けていろいろ論じる向きが多い。ヤタガラスを鳥類のカラスと決めつけた原因は『記紀』編纂者の誤解にあったと思うが、『日本書紀』の方はヤタガラス(鳥のカラス)の存在をおかしいと思ったのか、はっきりと鳥と識別できる「金鵄」なるトビ(鳥類)を持ち出している。八咫烏と金鵄は意味不明のまま『記紀』に出現したので、混同や同一視されているそうだ。京都の賀茂神社(下鴨神社ウェブサイト)においては、「『古事記』『日本書紀』には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)として表わされた御功績が伝えられている」と曰っている。即ち、「金鵄八咫烏」は賀茂建角身命の化身であると。
ヤタもカラスも地名としては割と多く存在するようだが、ヤタとカラスが結びつくことはほとんどなかったようである。
当時のこと故、今で言う乗っ取りも考えられる。例えば、現在の京都市界隈に八咫(やた)氏、烏(からす)氏、賀茂(かも)氏の有力三豪族ががいて、八咫氏と烏氏は後継者がままならず、賀茂氏が八咫氏と烏氏の財産・地位を継承し、当初は賀茂ではなく八咫烏と言う一種の複姓を名乗っていたのではないか。ヤタは地名的には関東地方や東北地方で谷(や)、谷戸(やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などと呼ばれるもので丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形を言うとのことである。京都市でもこじつけに言うと京都市右京区京北田貫町ヤタ田(けいほくたぬきちょうやただ)が該当するようだ。
また、カラスは水がなくなった池や川をいい、京都市には御池と言う地名があり、烏丸御池というそのものずばりのような地名もある。しかし、御池通は平安京開設当時は三条坊門小路言い、御池通というようになったのはもっと後になるようである。
そこで、いろいろくどくどと説をならべても始まらないので、自説に有利な説を紹介すると、
賀茂川は元は盆地中央部(現在の烏丸通りか)を南流していて、平安京域の中央部あたりで高野川と合流していた。そのときは、現在、賀茂川と高野川が合流して形成している三角州のような扇状地は盆地中央部にあり、神武天皇時代には八咫烏と呼ばれていたのではないかと思われる。八咫烏の領主だったので八咫烏と言われたのであろうが、後世の官僚は鳥のカラスと解したようである。あるいは、現在の京都盆地は、往古、湖沼地帯であったが、賀茂川の流路変更等によりその湖沼が涸洲となり、当時の人が数えることができる個数(8とか10とか)以上だったのでヤタと表記したか。即ち、ヤタとは当時の人の数値の最大値を言ったものだろう。畢竟、八咫烏とは現在の京都市のことなのである。

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