神武天皇は縄文人か弥生人か

★はじめに

我が国の建国記念の日は「国民の祝日に関する法律」の第二条「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」により、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔・グレゴリオ暦に換算すると、紀元前660年2月11日に当たるとされる。)に由来する。およそ今(西暦2016年)から2680年ほど前の話で、その頃は日本史上は縄文時代晩期か弥生時代早期に当たるらしい。そこで神武天皇というのは縄文人なのか弥生人(渡来系弥生人)なのかがはっきりとしない。一応、その検討資料として御名を見てみると、

『古事記』(上巻)
「この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、その姥玉依毘売命を娶して、生みし御子の名は、五瀬命、次に稲氷命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命、亦の名は豊御毛沼命、亦の名は神倭伊波礼毘古命。」(読み下し文)とあり、神武天皇の御名は若御毛沼命、豊御毛沼命、神倭伊波礼毘古命とあり、『古事記伝』では御毛沼命の御は接頭語で、毛は食、沼は主であり、御食主と同意語で、食物を司る神のことであるという。また、一説に若御毛沼、豊御毛沼は穀霊的性格を示す幼名であるという説もある。

『日本書紀』(巻第二 第十一段)
次神日本磐余彦尊【日本書紀 卷第二  第十一段 本文 原文】
次狹野尊 亦號神日本磐余彦尊 所稱狹野者 是年少時之號也 後撥平天下 奄有八洲 故復加號 曰神日本磐余彦尊【日本書紀 卷第二 第十一段 一書第一 原文】
次磐余彦尊 亦號神日本磐余彦火火出見尊【日本書紀 卷第二 第十一段 一書第二 原文】
次神日本磐余彦火火出見尊【日本書紀 卷第二 第十一段 一書第三 原文】
次磐余彦火火出見尊【日本書紀 卷第二 第十一段 一書第四 原文】
天皇の御名は1.神日本磐余彦尊2.狹野尊3.火火出見尊とあり、1.の神日本磐余彦尊の「神」は美称、「日本」は国名、「磐余彦」は地名による人名かと思う。2.の狹野尊は「さ(狭)」+「の(野)」で、「山合いの野」という地名、あるいは、「狹」は美称で「野」という地名、小野が小さい野に対してサノは狭い野という。3.火火出見尊は字義通り解して「燃えさかった産屋(うぶや)の焰が衰えたときに生まれた」と言う見解もあるが、私見では「火遠理命(山幸彦) 亦名天津日高日子穂穂手見命」(古事記)を採用し、穂穂は稲穂が林立する様(穂の複数表現)、手は方向を示す言葉(例、山の手など)、見は廻で、~の辺りを意味し、具体的には近時発見された、奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡、橿原市の萩之本遺跡等の水田遺跡のことを言ったものではないか。これらの発掘調査の様子を見てみると磐余家(天皇家)は少しばかり葛城家に後れを取っていたのではないか。また、神武天皇にも祖父に当たる火遠理命(山幸彦)にも、<次磐余彦尊 亦號神日本磐余彦火火出見尊【日本書紀 卷第二 第十一段 一書第二 原文】>(神武天皇)、<兄(え)火闌降命(ほのすそりのみこと)、自(おの)ずから海幸(うみさち)有り。弟(おと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、自(おの)ずから山幸(やまさち)有り。【日本書紀 卷第二 第十段 本文 読み下し】>(火遠理命)と、いずれも彦火火出見尊とあり、原初の初代天皇は火遠理命(山幸彦)とする説がある。特に、津田左右吉博士は神武天皇は造作とするもののようで、そこまで言わなくとも火遠理命(山幸彦)を二人の人物にしたと言うことらしい。しかし、「火遠理命(山幸彦) 亦名天津日高日子穂穂手見命」とか「彦火火出見尊」と「神日本磐余彦火火出見尊」と両者の御名は書き分けられている。『記紀』はネタ不足で素材の使い回しも多いことかと思うがここでは神武天皇は実在した、とする。
以上より判断するならば神武天皇は現在の奈良県(旧大和国)の人で、海の人や川の人ではなく山の人と思われる。天皇の活躍地域に莵田、吉野、磯城、葛城、高尾張邑、鳥見山、腋上の丘などがあり、大和国が内陸の盆地ゆえ山間部に偏るのは当然と言えば当然だが、山の民であったことは間違いないのではないか。祖父の火遠理命も山幸彦の別名があり山の民であった。

★神武天皇の取り巻き

神武天皇は東征後論功行賞を行っているのであるが、神武東征は造作とするのが現今の多数説とするならば論功行賞やそこに出てくる人物も存在しないことになる。しかし、論功行賞を受けた人の子孫がその後も存在したと言うことなので、正否はともかくそれらの人々を検討してみる。これらの人たちだけが神武天皇の取り巻きと言うことではないと思うが、一応、『日本書紀』では、

【日本書紀 卷第三 神武天皇 二年春二月 原文】

二年春二月甲辰朔乙巳 天皇定功行賞
賜道臣命宅地 居于築坂邑 以寵異之
亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地 今號來目邑 此其縁也
以珍彦爲倭國造 【珍彦 此云于故】
又給弟猾猛田邑 因爲猛田縣主 是菟田主水部遠祖也
弟磯城名黑速 爲磯城縣主
復以劒根者 爲葛城國造
又頭八咫烏 亦入賞例 其苗裔 即葛野主殿縣主部是也

道臣命、大來目、珍彦、弟猾、弟磯城名黑速、劒根、頭八咫烏が論功行賞に与っている。

1.道臣命
道臣命は記紀では大伴氏の遠祖と言うが、大伴氏が神武天皇以来大和朝廷の重臣として朝廷と関わりを持ったかは疑問。当時は後世の摂津国や河内国を領有する一地方豪族であったと思われる。その意味ではおつきあい程度の関係はあったかと思うが、道臣命と出てくるのは、後世、記紀神話作成の際、大伴氏が主要な役割を占め、たまたま神武天皇の要職に道臣命という人物がいてそれを自己の系図に結びつけたのではないか。当時の神武天皇の宰相は大久米命と思われる。天皇氏、久米氏とも山部と思われ、同業の豪族だったのではないか。これに対し、大伴氏は摂津国を基盤とする豪族で海部であったと思われる。従って、天皇氏との距離は久米氏の方が近く、大伴氏は少しばかり離れていたと思う。
しかし、当時の奈良盆地の経済情勢を考えるなら、隣家(国)の葛城氏は水田稲作を始め、天皇氏はただ指をくわえてみていたのではないと思う。葛城氏はおそらく吉備国から技術導入をしたと思われ、天皇氏もまず吉備氏に技術提携を申し入れたが断られ、吉備国と大和国の中間にある摂津国の大伴氏に提携を申し入れたのではないか。大伴氏としては漁師がどうして農家をしなければならないのかと言う思いだっただろうが、そこは魚を食べて頭脳明晰、人たらしにも長けていた大伴氏はあちこちに人材を派遣しあっという間に技術を習得したのではないか。当時は菜畑遺跡に見られるように、漁業と農業が兼業で行われていたのかも知れない。その後は奈良盆地の水稲稲作は天皇氏が葛城氏を追い抜き、トップに躍り出るや否や神武天皇は手のひらを返したように「山猿の大久米命じゃあ駄目だ。道臣命を宰相にしよう」などと唐突に言い出したのではないか。また、道臣命は「宅地 居于築坂邑」と言っているところを見ると、大和国には常駐していなかったようだ。

2.大來目
大久米命は「居于畝傍山以西川邊之地」とあり、川邊と言うところに宅地を賜ったようだ。久米というのは久保が垂直方向にへこんだところに対し、水平にへこんだところか。川邊と言うところは川(久米川か)の曲流点だったのかも知れない。久米氏の特徴としては、戦闘歌久米歌はこの集団の半農半猟的性格をよく表していると言う。久米歌とともに久米舞もあった。『古事記』によると大久米命は神武天皇と皇后伊須気余理比売との仲をとりもったとある。また目のまわりに入れ墨をしていたともある。当時の日本人は山部、海部を問わず入れ墨をしていたらしい。山なら熊とか、海なら鮫とかから身を守るための呪術的なものだったか。飾り(化粧)的なものになったのは後世のようだ。

3.珍彦、弟猾、弟磯城名黑速、劒根
いずれも現代的に言うと村とか市とかの領域をあてがわれ縣主とか国造に任命された。
珍彦(うずひこ)は槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)とも椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)とも言われる。珍彦は神武東征で活躍したが現在では神武東征は造作とする見解が多いので、本当の活躍場所がどこだったかは解らない。従って、あちこちに伝説がある。
弟猾(おとうかし)は大和国の菟田県(うだあがた。現・宇陀市)の豪族。兄の兄猾を裏切り猛田縣主となる。菟田主水部(飲料水係)遠祖。
弟磯城名黑速(おとしき・くろはや)は磯城縣主となる。
劒根(つるぎね)は葛城國造となる。
以上の人物は私見によれば天皇氏が大和国を統一する際、配下に組み込んだ人たちと思われるが、便宜上、神武東征の項に組み入れたものと思われる。

4.頭八咫烏
京都市には今でも「烏丸(からすま)」という地名(平安京開設以来の地名という)があり、「からすま」の語源は「河原の洲(砂州)に接した土地」を意味する「川原洲際」(かわらすま)だと考えられている、と言う。頭八咫烏の苗裔は葛野主殿縣主部と言うので先史時代・有史時代を通じて現在の京都市に住んでいたことが解る。具体的な場所ははっきりしないが、現在の高野川と加茂川に挟まれた上賀茂神社や下鴨神社のある一帯を言うのかもしれない。下鴨神社には「糺の森」という地名があり、「糺す」とは「只洲」(痩せた土壌の意か)と書くと言う見解もある。と言うことは、『記紀』の言う八咫烏は「大きな鳥のカラス」というのは勘違いで、はじめから人名だったと思う。『記紀』には鳥のカラスの習性を研究して一生懸命述べておられることはご苦労なことではあるが見当外れのことと思われる。おそらくカラスを漢字で書くと涸洲とでもなるのではないかと考える。八咫烏氏がどうして神武東征の段に出てくるのかと思うが、当時にあって大和からの朝鮮半島への航路としては日本海ルートと瀬戸内海ルートがあったようだ。その道程の安全を確保するためにはそれなりの警備員を置かなければならない。八咫烏氏は日本海ルートの山城国界隈における警護団の長だったのではないか。これに対して、瀬戸内海ルートの摂津国の警護団長として大伴氏が当たったようだ。
頭八咫烏の論功行賞は葛野主殿縣主と考えられるが、これは苗裔というので後世のことで神武東征の八咫烏氏は八咫烏全域(現在の京都市東北部か)を与えられたのではないか。
八咫烏の意味についてはいろいろ諸説あるようだが主なものを上げてみると、
ヤタは、
1.八田は治田(はりた)で、「新しく開墾した田」である。
2.低湿地のこと。ヤは湿地、タは処の転。
3.古語ヤダは欠点、弱点の意。地滑り地。
「新しく開墾した田」は格別低湿地や地滑り地は有用な土地とは言えない。
カラスは、
1.小石の多い土地。
2.乾いた砂地。
3.水のない涸れたところ。
ほかにも諸説があるかと思われるが、いずれも耕地としては不適当と言うことではないか。京都の「糺の森」の植生について、「ニレ科に代表される落葉広葉樹林の様相が強まる。この点については、河原石の多い痩せた土壌が樹木相の主因である」という意見があり、古代の八咫烏氏も土地は広いが、地味が痩せていて開墾には苦労したのではと思われる。
八咫烏氏はその後居住地の地名により賀茂氏(大和国の賀茂氏とは違う)と名乗った。
ヤタガラス伝承は、賀茂氏が主殿の職務として天皇の先導役に当たっていたことに由来すると言う説もある。『記紀』編纂者が各豪族に由緒来歴の提出を命じた時、作文をしたと言うことか。いろいろ検討をしても作文である以上学術的にはあまり意味のないことと言うべきか。

★弥生時代はいつ始まったか

弥生時代とは 1.弥生式石器 2.弥生式土器 3.水稲耕作 4.金属器の使用 5.渡来系弥生人などが弥生化した時代を言うのであるが、特に、弥生式土器、水稲耕作、金属器の使用、渡来系弥生人が重要である。
弥生式土器は、ものを貯蔵する壺、煮炊きに使う甕(かめ・cooking-pot)、食膳に供する鉢や高坏などがセットとしてそれぞれの役割をはたしていた点が縄文土器と異なる。
水稲耕作の始まりはずるずると古くなっていき縄文時代には確実に我が国で水稲耕作が始まっていたと言うのが現今の多数説のようである。しかし、我が国最古と言われる水稲耕作遺跡である菜畑遺跡は従来は縄文時代晩期末(2900年ほど前)と言われていたのに、現在は弥生時代早期初頭と言うらしい。勝手に時代区分を変えるなと言いたいのだが、学者先生がそのように決めるのだからどうしようもない。
金属器の使用は日本における青銅器と鉄器の使用は遅く、弥生時代初期からであり、両金属器の開始時期はほぼ同時期にあたる。日本においては、利器としての金属器は当初から鉄製のものが使用され、青銅器は当初からもっぱら祭器として使用された。
弥生人については渡来系弥生人と土着系弥生人がいたもののようである。土着系というのは従来の縄文人のことで渡来系弥生人は水稲耕作を我が国へ持ち込んだ人と考えるなら、中国の江南地域の人が多かったようである。我が国への稲の伝来ルートについては、農林水産省が以下のごとく曰っている。

米(稲(いね))の伝来(でんらい)ルートは

1.朝鮮半島(ちょうせんはんとう)経由(けいゆ)
2.台湾(たいわん)・沖縄(おきなわ)経由
3.中国大陸から直接(ちょくせつ)

という3つの学説(がくせつ)があります。このうち、中国大陸から直接伝来(でんらい)したという学説がいちばん有力(ゆうりょく)です。

佐藤洋一郎博士によれば稲の8種類のDNA多型のうち日本には3種類しかないとのことで、かつ、朝鮮半島と日本のDNA多型は異なると言うことである。従って、稲の伝来ルートが多元的とは考えられず、弥生時代の水稲耕作を日本へ持ち込んだのは中国の長江流域の人と考えられる。中国は南部へ行くほど古モンゴロイド系の人も多くなると言うので二重まぶたで目もぱっちりとした江南人は縄文人と同じ風貌をしており、摩擦も少なかったのではないかと思われる。これに対して朝鮮半島経由の寒冷地対応した新モンゴロイドは一重まぶたで細目だったので縄文人とはなじめなかったのではないか。おそらく、朝鮮半島から人々が大量に我が国にやって来たのは古墳築造のための土木技術を伝えるためではなかったか。あれこれ判断すると日本の弥生時代は縄文人と江南人の混成弥生人として出発したのではないか。江南人が日本列島にやって来て、水稲耕作を始めたのは、具体的には、

『山海経』
1 海内北経
「蓋(がい)国は、強大な燕<(BC1100年頃 – BC222年)>の南、倭の北にある。倭は燕に属している。朝鮮は列陽の東の海、北山の南にある。列陽は燕に属している。」

『論衡』
第八 儒僧篇
「周<周(BC1046年頃 – BC256年))>の時、天下泰平にして、越裳(えっしょう)は白雉を献じ、倭人は暢艸(ちょうそう)を貢ず。」

以上の書物によれば朝鮮半島でも長江流域でも中国が日本を認識し始めたのは今より3000年ほど前になるのではないか。従って、日本で水稲稲作が本格的に始まったのは西暦紀元前1000年代以降かと思われる。

★まとめ

大和朝廷の初代天皇を神武天皇とするならば、天皇の即位年月日は『日本書紀』によると「辛酉年春正月庚辰朔」とある。これは明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。しかし、これは「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が始まり、王朝が代わり、同時に正しい大改革も行われるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」(那珂通世説)というのが最大公約数的見解で、神武天皇は現在ではその実在を信ずるものは少ない。天皇のモデルになった人物としては崇神天皇、応神天皇、継体天皇、天武天皇などを上げる向きが多い。従って、神武天皇はこれらの諸天皇の寄せ集めで実在性はほとんどなく、実際の初代天皇は崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇などに求めるべきと言うのが多数かと思われる。しかし、神武天皇即位年月日についても、単に「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作」と言うだけでなく、記紀編者が中国や日本の書物(『山海経』や『論衡』など)を検討し、かつ、「辛酉革命説」により決定したのではないか。従って、存在しない天皇の即位年月日を論ずることははなはだおかしいことではあるが、でたらめに設定したものではないものと思う。
神武天皇の説話から「神武東征」の話を除いたら何が残るのだ、と述べる向きもあろうかと思うが、神武東征はなかった、しかし、神武東征に代わる説話があったことは確実と思われ、『記紀』ではその説話がオミットされてしまった。神武東征のような架空の話よりは遙かに内容のある事実譚があったのではないか。例えば、奈良盆地では2400年ほど前に大がかりな水稲耕作が行われていたと言うが、神武天皇もそれに何らかの関わりを持っていたと思われるし、それに、後世の山城国や丹波国の併合、また、出雲国の平定などがあったのではないか。
神武天皇は縄文人なのか弥生人なのかは難しいところであるが、その取り巻きは大伴氏<道臣命>(海部)、久米氏<大久米命>(山部)、珍彦(海部、水先案内人)、弟猾、弟磯城名黑速、劒根(奈良盆地の中小豪族)、八咫烏(山部)で、その生業体系を見てみると狩猟・植物採取・植物栽培・漁労は縄文時代そのものであり、田部とか額田部(額田部は田部の一種と言われるが不明)などは出てこない。
以上より結論を言えば、神武天皇の即位した「辛酉年春正月庚辰朔」と言うのは『日本書紀』編纂者が中国の書物や日本の伝承を元に割り出したもので当たらねど遠からずと言うところではないのか。また、神武天皇の生活様式は縄文時代から弥生時代への過渡期にあたり、争いのない平和な縄文時代から敵を殺害するという争いの時代に入ったのではないか。神武東征が架空の話としても人民の支配とか領土拡張とかそれに伴う貧富の差など新しい社会が出現する際、人間同士の摩擦は避けられなかったと思われる。神武天皇はその端緒の人であり、「辛酉年春正月庚辰朔」即位説もあながち不当なものとは思われない。但し、私見では神武天皇は『魏志倭人伝』から判断すると西暦元年前後の人ではないかと思われる。

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