大物と言う地名

★はじめに

尼崎市の地名を見ていたら、食満(けま)、大物町(だいもつちょう)、椎堂(しどう)、若王寺(なこうじ)、久々知(くくち)、西昆陽(にしこや)、穴太(あのう・1961年町名改正により東園田町の一部)などの読み慣れない文字が出てくる。難読地名はどこの地域にもあるものだが、人によっては全部をすらすらと読めても、知識のない者にとってはチンプンカンプンになってしまうのではないか。尼崎市の場合はプロパーな地名は少ないようで旅行好きな人はほとんど読めるのかも知れない。穴太(あのう)などと言うのも穴太衆(現在の滋賀県大津市坂本穴太界隈出身の石工集団)とはまったく関係ないそうで、じゃあ穴太って何なのかと言うことなのだが、いずれも古墳に関係づけられているようで、尼崎市の穴太なら塚口古墳群、大津市の穴太なら湖西地方には大型前方後円墳は鴨稲荷山古墳(高島市)くらいなもので穴太古墳群は197基の横穴式石室墳からなる群集墳であると言い、穴太と言う地名はこれらの古墳群と関係があるのだろう。穴太衆は「古墳築造などを行っていた石工の末裔である」と称していたという。この場合の「穴」は「墓穴」のことを言うようで石工が造る石室が基本かと思う。また、大津市の穴太にはオンドル状の遺構があるといい、穴太衆の技術は朝鮮半島からやって来た人たちのもののようである。現在、正規の穴太の地名があるのは「三重県員弁郡東員町穴太」と「滋賀県大津市穴太」と言う。東員町には猪名部神社境内古墳及び四日市市、桑名市、東員町にまたがる北山C遺跡で古墳時代中期の古墳(方墳24基、円墳1基)が発見されたと平成26年に発表された。但し、「あのう(表記には穴生、賀名生、穴穂、安納、安濃、安濃、阿納など)」という地名は全国的に見られ、これらの地域が交通の要衝であることが多いことから、交通に関する古代語に由来するという説がある、と言う。しかし、穴太衆が城の築造や寺院建築で全国に移り住み「あのう」の町が生まれたと言う説もある。語源的には成務天皇・志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)の穴穂(<あなほ>→<あなふ(う)>)という説や、朝鮮の安羅→安那から<あなふ>となったとする説などがある。私見では「穴」は墓穴の意味であり、「あのふ」の「ふ」は漢字で書くと「生」で、ものの多いことを意味し、「あのふ」とは本来は古墳群を意味する言葉ではないか。

ところで、尼崎市には大物町(だいもつちょう)と言う町がありこの地名も全国的に散らばっているようだ。以下の地名があるという。

秋田県鹿角市尾去沢大物(だいもつ)
宮城県刈田郡七ヶ宿町大物沢(だいもつさわ)
滋賀県大津市大物(だいもつ)
京都府京都市南区上鳥羽大物町(だいもつちょう)
京都府南丹市日吉町志和賀大物(だいぶつ)
兵庫県尼崎市北大物町(きただいもつちょう)・西大物町(にしだいもつちょう)
大物町(だいもつちょう)東大物町(ひがしだいもつちょう)
高知県宿毛市大物川(おおものがわ)

読みもほぼ「だいもつ」となっており、九州、中国、四国には<高知県宿毛市大物川(おおものがわ)>を除いてはないようで、畿内と東北に集中している地名だ。東北と京都を結びつけるものとして金売吉次の「金」の取引が有名である。鹿角市の尾去沢鉱山は銅ばかりでなく金を産出していたことでも記録に残るが、七ヶ宿町は失礼ながら何もない山間の寒村のようだ。あと、東北には鬼面川(おものがわ・山形県米沢盆地)や雄物川(おものがわ・秋田県中央部)という地名もある。これらの「おもの」が大物(だいもつ・だいぶつ・おおもの)と語源を同じくするかは不明である。

★大物(だいもつ)の語源

いろいろ各方面からの語源説が出ているようだが、一応、大物に限って見てみると、

1.尼崎市大物町
平安時代に港町として栄え、西日本各地からの材木の集散地として知られるようになり、取引された巨材を意味する「大物」から、この地を大物と呼ぶようになったとの説。(角川書店『日本地名大辞典』兵庫県P466)など。
「大物浦は古くからの物流の結節点で、海の輸送と川・陸の輸送との変換点であった。海上を運ばれた物資はここで川船に積み替えられて都へ運ばれ、また西国を目指す人々にとっては海の玄関口でもあった。」とのことである。
2.大物の「物」の意味について
この場合の「物」とは「岩」や「木」を意味するという。この説によれば、大物は大岩とか大石並びに大杉とか大松の意味と同じことになるのだろう。さすれば、大岩とか大杉とかストレートに言えばいいことで大物と言ったのでは意味が伝わりにくくなるのではないか。
3.秋田県鹿角市尾去沢大物(だいもつ)は、大物(大きな金の塊)が取れた沢の意味だという。

私見
「大物」の読みは「だいもつ」「だいぶつ」「おおもの」が一般的なようで、「大物」を「だいもつ」と言うのはただただ「大物」と言う漢字があって、それを一般的な読み方で現したものなのだろう。時代的には平安時代末からと思われるが、金(きん)で騒いだ奈良時代にはさかのぼらないと思う。但し、天平勝宝八歳(756)十二月十七日の摂津国河辺郡猪名所地図写には、東大寺領猪名庄の南部に杭瀬浜・長渚(洲)浜とともに大物浜の記載が見られるが、後世の追記と考えられている。従って、平安・鎌倉時代に「大物」が何を意味したかが解れば簡単に答えが出てくるのであるが、辞書には「1 大きな形のもの。また、価値のあるもの。2 その方面で大きな勢力・影響力をもっている人物。また、器量の大きい、すぐれた人物。」とある。いずれも地名の語源には結びつかないものと考えられる。
「大物」があれば「小物(こもの)」地名もあり、

京都府京都市東山区西小物座町(にしこものざちょう)
京都府京都市東山区東小物座町(ひがしこものざちょう)
福島県いわき市小名浜金成小物作(こものさく)
宮崎県宮崎市花ヶ島町小物町(こものちょう)

京都の小物座のいわれは「小物座の称は蔣座(こもざ)の転で、応仁の乱に焼け出された金剛寺阿弥陀仏を郷民が蔣座において喜捨を求めたによるといい、それは東山阿弥陀ヶ峰宝皇寺の阿弥陀仏だとも言う(坊目誌)」
いわき市の小物作は小物は不詳ではあるが作は 1.細く行き詰まった土地 2.畑の畝のこと、を言い、一般的には沢とか谷を言うようである。
宮崎市の小物町は九州には大物と言う地名がなく、この小物は薦野(こもの)のことかと思われる。九州には薦野という地名があり(福岡県古賀市薦野)それによるものであろう。水辺に生えるイネ科の多年草マコモの生えている野のことである。

★まとめ

「大物」にせよ「小物」にせよ、その地名のあるところは水辺(川)が多い。ほとんどが川沿いにある土地で、現代的感覚で言うと人家があってはいけないような場所である。

秋田県鹿角市尾去沢大物(だいもつ) 川の名は不詳も米代川の支流とおぼしき川が流れている。
宮城県刈田郡七ヶ宿町大物沢(だいもつさわ) スキー場のそばの川の流れる沢である。
滋賀県大津市大物(だいもつ) 四ツ子川と言う川が流れている。
京都府京都市南区上鳥羽大物町(だいもつちょう) 鴨川の支流が流れていた。
京都府南丹市日吉町志和賀大物(だいぶつ) 川とは言えないような短い川が流れている。
兵庫県尼崎市大物町(だいもつちょう) 神崎川の河口港であったと思われる。
高知県宿毛市大物川(おおものがわ) その名の通り川縁の集落である。
京都府京都市東山区西小物座町(にしこものざちょう) かって草内(くさち)川(小草川)があったという。
福島県いわき市小名浜金成小物作(こものさく) 矢田川中流右岸にある。

川の沿岸に沿ってある土地ではまず治水に意を用いるであろう。例えば、滋賀県大津市大物では以下のような話がある。
四ツ子川の「百間堤」(大津市大物地先)
「当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠(まさみ)は、水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました」と。<竣工は嘉永五年(1852年)>すでに、大物村と言っているところを見ると過去に何度も水害に見舞われていたことと思う。
治水の提要と言えば水害対策、土砂災害対策である。いずれも有無を言わさず財産を根こそぎ流してしまうのでまず洪水、土石流が押し寄せてこないように堤防を築かねばならない。技術の進んだ現代においても堤防決壊は頻繁に起きている。そんな危険なところに住まずにもっと高地に住んだらどうなのかと言うことになるかと思うが、水は人間の生存に欠かせないもので飲用、農業(水田、灌漑)、水運、淡水漁業などに必要不可欠なので水利の便が悪いところでは生存が難しい。例え、山の中に住もうとも多少の差はあれ人々は水の確保に努めるだろう。当然水を確保するためには水路が必要となり、自然水路か人工水路かは解らないが、水路を確保したことは間違いないと思う。
そこで「大物(だいもつ)」とか「小物(こもの)」とは何なのかと言うことであるが、まず、ほとんどの地域が川沿いにあるので水と関係があると思う。水を利用しようと思えば、川や湖沼には堤防を築かねばならない。また、水路も必要。やはりこの物(もつ、もの)は古く水を盛る容器を盌(もひ)と言ったようなので水を逸失しないようにするものを言ったのではないか。具体的には河川、運河、用水路、上水道などの堤の部分ではないか。大物と小物の区別は、大物はやや持って人の手が加わった大ががりなもので人工堤防をいい、小物とは人手のかからない自然堤防のようなものを言ったかと思われる。
以上を持ってするならば、古代豪族物部氏も物は「堤防」で、部は「~の辺り」の意味で、大伴氏が海部的氏族だったのに対し、物部氏は川部的氏族だったのではないかと思われるが、後日に検討してみたい。

(追記)

『あぶない地名ー災害地名ハンドブック』(小川豊、三一書房)によると、タイ(田井、台、泰井、手結)1.水に面した河岸段丘の土地で、昔の氾濫時の流路跡や、川沿いの所。2.海岸で段丘地形で砂丘または溶岩台地。3.洪水になりやすい扇状地。モチ(用、持、茂地)1.エダ地形と類似の、降雨時水が溜まりやすい所。小さな盆地地形を指し、洪水で浸水しやすい土地。2.緩やかな傾斜地。3.川の崖、と言う。この「タイ」と「モチ」をあわせるとタイモチとなり、タイは台のことで日本の古語であるという。また、モチは<物>の漢字をモノ、モツ、モチの読みを当てているようで、方言辞典では<モチ>が優勢のようである。漢字表記をすると「大物」となり、古くはダイモチと発音したか。以上より「大物」の意味を推量すると「水に面した河岸段丘で、洪水で浸水しやすい土地」という意味になるか。

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