猪名部とは

★はじめに

猪名部というのは地名から来ているのか、はたまた、職名から来ているのか、判然としないところがある。ほとんどの人は『和名抄』に言うところの摂津国河辺郡為奈郷(現・尼崎市東北部)に由来すると考えているようだ。そもそも、猪名部の文献初出は,
『日本書紀』応神天皇31年8月条「・・・諸國一時貢上五百船 悉集於武庫水門 當是時 新羅調使 共宿武庫 爰於新羅停忽失火 即引之及于聚船 而多船見焚 由是 責新羅人 新羅王聞之 讋然大驚 乃貢能匠者 是猪名部等之始祖也」で、最後の「乃(すなわ)ち能(よ)き匠者(たくみ)を貢(たてまつ)る。是、猪名部(ゐなべ)等の始祖(はじめのおや)なり」と言う。しかし、この時代の猪名部氏は摂津国のほか伊勢国員弁(ゐなべ)郡と越前国足羽郡(猪名部張人)、丹生郡(猪名部黒人)、近江国(猪名部枚虫所)、丹波国(為奈部黒当売)、隠岐国(猪名部諸人)等にもいたようでそれぞれがどのように結びつくかははっきりしない。
猪名部は摂津国、伊勢国、伊賀国に多いが、後世になるに従って船大工職は放棄し、建築大工として大型建造物等の需要が多い畿内近国に在住するようになったのではないか。また、「猪名県」(日本書紀、仁徳天皇38年7月条)がこの地域に設置されていたと考えられ、猪名県には猪名県主がおり、その部曲(かきべ)として猪名部がいたと思われる。従って、摂津国には大工の猪名部と部曲の猪名部が併存しており、猪名部の数も他の地域よりは多かったものと推量される。
伊勢国員弁(ゐなべ)郡の猪名部は猪名部神社の社伝では、猪名部氏は、攝津国(兵庫県)の猪名川周辺から移住してきたと言い、天平17年(745年)8月に第45代聖武天皇の勅で始まった東大寺の建立に、猪名部百世(伊賀国出身)が大工(=棟梁)として、飛騨の匠の益田縄手が少工(=副棟梁)として動員され完成している。さらには法隆寺、石山寺、興福寺の建立にも携わった記録が残り、古墳の出土品からは飛鳥寺建立にも携わっていることが知られている。従って、伊勢国の猪名部氏は「能匠者」の直系かどうかは解らないが、「大工の猪名部」と言うことになろうかと思われる。ほかに、不破関と鈴鹿関の警護に猪名部が起用されたと言う説がある。猪名部は大工ばかりでなく軍事の氏族でもあったのか。

★猪名部の語源

*地名を語源とするもの
猪名部を一語ごとに区切ると一般的には「猪名」と「部」に区切られるようだ。「猪名」は別に「為奈」とも書き、また、伊那(信濃国伊那郡)とか伊奈(対馬国上県郡伊奈郷)とかもあるが、古代にあっては猪・為(ゐ)と伊(い)は発音が違うといい、そんな区別もつかないようじゃあ話にならぬ、とその道の大家に言われそうなので「伊那(いな)」とか「伊奈(いな)」は取り上げない。そこで、為奈郷の「ゐな」なのだが、
1.ゐな(か)の「か」が省略されたもので、田畑のなかに家が一軒しかないような所を言うか。田舎の語源は田居中(タヰナカ)のタが省略されたものという(『大言海』)。
2.ヰは水のあるところ全般を指し、ここでは川(猪名川)を言うもののようである。ナは場所を示す接尾語。
3.為奈は為野(ゐの)の転で、為は水の意で、野は野原の意。即ち、湿地のことか。但し、開発の遅れた為奈野(伊丹台地)は高燥の土地という。

*職名を語源とするもの
日本の苗字・家紋研究の泰斗である丹羽基二博士はその著作の多くで、員弁(ゐなべ)を「ゐんべ」と読み、斎部、忌部、伊部等に関連づけている。斎部、忌部、伊部は「いんべ」と読むのではないか。元々は「いみべ」とか「いむべ」と読んだかと思われる。もし、この説が正で員弁(ゐなべ)を「ゐんべ」と読み、斎部、忌部と同じとするならば、猪名部は古代朝廷の祭祀を担った氏族か。忌部氏は祭具作製・宮殿造営(紀伊国の忌部)も行ったというので大工の忌部(=猪名部)がいても何ら不思議はない。そもそも忌部氏が台頭したのは蘇我氏とともにで、蘇我氏が斎蔵、内蔵、大蔵の三蔵を管理するようになり、忌部氏は蘇我氏の下で斎蔵の財政を管理し、その財政権で神祇界に勢力を伸ばした、とするもののようである。カバネも中臣氏の連にたいし忌部氏は首で差があったといわれている。以上より丹羽基二説は猪名部とは忌部の転訛と言うことで職掌を現すようだ。

★『新撰姓氏録』の「ゐな」「ゐなべ」

右京   皇別   為名真人 真人   宣化天皇皇子火焔王之後也
摂津国 皇別   為奈真人 真人   宣化皇子火焔王之後也
左京   神別 天神 猪名部造 造   伊香我色男命之後也
摂津国 諸蕃 百済 為奈部首 首   出自百済国人中津波手也
摂津国 未定雑姓 為奈部首 首   伊香我色乎命六世孫金連之後也

皇別の為名真人、為奈真人は「宣化天皇皇子火焔王之後」と言っているが、実際は仁徳朝の猪名縣主(卅八年秋七月条<猪名縣佐伯部獻苞苴>)の後裔なのであろう。あるいは、火焔王の母は大河内稚子媛と言うので当該地の有力者大河内味張に頼んで縣主の首のすげ替えを行ったか。
一応、伴造の猪名部氏は伊香我色男命之後と言う「猪名部造」と「為奈部首」及び百済国人中津波手の子孫という「為奈部首」とに分けられるようだ。表向きは京都にいる猪名部造が中央における伴造となっていたと思われるが、実際の「能匠者」の後裔は百済国人中津波手の子孫の摂津国為奈部首ではなかったか。そもそも、『記紀』は朝鮮半島から来る人をみんな新羅、新羅と言っているが、ほとんどの渡来者は百済人ではなかったか。
物部氏が多いのは何も猪名部が物部氏の傘下に入ったと言うことではなく、元々物部氏は天磐船でやって来たといい、その天磐船には船長、梶取、船子(船子の中に為奈部等祖-天都赤星がいる)がおり、かつ、五部(いつとものお)の中に為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)をも記している。(『先代旧事本紀』天神本紀)いい加減もここに極まれり、と言う話だが、物部氏は船に乗って淀川を遡上したか、はたまた、下ったかは解らないが、一応、淀川を船で渡って河内国渋川郡にでも着いたのではないか。従って、物部氏も船を自作していたと思われるが、『日本書紀』応神天皇31年8月条を読んだ『先代旧事本紀』の作者が物部氏の仲間を多くしようと猪名部を船子とか五部に加えたのではないか。物部とは読んで字のごとく物を造るのが得意な氏族ではなかったか。物部と言わずに猪名部造(為奈部首)と言っているのが不思議と言えば不思議だ。

★『記紀』等に出てくる猪名部及びその墳墓

猪名部は船大工としてはあまり有能ではなかったかも知れないが、建築大工、木工(後世の指物師等)としては、
「雄略天皇十二年冬十月、天皇、命木工鬪鶏御田一本云<猪名部御田>蓋誤也」と出てくるが「猪名部御田」は誤りだそうで、
「雄略天皇十三年秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃」と韋那部眞根と言うものが出てくる。前項の類話との説あり。
「雄略天皇十八年秋八月、天皇聞之怒、輙(すなわち)奪菟代宿禰所有猪名部、賜物部目連」と言い猪名部は豪族所有の部曲だったか。但し、この猪名部を「猪使部」とする写本がある。
時代が下って8世紀に造東大寺司工・木工寮長上・猪名部百世、興福寺造仏所木工・猪名部多婆理が出てくる。

塚口古墳群(猪名野古墳群)
「塚口古墳群は1系列の首長墓のものとみられる古墳群である。塚口地域は猪名部の中心地と考えられ、この渡来した集団の首長墓としてつくられたものであろう。猪名部は、木工関係の技術集団と考えられているが、大塚山古墳の副葬品に出土例の少ない鉄鋸〔てつのこ〕<ほかに、工具では鉄斧・刀子・鉄鎌など>があることも注目される。同古墳の築造時期は6世紀前半頃。当古墳群において、6世紀になって全長を次第に縮小しながらも、基本的に前方後円墳がつくられていったのは、有力な単一首長系列の墓であったためであろう。」と。あるいは、「未定雑姓 為奈部首 首 伊香我色乎命六世孫金連之後也」一族の墳墓かも知れない。『日本書紀』応神天皇31年8月条「・・・諸國一時貢上五百船」とあるのは丸木舟と思われ、日本にも船木氏(あちこちに船木郷の地名あり)、紀氏、海部氏などが畿内の近国で丸木舟を造っていたのではないか。あまり外国人の手助けは必要ではなかった。それに物部氏の分家筋、あるいは、別系統の物部氏も造船の有力な一族だったかも知れない。

★まとめ

猪名部の語源であるが、「ゐ」は<川>、「な」は<の>の転訛、「べ」は<辺>の意味であり、「川の辺」のことと思う。即ち、摂津国河辺郡の<河辺>の前身の地名は猪名部で、猪名部から河辺に代わったものと思われる。従って、猪名部は猪名縣主の部民の称ではない。地名としては「猪名」「為奈野」しかないようで、「ゐなべ」となると伊勢国員弁(ゐなべ)郡が著名であるが猪名部神社の社伝では「猪名部氏は、元々の現住豪族と攝津国(兵庫県)の猪名川周辺から大和(奈良県)を経て、移住してきた豪族との融合豪族といわれる。第43代元明天皇の和銅6年(713年)勅命により、猪名部の族名が転じて「員弁」とされた。」 と曰うが、具体的な経緯ははっきりしない。高名な地名学者には「員弁」とは「河辺」のこととする先生もおられる。『新撰姓氏録』による氏族では「為奈」(宣化天皇皇子火焔王之後)と「猪名部」(伊香我色男命之後)との二派にすっきりと分かれており、前者は猪名縣主系で後者は木工系の一族か。
猪名部の由来についても、『先代旧事本紀』<天神本紀>では天磐船の船子に為奈部等祖-天都赤星とか、五部(いつとものお)の中に為奈部等祖、天津赤占とか出てきており、為奈部とは神代からの日本人であるといわんばかりだ。即ち、『日本書紀』応神天皇31年8月条の猪名部は新羅人説を完全に否定している。そればかりか、応神朝に新羅からそんな工人が来たのも否定しているのではないか。
応神天皇の時代になると造船を業とする者は素材である大木の林を涵養しなければならず、海部のほか山部も所有し、かつ、造船作業は木材を切り出した山の中で行い、完成品を川伝いに川口まで運んだものと考えられる。 そんな中で新羅の船大工がやって来たとしても、まず、材木の確保もままならず、造船にしてもその規格が日本と新羅では違うだろうし、作業方法にしても新羅の「爰於新羅停忽失火 即引之及于聚船 而多船見焚」と言うところから見ても、作業に火を使って失火に至ったのではないか。日本の造船は、山の中で行うので山火事でも起こしたら大変なことになり、火を使わなかったと思われる。それに、新羅の船大工が来たとしてもその居住地が現在の尼崎市や吹田市(猪名県)か伊丹市(為奈野)なので丸木舟を造るような材木は確保できなかった。
為奈野は後世になっても曠野と言われほとんど人家もないようなまったくの田舎だったようだが、それでも奈良時代には南部に奈良東大寺の猪名庄が成立していた。尼崎市には今でも塚口という地名が残り、塚口から伊丹市南部にかけての塚口(猪名野)古墳群がある。塚口(猪名野)古墳群は4世紀中~6世紀中頃までの築造で、それ以降の築造はない。その時期は応神天皇の在位中に重なる。応神天皇は自分の陵を築造するために朝鮮半島で土木作業員を募ったとしてもおかしな話ではない。しかし、奈良時代のお役人は「応神天皇、御陵造営のため新羅で土方を募集」などという一行を書き入れるのにはためらいがあったのであろう。そこで作出されたのが新羅使節の失火の話ではないのか。例え、新羅から船大工が送られてきたとしても尼崎や吹田の低地でできることと言ったら古墳の造営作業くらいなものではなかったか。
『先代旧事本紀』<天神本紀>では『記紀』の為奈部の話は後世の建築大工は格別、全否定の様相だが、割と正解に近いのではないか。何分にも『新撰姓氏録』にも新羅の猪名部なる一族は出てこないし、猪名部氏自身が自分たちを物部一族と考えているのは在地の人にとっては新羅の猪名部なんて初めっからいなかったのである。

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