山部と山守部

★はじめに

『古事記』中巻「応神天皇段」に出てくる「此之御世定賜海部 山部 山守部 伊勢部也」と『日本書紀』巻第十「応神天皇条」に「五年秋八月庚寅朔壬寅 令諸國 定海人及山守部」とある。同じ伝承を元に作成されたと思われる記事に『古事記』では山部と伊勢部が増加している。正しいかどうかは解らないが、本居宣長の『古事記伝』三十三之巻(明の宮の段-中)に、
「『日本書紀』顕宗の巻に「・・・小楯は謝して『山の官は、以前から望んでいたところです』と言い、山部連と姓を変えた。吉備臣を副とし、山守部を民とした。」【「山守部を民とした」というのは、小楯と吉備臣との両方に係っている。】また、「狹々城(ささき)の山の君、韓帒(からふくろ)宿禰を・・・陵戸に当て、山を守らせ、籍帳(へふむた)から除いて、山部連に隷属させた」などとある。これらを考えると、山部と山守部は、別のものでなく、全く同じと考えられるのを、ここで別に挙げたのはどういうことだろうか。書紀に山部が挙げられていないのこそ正しいだろう。」とある。
また、伊勢部については、「伊勢部(いせべ)は、玉垣の宮の段に「河上部を定めた」、【伝廿四の五葉】下巻の高津の宮の段に「葛城部を定めた」、若櫻の宮の段に「伊波禮部を定めた」など、その地に住んでいる部と名を負わせて、そのところどころに置かれていたものが多い。それはみな由縁があってなのだが、この伊勢部は何の故に定められたのか、分からない。書紀にはこのことは見えない。【他の書にも「伊勢部」という名は見えない。」と。
以上より本居説では、
1.山部と山守部は同じものである。
2.伊勢部は文献的に『古事記』のこの箇所にしか出てこない意味不明のものである。
3.『日本書紀』巻第十応神五年八月「令諸國 定海人及山守部」が正である。
これに対してインターネットでもいろいろな見解があるが、現時点(平成28年10月)の通説とも言うべき学説は、
*海部(あま、あまべ)は漁労を行う「部」と云う意味ではなく、大和朝廷の臣下となり、朝廷に海産物の貢納と航海技術を以て奉仕した「部」を言う。
*山部(やまべ)は大和朝廷の品部の一つで山林の産物を貢納した。中央伴造は山部連氏で、地方伴造としては山部君、山部直、山部首などがおり、山部は大和、河内、摂津、遠江、近江、上野、越前、出雲、播磨、豊後などに分布。
*山守部(やまもりべ)は朝廷所有の山林を管理する部。河内、摂津、越前、伯耆、備前、備中などの諸国に設置。山守部は事実上は中央の伴造の私民と変わらなかった点で、部民のもっとも古い型を示している。例として、顕宗紀元年四月「・・・小楯謝曰 山官宿所願 乃拜山官 改賜姓山部連氏 以吉備臣爲副 以山守部爲民」の<以山守部爲民>の部分。
*伊勢部は『古事記』の「此之御世定賜海部 山部 山守部 伊勢部也」が唯一の文献資料である。伊勢部は磯部(いそべ)のこととするのが有力。伊勢の語源も伊勢国度会郡伊蘇(いそ)郷とするのが通説である。伊勢国には磯部なる人物がいたようで(例、『続日本紀』和銅四年三月条には、伊勢国の人磯部祖父、高志二人に渡相神主の姓を賜ったことが記されている。)、この磯部が伊勢部になったものであろう。磯部は海部と並んで漁業、航海に従事した品部で、伊勢を中心に東海、東山、北陸、山陰の諸道に分布。磯部の地名は海岸沿いのみならず山間(中部山岳地帯)にもあり、伊勢部即ち磯部とは「石の多い礫地」を指したものであるという。イソはイシ(石)に通ずと言い、石部(いしべ)、岩部(いわべ)、磯部(いそべ)は相通ずる用語であるという。
以上をまとめると、『古事記』の言う、海部、山部、山守部、伊勢部は海部と伊勢部(磯部)は同じものであり、山部と山守部も同じものである。そこで、『日本書紀』は海部と伊勢部(磯部)をまとめて、海人とし、山部と山守部をまとめて、山守部としたと思われる。要するに、『古事記』は現状にあるものを追認し、『日本書紀』は現状を文章にする際、合理性で取捨選択をしたものであろう。結局、本居宣長説が正で、『古事記』は無批判に現状を受け入れたと言うことか。

★応神天皇の治世

『古事記』によると<海部 山部 山守部 伊勢部>(『日本書紀』では<海人及山守部>)はこの御代に設置されたという。設置するにはそれなりの必要性があると思うが、その前に応神天皇の治世を見てみる。
応神朝は原史時代(古墳時代)の画期をなす治世とも言うべき時で、
1.阿知使主・其子都加使主(廿年秋九月)、王仁(十六年春二月)、阿直岐(十五年秋八月、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹)、弓月君(十四年)、縫衣工女・眞毛津(十四年春二月)、手人韓鍛名卓素 亦呉服西素など帰化人の渡来。
2.上記に伴う大陸の文物、技術の導入。
3.中央(現在の奈良県)における大規模池沼の築造。(七年秋九月 高麗人・百濟人・任那人・新羅人 並來朝 時命武内宿禰 領諸韓人等作池 因以 名池號韓人池(田原本町唐古か)。十一年冬十月 作劔池(橿原市石川町か)・輕池(橿原市大軽町か)・鹿垣池(高市郡明日香村か)・廐坂池(橿原市大軽町か)。十六年八月 弓月之人夫百廿縣來焉)但し、これらは農業用灌漑のための溜池か、古墳の周濠を言っているものかは定かではない。築造地が奈良盆地の南部に偏っているので農業用溜池とも考えられるが、朝鮮半島から大勢の人夫が来ているのは公共物の築造のためとも考えられる。
4.渡朝のためか天皇は造船にも意欲的であった。(卅一年八月 「官船名枯野者 伊豆國所貢之船也」とか「諸國一時貢上五百船」の文言がある。)
5.鉄製農工具・武具(『日本書紀』神功皇后卌六年春三月に「鐵鋌卌枚」の文字が見える。石上神宮の七支刀。)が普及して、中期古墳時代に入った。
以上を見ると応神朝は各分野で技術革新の波が押し寄せ、機織(阿知使主)、儒教と漢字(王仁)、良馬二匹・馬産(阿直岐)、絹・土木技術(弓月君)、造船・木工技術(能匠者・猪名部等)、縫製(眞毛津)、鍛冶(卓素)、呉服(西素)などを朝鮮半島から伝えた。
仁徳天皇の時代になると土木技術等が著しく進歩し、干拓等が大阪平野の主要部分に拡大した。
当時の状況を鑑みるに、<海部 山部 山守部 伊勢部>とか<海人及山守部>と言うのは新しい制度の創設と言うよりは何かの目的のために設置されたものではないか。当時の主要産業である古墳築造業について言えば、「中期古墳時代に入った」と言い、作業の組織化とともに周辺業務の整備も計らなければならなかったと思われる。

★まとめ

応神天皇の時代は依然として古墳築造が農業、漁業とともに主要産業だった。第一次産業の農業、漁業、林業に対して、古墳築造業は第二次産業であり、原材料への加工が加わる。何の職業にも技術が必要ではあろうが、古墳の場合は土木技術とか石工技術、陶工技術、測量、運搬、設計(模型作成か)、工具などいたる所に半島からの技術が入ってきたものと思われる。鉄製工具も強調されているが作業能率を上げるほど普及していたかどうか。多くは木製工具と人力に頼っていたのではないか。古墳時代には牛馬が日本へも入ってきていたと推測されるが、古墳築造には使役されなかったようである。
ところで、冒頭の「海部 山部 山守部 伊勢部」であるが、これは一般的な海部、山部等を定めたものではなく、古墳のメンテナンスのために定めたものではないか。応神天皇の時代は中期古墳時代と言い、すでにたくさんの前期に築造された古墳群があり、それがまともな管理もされずほったらかしにされていた。当然、倫理、環境、衛生等の面でいいことはなく、応神天皇としてもなんとかしなければご先祖様に申し訳ないと考え、古墳のメンテナンスのために「海部 山部 山守部 伊勢部」をおいたのではないか。応神天皇は第十五代の天皇で天皇陵も最高で14基、しかも古墳時代が始まったのは第十代崇神天皇からといい、その場合は天皇陵は5基となる。実体が不明の神武天皇と欠史八代の天皇陵(弥生墳丘墓であろう)を加えても朝廷(天皇家)が管理する陵墓は50基くらいではなかったか。応神天皇の時代は奈良盆地にある大型古墳はほとんど天皇家にまつわる古墳だったと思われる。
ところで、「海部 山部 山守部 伊勢部」は古墳のそばに官舎を構え何をしていたかと言うことなのだが、後世の例(『延喜式』諸陵寮)を見ても、陵戸、守戸をあわせても五烟(けむり、エン)ほどなので、各々の部は各古墳に一人だったか。
*海部は、お供え物の魚介類の漁にに携わったか。
*山部は、お供え物の鳥獣の狩猟及び果物(語源は<木の物>という)等の採取に携わったか。
*山守部は、築造物である古墳全体を管理した人で普段は山守部が主導して古墳の清掃や補修、雑草の刈り取りや雑木の伐採等を行ったのではないかと思われる。具体例としては、後世になるが『日本書紀』顕宗紀に、
顕宗元年夏四月 「・・・小楯謝曰 山官宿所願 乃拜山官 改賜姓山部連氏 以吉備臣爲副 以山守部爲民・・・」とか、
同  五月 「狹狹城山君韓帒宿禰 事連謀殺皇子押磐 臨誅叩頭言詞極哀 天皇不忍加戮 充陵戸兼守山 削除籍帳 隷山部連」とあり、
ここでは、山稜管理の中央の伴造は山部連氏で、山守部は山部連氏の私有民となったようだ。しかし、陵戸とは違い賤民ではなかったらしい。狹狹城山君は一般的な漢字で書くと「雀山」とか「陵山」とかになるもので古墳を意味したと思われる。但し、狹狹城山君は山君が本姓で狹狹城は地名という説もある。従って、地方では古墳を名に負う氏族もいたようで古墳管理で産を成した豪族もいたようだ。後世でも陵戸は「賤民のなかでは良民に近く、戸を形成し、良民と同額の口分田を支給され、課役を免除されていた」と言うから、経済面では安定した生活を送っていたのであろう。「陵戸兼守山」の守山は意味不明ながら(一説に山守部のことという。陵戸とは先皇の陵を守るものと言う。従って、「陵戸兼守山」は矛盾しない。)山林管理者の意味か。滋賀県守山市もこの守山に由来するか。
*伊勢部は、磯部と解するならば、砂礫の多い海岸でお供え物の海藻等を採取したか。また、葺石が台風等で飛ばされたり、流された際の予備の石の確保にも当たったか。
以上をまとめるなら、応神天皇が設置した「海部 山部 山守部 伊勢部」は一般的な「部」ではなく、天皇が先祖を祀り古墳を永続的に維持するための「部」であったと思料せられるのである。

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