出雲氏の変遷

★はじめに

大和国が日本統一を果たす難関は、まず、日本海側の強国出雲国と瀬戸内海側の強国吉備国を平定することにあったと思う。内陸にあって文化的後進国の大和国は両国が取り入れていたと思われる大陸や半島の産業や文化並びに両国が持っていた天然資源の「鉄」は大和国にどうしても導入しなければならなかったものであろう。これらの移動は当初は交易により行われていたと思われるが、何分にも交易には経済の法則が働き、持てるものと持たざるものとの差は歴然と現れてくる。大和国にとっては対等な交易とは行かなかったのではないか。そこで出てきたのは、大和国による出雲国や吉備国からの資源収奪ではなかったかと思われる。収奪をするからには権力や武力に優劣がなければならない。はじめは外交交渉により行われたようで、例えば、出雲国に対しては「国譲り神話」で天穂日命(あめのほひのみこと)、天稚彦(あめのわかひこ))が国譲りの交渉使に遣わさている。埒が開かないので、武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)<『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ)>が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫っている。天穂日命と天稚彦は外交交渉によるもので武甕槌神と天鳥船神(あるいは、経津主神)は現代流に言うと恐喝に見えるかも知れないが武力行使に該当するのではないか。一方、吉備国はと言えば、『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり(ほかに、大彦命<北陸>、武渟川別<東海>、丹波道主命<丹波>の「四道将軍」)、崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した、と言うが、これらの将軍はその後現地に土着したのかも知れない。大彦命は北陸と言っているが実際は東海で後世の武蔵国か。埼玉県の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣にある意冨比垝(オホビコ、オホヒコ)による。武渟川別は『日本書紀』では「武渟川別」「武渟河別」、『古事記』では「建沼河別命」と表記され、渟河と沼河は同じで『古事記』の大国主の神話の段に登場する高志国の沼河(現・新潟県糸魚川市)に住む沼河比売と同じで、後世の越後国に定住したか。吉備津彦は吉備国に、丹波道主命は丹波国に定住したか。とは言え、派遣将軍の名が派遣先の地名と同じとはずいぶんできすぎた話で、この説話には何か混乱があるのではないか。四道将軍とは被征服者の名前ではなかったか。例えば、『記紀』に、本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)とあるのは、そこいらの事情を現しているのではないか。また、『古事記』では、大吉備津日子命(吉備津彦)は孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに吉備国に派遣され、針間(播磨)の氷河之前(加古川河口か)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという(大吉備津日子命與若建吉備津日子命 二柱相副而 於針間氷河之前居忌瓮而 針間爲道口以言向和吉備國也)。崇神天皇段では針間で吉備国を言向け和した説話はない。
以上を考察するに、大和国による出雲国や吉備国の平定は非常に早い段階で行われており(出雲国は神代<西暦元年前後か>、吉備国は孝霊天皇<欠史八代。西暦2世紀頃か>の時代)、その後の大和国の歴史は「記紀」で解るとしても、有力国であった出雲国や吉備国の歴史は「記紀」に断片的にでてくるだけである。
大和国が出雲国や吉備国を平定するに際しては、その緩衝国も見逃せない。大和と出雲の間の丹波国、大和と吉備の間の摂津国である。丹波国には玖賀耳御笠(「古事記・崇神」日子坐王は旦波國に遣わし玖賀耳御笠を殺さしめき)とか丹波大縣主・由碁理(ゆごり)(「古事記・開化」)などの豪族が名を連ねるが日子坐王に統一されるまでは群雄割拠の地であったか。そのまとまりの悪さが大和国が容易に出雲国を平定した要因となったか。日子坐王について言えば、その妃は「古事記」によると、
1.山代荏名津(えなつ)比賣(山城国)
2.春日建國勝(たけくにかつ)戸賣の女(大和国春日)、沙本大闇見(おおくらみ)戸賣(大和国沙本)
3.近淡海御上祝が以ち齊く天御影神の女、息長水依(おきながみずより)比賣(近江国) 子に丹波比古多多須美知能宇斯(たにわのひこたたすみちのうし)王
4.其の母の弟袁祁都(おけつ)比賣命(大和国丸邇) 子に山代大筒木(おおつつき)眞若(まわか)王
以上より判断すると、日子坐王は大和国北部に拠点があり、山城国、近江国を支配していた。崇神天皇の代になって丹波国の玖賀耳御笠を討って、丹波国も大和国の版図に入れた。崇神天皇時代の出雲国討伐は丹波国が大和の前線基地ではなかったか。いわゆる、吉備津彦命と武渟川別命が出雲振根を討つ説話。『日本書紀』で葦原中国平定の段で下界に降される二柱の神は、武甕槌神と経津主神(『古事記』では建御雷神と天鳥船神)は吉備津彦命と武渟川別命の焼き直しか。
大和と吉備の緩衝国は摂津国である。おそらく、そこの首長は大伴氏で大伴氏は今で言う顔の広い首長であったらしく、東は大和国、西は吉備国、南は紀伊国、北は丹波国と、おのおのの国の首長と交際があったのではないか。大和国と吉備国が一戦を交えようとした時、大伴氏は和平仲介の労を執ったと思われる。『記紀』によれは大伴氏は天皇氏とは天孫降臨以来おつきあいがあり、吉備氏とは後世ではあるが『日本書紀』に日本武尊の東征の従者に吉備武彦と大伴武日が付けられている。景行天皇といえども親しくもない人たちを一緒に派遣するとは考えづらい。結論から言えば、大伴氏の和平仲介は失敗し、かつ、吉備国が摂津国に侵食してきたので、大伴氏は大和国に与して戦ったのであるが、大伴氏が吉備氏と完全に断交したのは大伴室屋の頃ではないか。

★吉備国のその後

吉備国の関しては出雲国よりは「記紀」に露出が多い。「記紀」その他でその首長の名前を見てみると、

1.『古事記』 孝霊天皇の時に大吉備津日子命(吉備津彦)と弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)は、針間(播磨)の氷河之前(加古川か)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという。崇神天皇段では大毘古命は高志道に遣わし、其の子、建沼河別命は東の方十あまり二つの道に遣わし、日子坐王は旦波國に遣わしたと言う。四道将軍ではない。
2.『伝承』 温羅(うら)と言う人物が、吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配した。
3.『日本書紀』 崇神天皇10年9月9日条では、崇神天皇は吉備津彦を西道に派遣した。「四道将軍」派遣の一人。四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。吉備津彦は温羅を退治した。蛇足かも知れないが、『魏志倭人伝』に出てくる、「其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。・・・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」狗奴國とか狗古智卑狗とか卑彌弓呼とかは、狗奴國は吉備国、狗古智卑狗は稚武彦命こと木口(きくち)彦、奴國男王卑彌弓呼は彦命で、吉備津彦命を指すか。狗奴国の狗奴は「倉」の音を写したものか。当該地には「倉」のつく地名が多い。倉田新田、倉富新田、倉益新田、倉安川(左記三新田の灌漑用水路)。左記三新田は延宝7年(1679)津田永忠の開発と言い、地名も同氏の命名という。倉淵村は原村(現・岡山市中区原尾島)の枝村に倉淵村があった。以上の地域は旭川と百間川に挟まれた岡山市中区にある。暗見谷(現・倉見谷)は菅野村の枝村に西菅野、尾越、暗見谷があった。現・岡山市北区菅野倉見谷。「倉」は崖や谷を意味すると言い、古くからの地名ではなかったか。
4.『日本書紀』 景行天皇40年7月16日条によると、日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられ。
5.『古事記』 景行天皇段では、吉備武彦と同一人物かは定かでないが、吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされた。
6.『日本書紀』 応神天皇22年9月6日条では、天皇が吉備の葉田葦守宮(岡山市足守付近か)に行幸した際、御友別は兄弟子孫を膳夫として奉仕させた。その功により、天皇は吉備国を割いて御友別の兄弟子孫を次のように封じた。
長子の稲速別:川島県に封ず – 下道臣祖。川島県はのちの備中国浅口郡に比定。
中子の仲彦:上道県に封ず – 上道臣祖・ 香屋臣祖。上道県はのちの備前国上道郡に比定。
弟彦:三野県に封ず – 三野臣祖。三野県はのちの備前国御野郡に比定。
弟の鴨別:波区芸県に封ず – 笠臣祖。波区芸県はのちの比定地未詳(笠岡市付近か)。
兄の浦凝別:苑県に封ず – 苑臣祖。苑県はのちの備中国下道郡曾能郷か。
兄媛:織部を賜う。
吉備氏に関しては吉備武彦を始祖とするものと御友別を始祖とするものの二流があるようで、現在に至る吉備氏の元祖は御友別とするものが多いようである。系図上は吉備津彦・稚武彦命系と吉備武彦系と御友別系を一系の氏と見なしてつなぎ合わせるものが多いが、私見では吉備津彦、稚武彦命、吉備武彦、御友別は別流の人たちで血縁関係はなかったと思われる。現在残っている吉備氏系の人がどの系統に属するかは不明であるが、やはり御友別系が圧倒的に多く、わずかに吉備武彦系があり、吉備津彦、稚武彦命系はほとんどいないのではないか。

★出雲国のその後

出雲国の首長の変遷を『記紀』で見てみると、

1.『日本書紀』 崇神天皇60年7月 出雲氏遠祖 出雲振根(いずものふるね) 弟の飯入根(いいいりね)を騙し討ちにする。朝廷の派遣した吉備津彦命(きびつひこのみこと)、武渟川別(たけぬなかわわけ)命に殺された。蛇足だが、『魏志倭人伝』に「南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利」とある。投馬國を出雲国とすると「彌彌」、「彌彌那利」は誰なのかと言うことになる。彌彌は日本語では「耳」、彌彌那利は「耳成」かと思われるが地方の首長としては、『記紀』によれば和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝杭耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、但馬地方に前津耳(マエツミミ)が記録されている。また、『古事記』出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、鳥耳(トリミミ)、美呂浪(ミロナミ)、布忍富(ヌシトミ)も同類と考えられている。『出雲風土記』には波多都美(ハタツミ)や支自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されている。他に近江国伊香郡の伊香刀美(イカトミ)、出雲國造祖岐比佐都美(キイサツミ)など。出雲国には「ミミ」はもとより「ツミ」、「ミ」が多いようだ。皇室でも神武天皇の皇子に手研耳(タギシミミ)命、神八井耳(カムヤイミミ)命、神沼河耳(カムヌナカワミミ)命、彦八井耳(ヒコヤイミミ)命および岐須美美(キスミミ)命が記録されているが、地名を負ったものではないので創作だなどという見解もあるが、田岸(能登国能登郡田岸村)、矢井(美濃国大野郡屋井(八居)村)、沼川(不明。一説に現在の糸魚川を沼河と言ったという)、木須(下野国那須郡金田村木須)などがありそれなりにある地名ではないのか。神武天皇の時に出雲国の人が大和国へやって来て出雲文化を受け入れたのではないか。『出雲国風土記』や『記紀』では出雲国の首長には都美(つみ)のカバネが多く、「彌彌」「彌彌那利」は神武天皇系統の人物だったのではないか。
2.『古事記』 垂仁天皇段 出雲國造祖 岐比佐都美(きひさつみ)
3.『古事記』 景行天皇段 出雲建(いずもたける) 西征から都へ戻る途次の日本武尊の策謀にあい、真剣を持つ日本武尊と贋物の剣(木刀)で戦うはめになり、あえない最期を遂げる。

「ギリシャ神話のヘラクレスとの類似は、ことに著しい。両者は共に、劣弱な双子の兄弟を持っているうえに、肉親(兄と実子)の殺害と、友誼を結んだ相手(イズモタケルとイピトス)に対する騙し討ちと、愛人(ミヤズヒメとイオレ)の色香への異常な耽溺が、それぞれの履歴の重要な結節点になっている。どちらも最後には毒に当たり非常に苦しんで死に、葬儀を受けたが昇天した。またヤマトヒメとアテナが両伝説で果たしている援助者の女神(神女)の役割にも、明らかに共通したところがあると思われるからだ。」と。

近時(2016/10/05)の調査で「奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていた」というので、そういう人からギリシャ神話の話を聞いて書いたものか。

4.『日本書紀』 仁徳即位前紀 出雲臣祖 淤宇(おう)宿禰。倭(やまと・奈良県)の屯田、屯倉を掌る屯田司だったが、額田大中彦(仁徳天皇の兄)に職務を妨害された。
5.『出雲国風土記』 国引き神話 八束水臣津野命
八束水臣津野命は出雲の人ではなく因幡国気多郡勝見郷の八束水から来た人と思われる。因幡国では元々古墳築造を行っていたと思われ、出雲国にも古墳築造業者としてやって来たが、出雲の経済力がそれを許さず、結局、寂れていた意宇郡の開墾を行ったと思われる。実質的な出雲臣氏の始祖なのかどうかはほかに出雲臣祖淤宇(おう)宿禰とか、出雲氏遠祖出雲振根とかがいるので不明であるが、『出雲国風土記』の監修者出雲臣広島は自信を持って我が家の始祖と書いたのではないか。

★まとめ

吉備国の場合は政権の移行が、吉備津彦命・稚武彦命系から吉備武彦系、そして御友別系へとスムーズに行われているようだが、出雲国は吉備国よりは少し歴史があるだけに複雑な移行のようである。
出雲国は神代の時代は出雲郡を中心とする勢力(大国主命)と意宇郡を中心とする勢力(少彦名命)があったと思われるが、前者は意宇郡を除く出雲国内の領域を確保し、後者は意宇郡のみを支配領域としていたと考えられる。内戦があったと思われるが大国主命が勝利し、出雲国は統一された。出雲国はその後版図拡大に乗り出し、九州北部、四国、中国、北陸などに食指が動いた。しかし、そうこうしているうちに同じく版図拡大を図っていた大和国と衝突し、結局、出雲国は大和国に武力により平定されて事代主命以下の要人は大和国へ移住させられ大和へ出雲文化の移植を計った。そこで、出雲国は国主のいない無政府状態のようになるのだが、
そこでまず現れたのが出雲氏遠祖 出雲振根(いずものふるね) 弟の飯入根(いいいりね) 、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)一族であった。振根は大和から武諸隅が使者として出雲へ来た時には筑紫国へ出張していなかったようなので出雲振根一族は出雲郡の出身と思われる。この一族は、振根が吉備津彦命、武渟川別命に殺され、飯入根は兄の振根に殺され、甘美韓日狭が出雲氏を継承したのかどうかだがその可能性は低いと思う。出雲国には投馬國の彌彌や彌彌那利のカバネを持った長官、次官がおり出雲振根一族にはそのような人が見当たらないようだ。ここで振根一族は滅亡したと思われる。
次いで、『古事記』の垂仁天皇段に出てくるのは出雲國造祖 岐比佐都美(きひさつみ)と言う人物で、「彌彌」と「都美」の違いはあれ、「ミ」というカバネを負っていることは同じで、あるいは同族の人かとも思われるが、当時、出雲国造が出雲と言ったかどうか、また、岐比佐都美のその後がようとして知れない。しかし、『出雲国造伝統略』(千家武主 編、明治15年4月)には11代:阿多命(出雲振根)、12代:氏祖命(鵜濡渟)、13代:襲髄命(野見宿禰)、14代:来日田維穂命(亦名岐比佐都美)とあり、出雲国造家の系図にはしっかりと載っているようだ。
次いで、出雲建(いずもたける)だが、これは『日本書紀』の出雲振根の焼き直しとか。それに元々の話はギリシャ神話に由来するという。
次に現れたのは、出雲臣祖 淤宇(おう)宿禰で、淤宇(おう)は意宇に由来するものではないかと言われる。屯田、屯倉を掌る屯田司だったが、額田大中彦皇子(仁徳天皇の兄)が屯田の横領をはかり淤宇宿禰を追い出しにかかるが、菟道稚郎子皇子や大鷦鷯尊、倭直祖麻呂等の間をあちらこちらとたらい回しにされながらも職務を遂行したという。『出雲国造伝統略』では16代:意宇足奴(意宇宿禰)となっている。この淤宇宿禰も出雲臣祖となっているが、出雲臣と出雲氏は同一家系の人なのかいささか疑問である。出雲氏が出雲郡出身者で出雲臣は意宇郡出身者のような表記だ。
最後に、八束水臣津野命が神代の話として出てくるが、出雲の神代と言えば大国主命や少彦名命が主で八束水臣津野命が神代の人としてもどこの地域の神話の人なのか。当然のことながら、『出雲国風土記』によれば、「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」が国引きを終えた際に「国引きを意恵(「おえ」、終わるの意味)」と言ったことから「意恵郡」のち「意宇郡」と呼ぶようになったと言うことから意宇郡の神話なのであろう。しかし、意宇郡にまず開拓の鍬を打ち下ろしたのは少彦名命であり、場合によっては素戔嗚尊かと思われる。実際に出雲国の神社の祭神として祀られているのは大国主命や少彦名命、素戔嗚尊であって、八束水臣津野命を祭神とする神社は長浜神社(島根県出雲市)、諏訪神社(島根県出雲市)、富神社(島根県簸川郡斐川町)、金持神社(鳥取県日野郡日野町。但し、主祭神は天之常立尊)等で地元の神にしてはその数は少ない。おそらく出雲国の神(人)ではないのではないか。
意外に思われるかも知れないが出雲氏は古墳造営業者だった。おそらくこの場合の出雲氏は八束水臣津野命の子孫であろう。例えば、『新撰姓氏録』では当時の畿内在住の中央貴族は同職の人は同じ地域にまとまって住んでいたようである。出雲氏関係の部分を『新撰姓氏録』第二帙(神別)から抜粋してみると、

右京   神別 天孫 出雲臣   臣  天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也
(一部略)
右京   神別 天神 伊与部        高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也
右京   神別 天孫 土師宿祢  宿祢 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也
(一部略)
右京   神別 天孫 尾張連    連  火明命五世孫武礪目命之後也
右京   神別 天孫 伊与部     同上
右京   神別 天孫 六人部     同上

河内国 神別 天孫 身人部連   連  火明命之後也
河内国 神別 天孫 尾張連     連  火明命十四世孫小豊命之後也
河内国 神別 天孫 五百木部連  連  火明命之後也
河内国 神別 天孫 出雲臣     臣  天穂日命十二世孫宇賀都久野命之後也

山城国 神別 天孫 出雲臣 臣  同神子天日名鳥命之後也
山城国 神別 天孫 出雲臣 臣  同天穂日命之後也
山城国 神別 天孫 尾張連 連  火明命子天香山命之後也
山城国 神別 天孫 六人部連 連  火明命之後也
山城国 神別 天孫 伊福部 同上
山城国 神別 天孫 石作   同上

以上を見ると、出雲臣氏の周りはみんな古墳築造業者ばかりである。土師宿祢(総監督、土木)、尾張連、出雲臣(小規模造営の監督、土木)、六人部、身人部(むとべ)連(計数管理、設計、模型作成)、伊与部、五百木部連、伊福部、石作(石材工事)などである。尾張氏をはじめ火明命系譜の人が多いが尾張氏自身も元は大和国葛城郡高尾張邑の出身という。おそらく、これら古墳築造者の出身地は尾張氏を除いては出雲国をはじめ因幡国、丹波国(丹後国、但馬国も含む)などではなかったか。従って、出雲臣氏のご先祖も因幡国出身で、日本書紀斉明五年是歳条に「狐、於友(意宇)郡の役丁の執れる葛の末を囓ひ断ちて去ぬ」とか「狗、死人の手臂を言屋社に囓ひ置けり」などとあるのを見てもそんなに有力な豪族ではなかったのではないか。八束水は通常八束見と書くのが一般的なのに「水」の字を用いているのは八束水臣津野命は水主(船乗り、漁師)が本業(生業)で、古墳築造は公共事業のボランティアだったか。

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