曳船とは

★はじめに

「出雲国風土記」の意宇郡条冒頭の国引き神話で、

『所以号「意宇」者。國引坐 “八束水臣津野命” 詔、
「八雲立出雲國者、狭布(さの)之稚國在哉。初國小所レ作。故、將作縫。」詔而、
「栲衾 志羅紀乃三埼矣、『國之餘有耶』 見者、國之餘有。」詔而、
童女胸鉏所レ取而、大魚之支太衝別而、波多須々支穂振別而、三身之綱打挂而、
霜黒葛「閒耶閒耶」爾、河船之「毛曽呂毛曽呂」爾、「國来國来」引来、縫國者、
(河船を引くようにそろりそろりと「国来(くにこ)、国来」と引いて来て)
自去豆乃折絶而、「八穂米支豆支乃御埼」。
以レ此而、堅立加志者、石見國與出雲國之堺、有名「佐比賣山」是也。亦、接引綱者、「薗之長濱」是也。』

とあって、私(わたくし)的には『河船之「毛曽呂毛曽呂」爾、「國来國来」引来、(河船を引くようにそろりそろりと「国来(くにこ)、国来」と引いて来て)』と言うところに興味を引かれ、当時にあっても曳船があったのかなと考えてみた。「志羅紀」とあるのでこれが朝鮮半島の新羅のことなら時代が紀元356年- 935年となり、日本の縄文時代や弥生時代よりは新しく、早くて古墳時代の頃のようである。古墳時代と言えば、日本では土木技術の大輪の花が咲いた頃と思われ、岩石や土壌、大木等の移動手段としては「修羅」や「曳船」が有名であった。八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が古墳時代の人ならば、出雲国においても土木作業に携わっていたのであろう。八束の地名は島根県にはないようで、後世、明治時代以後に八束郡という地名があったが、古くからのものではない。お隣の鳥取県には鳥取市気高町八束水(やつかみ)という地名がある。こちらも文献初出は明治10年(1877)に姫路村と姉泊村が合併し、八束水村(善田<よしだ>村という説あり)となったという。しかし、江戸期以前よりの呼称である、とする説が有力か。地名の由来は 1.『八束』は長い様を意味することから、延々と水(海)が続く地勢に由来する(角川日本地名大辞典) 2.八束水臣津野命に由来する、などがある。この八束水は古墳に縁が深いようで、八束水古墳群がある。あるいは、八束水臣津野命は因幡国で古墳築造に励んだ人で名前も「八束水・臣・津野命(やつかみ・の・おみ・つのみこと)」と区切るべきか。現在の標準的漢字で書くと、「八塚見臣津命」で、「八」は、たくさんの、「塚」は、墓、古墳、丘陵、「見」は、廻(めぐる)、山の麓あたり、裾廻(すそみ)。即ち、長尾山の麓の地を意味したものか。「津」は、八束水あたりは漁業が主たる産業で津即ち港で漁港のことか。あるいは、津野命とあるので、津野は「角」で、古墳群のある半島(長尾山)を意味するものか。しかし、出雲国意宇郡にもたくさんの大型古墳があり、かつ、河川も伯太川や飯梨河などがある。気高町八束水は物流のための人工の運河などは見当たらないようで、小型古墳が多いため左様な曳船用の運河などは必要がなかったのかもしれない。また、八束水古墳群の築造年代ははっきりしないが、一応、古墳時代中期(5世紀、人によっては4世紀後半から5世紀初めと言う人もいる)で、因幡国の八束水臣津野命は5世紀頃の八束水の豪族だったようだ。「出雲国風土記」の監修者である出雲国国造・出雲臣広島さんは意宇郡にある出雲国創造神話と「記紀」にある出雲国創造神話が大いに違うので愕然としたのではないか。と言おうか、意宇郡の開拓元祖は少彦名命で、少彦名命は子孫がなく、その創造神話は出雲郡の出雲神話に取り込まれてしまったのではないか。後発の出雲国国造家(出雲臣氏)はその出自が不明のようで、「出雲國風土記」では所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ・大国主命)も出てくるが、八束水臣津野命の子孫と説くのが主旨か。「記紀」では天穂日命を始祖としている。いずれにしても、八束水臣津野命神話は5世紀以降の古墳時代の説話であると思う。それに、八束水臣と言っているが、当時にあって地方豪族が「臣」のカバネを使用することを認められていたかもはなはだ疑問だ。
以上より判断するならば、八束水臣津野命は因幡国出身で5世紀頃の人と思われ、その行動範囲も「国引き神話」によると、「志羅紀(しらぎ)の三埼」「北門(きたど)の佐伎(さき)の国」「北門の農波(ぬなみ)の国」「高志の都都(つつ)の三埼」となっていて、志羅紀(しらぎ)は朝鮮半島の新羅、北門(きたど)の佐伎(さき)の国は北門は北方の意味で佐伎は先の意味で今の竹島を言うか。北門の農波(ぬなみ)の国は今の隠岐島のことか。あるいは、隠岐島の黒曜石が沿海州ウスチノフカ村(ウラジオストク近郊)で発見されたと言い、北門(きたど)とは今のウラジオストクあたりを指し、佐伎国とか農波国はその周辺にあった国々を言うか。但し、北門を隠岐として前者を隠岐道前、後者を隠岐道後とする説もある。高志の都都(つつ)の三埼とは、現在の石川県珠洲市界隈を言うというのが通説のようである。しかし、八束水臣津野命の説話が因幡国のものか、あるいは出雲国のものかは結論を出すのは難しいが、記紀の出雲神話の登場人物と出雲国風土記の出演者はかなり違うようなので、記紀の方が正に近く、出雲国風土記は監修者出雲臣広島が国造家には満足な伝承がなく、あちこちから主なる説話をかき集め、お隣の因幡国気多郡勝見(かちみ)郷の伝承を拾い上げて作成したものではないのか。その分、出雲国風土記は出雲神話の主流から漏れた人々(敗者のこと)の説話が多くなっていると思われる。また、出雲国とは直接関係のない人の説話もあるのではないか。極論すれば、出雲国造家は少彦名命に代わる意宇王(おうおう)家かも知れないが、建国神話がほとんどなかったのではないか。

★曳船

曳船は後世の江戸時代の『名所江戸百景』「四ツ木通用水引ふね」(歌川広重・画)などを見ていると、船を浮かべる専用の用水路があり、水路に沿った曳船道から一人の船曳夫とでも言う人物が船を牽引している様子が描かれている。船に乗っているのは人間でたいした荷物を持っていない。金持ちが粋で乗っているような感じだ。すでに、実用性からは離れたものになっていたのではないか。曳船川や曳船道はその後鉄道の線路に転換されたらしく、駅名に曳舟駅があるようである。
翻って、縄文時代や弥生時代の曳船はどうなのか、と言われても、あったのかもなかったのかも解らない。確実にあったと思われるのは古墳時代で、陸路の修羅とともに水路の曳船が古墳建築の運搬具として活躍していたのではないか。多くの見解では物資運搬に人工の水路を築造し、そこに後世の艀(はしけ)や筏(いかだ)を浮かべ、両岸からか、はたまた、片岸からかははっきりしないが、艀や筏を牽引して目的地まで物資を運搬していた、と言うことである。水路は古墳完成の暁には埋め戻されたのか。八束水臣津野命の「河船之「毛曽呂毛曽呂」爾、「國来國来」引来」もこの曳船に近いものであろうが、自然の川を渡っているようで渡河の技術などが必要だったかと思われる。その際、曳船とは現今のタグボートかと考える向きもあろうかと思われる。自然の川は人工の川と違い人間に都合よくできているわけではなく、複数の丸木舟のタグボートが出て、押したり、引いたりしながら移動したのではないかと考えられるが、当時、そのような技術が朝鮮や日本にあったかどうか。特に、川を流れに逆らって遡上する際、丸木舟のタグボートで遡上する技術があったかどうかは疑問だ。やはり、川の脇に人工の水路を造り、人間が艀や筏を引いて物資を運搬したのではないか。
一応、「出雲国風土記」では河の曳船が出てくるが、海の曳船というのはなかったのかと言うことである。海に曳船などと言うものはない、と言われるのが落ちかとは思うが、この場合は伴走船のことで言わば複数の丸木舟が艀や筏を引いたり押したりするものである。「京都府八幡市内で最も古い4~5世紀古墳時代前期の茶臼山古墳(男山笹谷)から出土のこの石棺は、阿蘇熔結凝灰岩(阿蘇黒石)で作られていることから、既に前期古墳時代に九州との交流がありこのような大きな物資の運搬があったことがわかります。」とか「阿蘇溶結凝灰岩の中でも阿蘇ピンク石と呼ばれる石材で造られた石棺から神人歌舞画像鏡が出土した珍しい例が大阪藤井寺に在った長持山古墳(円墳、墳径40m、五世紀後半頃)です。」とか「吉備では最大規模を誇る造山古墳(方円墳、全長360m、五世紀中頃)からも阿蘇溶結凝灰岩製の長持形石棺(身)が出土しています 。」とあるところを見ると、当時にあっては最低でも関門海峡とか豊予海峡を阿蘇ピンク石製石棺(重量を軽くするため完成品か)が海を渡ったのではないか。
古墳時代には重量物を運ぶためいろいろな運搬方法が開発されたと思うが、水上輸送方法については今ひとつはっきりしない。丸木舟は発見されても、外国では一般的なアウトリガーとか双胴船の遺物が発見されたと言うことは聞いたことがない。「遠賀川流域で古墳時代に活躍した船は葦で造った双胴船」とか「遠洋航海には丸木舟二台を使用する双胴船スタイルの籠舟」とか言うが推測の域を出ない。宮若市の竹原古墳(装飾古墳)に描かれている丸木舟には馬が乗せられているようだ。馬が当時の丸木舟で移動するとは驚きだが、岩手県の南部駒よりは小型だったのか。しかし、この丸木舟は双胴船という見解もある。船形埴輪を見ていると準構造船や構造船とおぼしき埴輪があり、あるいは馬が乗っていた船は構造船だったのかもしれない。
以上より日本の曳船(平田船<ひらたぶね・艜>のようなものか)は河川や運河を航行する際、タグボートや人間が船を押したり引いたりして移動する船を言うようで、重量物の運搬船がほとんどだったようである。

★和船

我が国の船は、
*単材刳船(縄文時代、出土例の最古のものは島根大構内遺跡約7000年前、千葉県市川市雷下遺跡7500年前で、太平洋側も日本海側もともに船首尾を先細にして丸く削り出す形式、使用材料はカヤ、推進具は櫂(かい)で、支点を設けずに漕(こ)ぐパドル)、
*大型準構造船(弥生時代、大型の複材刳船やそれに舷側(げんそく)板をつけた準構造船)、
*単材刳船と二つ以上の刳船部材を接合して一隻の船にした複材刳船ないし準構造船の併用(古墳時代、材料にクスノキが主用、クスノキは太さは直径2メートル程度あったが、長い材が得られない欠点があり、長さの不足を補うため、二つ以上の刳船部材を接合する構造で大型船を建造した。この幅の広い複材刳船に舷側板を接合して準構造船にすれば、耐波性も積載量も大幅に増大し、推進具も支点を設けた効率のよいオールが使えた。古墳壁画には船が少なからずあり、それらはすべて耐波性の高いゴンドラ形に描かれていて、当時は単材刳船・複材刳船・準構造船の区別なく、この形式が普及していたようだ)、
*大型ジャンク((飛鳥・奈良・平安時代、船型・構造とも不明、安芸国で建造された百済(くだら)船、遣唐使船、対新羅(しらぎ)関係が悪化して従来の大型準構造船による朝鮮半島の西海岸沿いの航路(北路)をとることができず、九州から東シナ海を横断して一気に中国に達する航路(南路)をとらざるをえなくなった<荒天時の避難は不可能だし、一船100人以上の食料・水は途中で補給できないから大量に積み込む必要がある。そこで航洋性に富む大船が必要>

鎌倉時代になっても複材刳船や準構造船が主用されているのは、著しい技術的停滞である。大型ジャンクの建造技術は遣唐使廃止(894)とともにその技術をも断絶させてしまった。

クスノキの生育しない日本海沿岸では、スギなどの素材を生かした別系統の複材刳船技術が展開されていた。クスノキのように太くはないが、すなおで長いスギ、ヒノキなどを使い、船首から船尾までを通した片舷の刳船部材を左右二つつくり、その間に船体の幅を広げるための船底材を入れて結合するものであった。

以上見ても解るように、我が国の古代の造船技術はかなり遅れたものであり、八束水臣津野命が運んだ「國之餘」って何だったのだろう。国土であったから「土」や「岩石」「樹木」などが考えられるが、なんだか作り話の嘘っぽい話に思える。あるいは、せいぜい近隣の地域から客土用の土を運んだと言うことか。少なくとも新羅国や高志の都都(石川県珠洲市)から埋立用の土を運んだとは考えられない。『日本書紀』 卷第一第八段第四の一書「・・・初五十猛神 天降之時 多將樹種而下・・・」、即ち、五十猛神が出雲国鳥上峯に天降る時、たくさんの樹種を持っていた、と言う方が合理的ではないのか。何やら「出雲国風土記」は記紀の内容を少しばかり焼き直しをしたものではないのか。八束水臣津野命が運んだ「國之餘」とは、せいぜい、古墳築造用の盛り土とか客土用の土ではなかったか。

★まとめ

我が国の船舶技術が進歩しなかったのは経済発展に伴う物流が室町時代にならなければ進展しなかったことにあるという説もある。やはり強欲な為政者(第三代将軍足利義満)でも出てこなければ活発な経済活動は起こりにくいようだ。無論、我が国でも縄文時代以来この方全国的な経済活動はあったであろう。その中には船舶による海運も少なからずあったと思うが、荷が少なかったから船が大きくならなかったのか、はたまた、船が小さかったから荷が制限されたかははっきりしないが、客船にせよ貨物船にせよわずかの改良で千年一日のごとく使用していたようである。船が小型だからと言って航海は不可能ということにはならないらしい。「1946年6月。終戦を知らなかった西田定一軍曹以下9人の兵隊がフィリピン・ポリリョ島から脱出。カヌーを2500キロにわたってこぎ、自力で帰国した・・・カヌーは長さ約6メートル、幅約1メートルの帆柱つきで、安定をますように舟の外側に浮きとなるアウトリガーをつけていた。航路は難所のバシー海峡を越え、台湾の南東沖にある蘭嶼(しょ)島、沖縄県尖閣諸島の魚釣島を経て、鹿児島県屋久島の西方沖、口永良部(くちのえらぶ)島に30日がかりでたどり着いた。」と言う。しかし、縄文時代とは言わなくとも古墳時代の八束水臣津野命が新羅や越前国(能登国)珠洲郡に川船で土や岩石を採りに言ったとは思われない。
翻って、「国引き神話」だが、地方で国引き儀礼が行われていたと言う見解もある。即ち、
「延喜式」祈年祭の祝詞「遠き国には八十綱打ちかけて、引き寄することのごとく」とか
「万葉集」14/3411 「多胡の嶺に寄せ綱延へて寄すれどもあにくやしづしその顔よきに」
そもそも、「国引き」は国土拡張を語る神話と思われていたが、農耕に関する儀式の詞章という説が有力になりつつある。ますます持って八束水臣津野命の国引き神話は意宇郡の農地開墾か、因幡国気多郡勝見(かちみ)郷の古墳築造の話に結びついてくる。

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