出アフリカは何を持ち出したか

★はじめに

「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」(代表 国立科学博物館人類史研究グループ長の海部陽介博士)が、過般、3万年前の人類が沖縄に渡ったとみられる航海を再現・検証すると言う触れ込みで2隻の草舟を与那国島から17日朝に出航させ18日(平成28年7月18日)午前11時ごろ、約75キロ先の目的地・西表島に到着した、と言う報道では、ほとんどのマスコミは「人力での完全渡航は達成できなかった」とか「草舟、人力到達ならず」とか、失敗であったことを報じている。無根拠にこんなことをやっているとは思われないが、今時、人類学の先生に日本人南方起源説の先生がいるのかと思いきや、3万年前の台湾は中国大陸と陸続きだったと言い、かと言って現在の南西諸島と台湾は陸続きではなかったらしい。当然、当時にあっては台湾と南西諸島の交流には舟が使われたということになる。また、当時は日本列島には人はほとんどおらず、台湾(中国大陸)からの一方通行だったのだろう。報道では「鹿児島から沖縄にかけての南西諸島に約3万年前の遺跡が多数あり、日本渡来の有力ルートの一つとされる。しかし、数十キロから200キロに及ぶ航海を繰り返し、台湾-与那国島間を流れる黒潮を横断するなど難関が待ち受ける。おのは見つかっておらず、丸木舟は作れなかったと考えられている。」とあるが、この遺跡は誰が残したものなのだろうか。台湾からの渡来者なのか、はたまた、九州方面からの渡来者なのか。例えば、種子島の大津保畑(おおつぼばた)遺跡では約3万年前の落とし穴が12基発見されたと言うが、類似のものとしては静岡県沼津市周辺で見つかった約2万7000年前の遺構があるという。同じく種子島の横峯遺跡では約3万年前の地層からは、日本国内最古の調理場跡が発見されていると言う。徳之島のガラ竿(がらぞう)遺跡では約2万4千年前の地層下から木の実などをすりつぶすのに使用したとみられる「すり石」という石器が出土と言うが、時代が下って縄文時代の遺跡では全国的に同様の石器が見つかっている。これに対し、沖縄の旧石器遺跡はほとんど遺骨ばかりが発見され、人が生活した形跡がない。これを要約すれば、現在の鹿児島県人は生活圏を拡大するため南下し、沖縄県にはお隣の台湾からの渡来者も疑わしい。台湾と沖縄県は亜熱帯地域(台湾の一部は熱帯地域という)にあり、たとえ台湾から沖縄へ不慮の事故で流れ着いたとしても生活はできたはずである。従って、台湾から沖縄へは意図的であるにせよ、偶発的であるにせよ、まったくと言っていいほど人の行き来はなかったと思う。「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の草舟は何だったのかと言うことである。
話は少しばかり横道にそれるが、現代の日本人には南方起源の人は非常に少ないと言うことである。古く松本秀雄博士が「日本人バイカル湖畔起源説」を唱え、日本人は北方起源であると説いた。最近は、琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員と木村亮介准教授らを中心とする共同研究グループは、「琉球列島の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来する」と発表した。また、木村准教授は「沖縄の人々については、東南アジアや台湾などに由来するといういわゆる『南方系』との説もあったが、今回の研究はこれを否定している。沖縄の人々の成り立ちを明らかにする上で貴重なデータになる」と話している。宮古・八重山ではピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴人(2万年前)の人骨が発見されており、現在の人々の祖先なのか関心を呼んできたが、主要な祖先ではないことを示している。 端的に言うと、旧石器時代には沖縄には人は住んでいなかったと言うことである。難癖をつける向きは、「それは現在の沖縄県人であって、先史時代にどのような人が住んでいたかは解らない」とか「沖縄は北方系でも九州北部は南方系」などというかもしれないが、愚にもつかない意見だと思う。そこで、出アフリカの我が日本人のご先祖様は北方由来の人と考えられ再三研究発表もされているのに、時折、間欠泉のように南方説が飛び出してくるのはどうしたことなのか。いずれにせよ、海部陽介博士の中国人ないし台湾人の出台湾(中国)は失敗したと思われる。

★出アフリカ

台湾(中国)の3万年前の出台湾にたいし、ホモ・サピエンスは7万から5万年前にアフリカから外へ移住し始め、結局ヨーロッパとアジアで既存のヒト属と置き換わった、と言う意見がある。この出アフリカ説はミトコンドリアDNAを用いた最近の研究によっても支持された。出アフリカの回数が一度であったか、複数回であったかは意見が分かれ、複数回説では、「ホモ・サピエンスは沿岸を伝っておよそ7万年前にアフリカ東部の突端であるいわゆるアフリカの角からアラビア半島に渡った。」このグループは東南アジアとオセアニアから発見されている初期の人類の遺跡(それは中東のレバント遺跡よりも非常に古い)をうまく説明する。第二波はシナイ半島を経てアジアにたどり着き、結果的にユーラシア大陸の人口の大半の祖先となった。この第二のグループはより高度な道具技術を持っており、最初のグループよりも沿岸の食物源に依存していなかった。とは言え、ユーラシアと東南アジアとオセアニアの住民はみな共通したミトコンドリアDNAの系統に属している。これは複数回出アフリカ説に対する重要な反証である、と。
複数回出アフリカ説では7万年前にアフリカから対岸のアラビア半島に渡ったと言っているが、今でも成功しないこと(「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」)をどうして7万年前に成功したのか考えが及ばない。無論、論者は7万年前は最終氷期で紅海は陸地で歩いて渡ったとか、そこまで行かなくとも紅海は浅瀬で浮き輪代わりの丸太にでもつかまって渡ったとか、いろいろ論ずるのではあろうが、信をおけない話である。
一方、第二陣はシナイ半島を経てアジアにたどり着いたと言うが、人類の歴史を見ても海を渡って成功した古代人類はいないようだ。人類がユーラシア大陸で栄えたのも陸路で移動したからだと思う。我が日本人のご先祖様も当時は一体化していたと言われる樺太、北海道の陸路をつないで本州・四国・九州へ来たのではないか。史実とは信じがたいが映画「十戒」に「さらにモーゼが紅海に向かい、手を差し伸べる。「神の御業を見よ!」すると、何と紅海の水が割れ、道を作ったのである。群集は海を渡った。全部の民が渡り終えた時、軍隊が開かれた道を追って来た。モーゼは紅海の水を閉じた。軍隊は海に飲み込まれた。かくして、イスラエルの民はシナイの地へと導かれていった。」とある。その書名も「出アフリカ」ならぬ「出エジプト記(Exodus)」と言うそうな。複数回出アフリカ説ではY-DNA Cが第一陣出アフリカのグループであろうが、Y-DNA CはC1がパプアニューギニア先住民、オセアニア地域、オーストラリア先住民に見られるとあり、ほかに日本、ヨーロッパ、インド、中央アジア、西アジアにわずかに見られるという。C2は中央アジア、北東アジア、北アメリカに多いと言い、C1、C2が共通して存在するのは中央アジアである。従って、Y-DNA Cはシナイ半島経由で来て、中央アジアあたりでC1とC2に分岐したのではないか。第二陣出アフリカのグループはY-DNA Dであろうが、DはD1a系がチベット、D1b系が日本と、双方とも高頻度で見られる。おそらく、シナイ半島経由でやって来て中央アジア付近で分岐したものと思われる。お前は中央アジア、中央アジアとうるさいと叱られるかもしれないが、以前、モンゴルの先生が書いた本(翻訳本)を読んでいたら「人類の発祥地は内陸アジア」という説が20世紀初めに米国の先生方により喧伝されていたそうな。
以上をまとめるならば、人類の出アフリカは陸路で行われ「ホモ・サピエンスは沿岸を伝っておよそ7万年前にアフリカ東部の突端であるいわゆるアフリカの角からアラビア半島に渡った。」と言うのは当時にあっては実現不可能な方法だったのではないか。

★遺伝的多様性

現生人類の遺伝的多様性はアフリカ人が一番大きく、次いで南アジアという。この場合の南アジアはインドばかりでなく東南アジアやオーストラリアも含むらしい。即ち、現生人類はアフリカで誕生し、出アフリカを成し遂げた人々は南アジアをユーラシア大陸における拡散のセンターとした。そのためか、我が国では日本人の起源を南方系とする先生が多いようだ。考古学的にもオーストラリア大陸には47000年以上前(5万年から12万年以上前という説もある)に現生人類が到達したことが明らかになっており、同じ時期に東南アジアから東アジアへの展開が成し遂げられたと考えられている、と言う。しかし、このオーストラリア先住民は一般的にアボリジニと言われ、遺伝子的には南インド系の人と思われ、デニソワ人の遺伝子を受け継ぐ数少ない現生人類と言い、Y染色体ハプログループは、出アフリカ後インドを経由してやってきたC1b2b(C-M347)が60%、ニューギニアなどに多いK系統が22%、と言う。この人たちをネグロイド、モンゴロイド、コーカソイドの分類とは別にオーストラロイドと言うのが一般的になってきた。Y-DNA C2との分岐点はイラン付近か。オーストラロイドは出アフリカ後にイラン付近からインドを通ってオーストラリアに至る「南ルート」をとった集団である、と言う見解もある。
ところで、遺伝的多様性がアフリカや南アジアに大きいと言っても、いずれの地域もやや大げさに言うと赤道直下の熱帯地域であり、いろいろな意味で我々の住む日本とは違うのではないか。即ち、赤道直下では太陽光線が強く皮膚がんの発症が多いとか、各種の風土病が発生するとか、固有な動植物の生息地であるとか、熱帯地方の感染症は精神障害を引き起こすなど、総じて温帯地方の人にとってはやっかいなことが多い。しからば、このやっかいな現象は何に起因するのかと言うことである。強烈な太陽光や太陽がもたらす放射線などが原因で遺伝子の突然変異が頻繁に起きるとか、人間やほ乳類の動物が自己防衛の一環として風土病に強い遺伝子に切り替えるとか、いろいろなケースが考えられるかと思われるが、アフリカ人や南アジアに住む人に遺伝的多様性が大きいと言っても彼らが単に熱帯地方に住んだからに過ぎないのかもしれない。同じ赤道直下の国である南アメリカ大陸の北部(エクアドルなど)はどうなっているのだろう。アフリカから人類は拡散した、と言うのは、まずもってしても、南アジアがユーラシア大陸の拡散センターになったというのはいかがなものか。出アフリカを成し遂げた人類が南アジアに集結したなどという形跡は見当たらない。せいぜい、Y-DNA CとY-DNA DはアフリカでCFやDEから分岐し、色が少しばかり白かったため(ほかに出アフリカの理由としては気候変動説や技術革新説がある)同時にアフリカを追放され、途中(中近東あたりか)で北回り(C2、D1b)と南回り(C1、D1a)に分かれたことを連想させるだけである。ヨーロッパ人の遺伝的な多様性は他の地域に比べると小さく、その地域への進出は、さらに遅れたと想像されていると言うが、お説は正論としても、多様性が小さいのには他の原因(太陽光が弱い、気温が低い、雪が降るなど)があるのではないか。「遺伝的多様性」で問題になるのは、突然変異の原因と、デニソワ人・ネアンデルタール人の影響がどこまで現生人類に関わりがあるのかにあると思う。

★まとめ

(複数回出アフリカ説の言う)第二波はシナイ半島を経てアジアにたどり着き、結果的にユーラシア大陸の人口の大半の祖先となった。この第二のグループはより高度な道具技術を持っており、最初のグループよりも沿岸の食物源に依存していなかった。
「この第二のグループはより高度な道具技術を持っており」とあるが、これは何なのかであるが、当時は旧石器時代であり、道具と言っても「当時の石器は、石や動物の骨を打ち欠いて作られた鋭利なナイフ、鏃、槍、ハンドアックスなど、多岐にわたるものがつくられた。また、木をくりぬいてカヤックやカヌーも作って水上移動をしていた。さらにシアン化水素やヘビの毒、アルカロイドなど毒物の扱いにも長けていた。食糧が腐らないよう、乾かしたり低温保存させたりということも知っていた。」と言うことで、これらの道具類等のすべてがアフリカ起源とは思われないが、日本の旧石器時代が3万年台前が主力なのに対し、6~7万年前にこのような技術があったのは驚きである。特に、木工技術(丸木舟を造る)などは3万年前の日本でもなかったのではないか。無論、これらの石器や木工品の完成品は重かったり、かさばったりして持ち運びには不適と思われ、我が国の細石刃文化人と同様技術の移転のみを行ったのではないか。

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