ブナ林文化について

★はじめに

ブナ林文化にもいろいろな呼び方があるようだが(ナラ林文化、ブナ帯文化、ブナ林帯文化など)、ここでは一応ブナ林文化と呼ぶ。
一般的には、照葉樹林文化が西日本でブナ林文化が東日本で優勢であった。即ち、極言すれば照葉樹林文化が弥生文化とともに、ブナ林文化が縄文文化とともに栄えたと言うことになろうかと思われる。照葉樹林文化論は戦後の一時期一世を風靡した学説で、西日本地域に在住の人には親しみの持てる文化であろうが、東日本地域に在住の人にとってはやや大げさに言うと違和感のある文化かもしれない。特に、ブナという木が雪と関係するようで(白神山地のブナ林など)、シラカバに似たところがある。ブナの北限は北海道の渡島半島、南限は鹿児島県の大隅半島のようで、全国的に市町村の木に指定されている。ブナの木の特性を述べると、
1.ブナの果実は多くの哺乳類の餌として重要である。
2.用材としては好まれなかったが、薪のほか、下等品のための需要はあった。(腐りやすい上に加工後に曲がって狂いやすい)
3.曲げに適しているため、家具の脚、太鼓類の胴、スキー板、ベニヤ材、玩具材、楽器の鍵盤、ブラシの柄などに用いられる。
縄文時代にあっては、ブナの主たる用途は食料か。果実(堅果)は、見栄えはよくないが、中の胚乳は渋みがなく脂肪分も豊富で美味であり、生のままで食べることもできる、と言う。建材や弓の素材などの用途もあったかと思われるが、遺物として残っているものはイヌガヤ(弓)、クリ・スギ(住居)などでブナはないようである。但し、以上は確定したものではないのでほかにブナの有効活用があったのかもしれない。もっとも、日本のブナは英語でJapanese Beechと言われるので、中国の中国ブナとは厳密には違うかとも思われる。即ち、日本のブナは日本固有種である。そう見れば、日本のブナ林文化は輸入文化で熱帯文化の色彩が強い照葉樹林文化とは異なり、日本プロパーな部分もあるのではないか。例えば、納豆の起源譚はたくさんあるが単に類似の製品が東南アジアにあるからといって照葉樹林文化の影響とはいえないと思う。現に、納豆の消費は西日本では少ないと言うし、納豆という漢字も日本独自のものという。何でも外来品は中国経由で入ってくるのが常の日本にあって品物は入ってきたが名前は別というのは考えづらい。
而して、ここではブナ林文化と照葉樹林文化の差違を長々と述べても始まらないので、いろいろ物議を醸している「犬」と「馬」について検討してみる。

★縄文時代の犬

縄文時代に犬がいたかどうかは問題ではあるが、一般的には狩猟・採集が生業だった縄文時代にあって、弓矢と犬は必須の狩猟具であり、日本にも犬はいたと解する向きが多数であり、遺跡もある。犬と言っても当時にあって考えられる犬としては「猟犬」と「橇犬(そりいぬ)」があり、後者は日本にはいなかったものとされる。樺太犬は橇犬(そりいぬ)として有名ではあるが日本犬説と洋犬同士の雑種説があるようだ。私見では北海道固有種と思っていたのだが、今は自動車等に駆逐されて消滅したという。また、縄文犬と中国・朝鮮半島の古代犬は類似していることから、縄文犬は大陸由来と考えられている、と言う説もある。しかし、日本の縄文犬は南方系という説とどう整合性を取るのか。加うるに、縄文犬と弥生犬は違うという説もあり切りがないので、ここでは秋田犬に注目してみたい。
秋田犬は日本犬の中では唯一の大型犬種とされる。秋田犬は犬種としての歴史が浅く、日本犬としての犬種に疑問を持つ人々も多いようだが、「古代犬種の系統樹」の中に柴犬とともに入っている。従って、縄文時代から続く日本犬の改良種と見て間違いないようである。
そこで秋田犬が大型犬になった原因であるが、
①洋犬と日本犬(秋田犬)の雑種犬である。
②大型闘犬をつくるため大型日本犬(秋田犬)同士を交配してきた。
③秋田マタギという地犬(熊猟犬・中型犬)が祖先。
④鎌倉時代に外部から持ち込まれた大型犬か。北海道犬につき、鎌倉時代に本州から北海道へ移住した人達に連れられて来た中型の獣猟犬が祖先ではないか、と言う説。
など、諸説あるも、一般的には秋田犬も元々は小型ないし中型犬で大型犬になったのはここ100年以内のことと言う。世界的に見てもベア・ドッグ(熊猟犬)は中型犬のようで小集団で猟をするようである。しかし、マタギ犬の直系の子孫とされる秋田犬や北海道犬は飼い主の品種改良意欲が乏しく縄文時代の姿を今に伝えている、と言うが本当か。秋田犬や北海道犬は番犬・猟犬を主目的に飼育されたようなので飼い主には始めから大型犬志向が強かったのではないか。一般に、縄文時代の北海道や東北のものは大型と言われる。例えば、ロングハウス、大型の石皿、太さ20cmを越える巨木柱、必要以上に深く掘りくぼめた竪穴式住居など。我田引水の何物でもないが、私見を有利に運べる説として、

「世界大百科事典」巻21、P415、<日本犬>今泉吉典博士執筆
「小型犬と中型犬は新石器時代から日本に生息し、南アジアに半野生の状態で分布するパリア犬に酷似すると言われている。パリア犬はディンゴとともにプチアチニ直系の原始的な品種と考えられる。日本の小・中型犬もおそらく同じ系統のものであろう。大型の秋田犬は日本の中型犬に北方系の樺太犬などを交配してつくりだされた」
「日本大百科全書2001」巻18、P2、<日本犬>増井光子博士執筆
マタギ犬につき「ドッグショーで中形犬に入るにはサイズが大きすぎ、大形には不足のマタギ犬はショーでは不利で、自然に中形犬のなかに吸収されたようである」
「日本大百科全書2001」巻18、P2、<日本犬>田名部雄一博士執筆
「血液タンパク質型を支配している遺伝子構成が、日本犬種と西洋犬種とは著しく異なっていた。
日本犬種のなかでは、北海道犬は台湾の高山地方の在来犬種と近かった。
北海道犬を除く日本犬種の遺伝子構成は、韓国の在来犬種である珍島犬と多くの類似性が見いだされた。
このことから、日本国土には初め南方から入った古いイヌがいて、その後朝鮮半島から新たにイヌが入り、この両者の混血により現在の大部分の日本犬種の祖先がつくられた。
北海道犬ではこの混血がほとんど行なわれなかった。
先住民族縄文人、その後朝鮮半島を経て弥生人が渡来した。北海道のアイヌが古い型のイヌをもっており、これが現在の北海道犬になった。」

以上より判断するならば、秋田犬場合によっては秋田犬と北海道犬の先祖とされるマタギ犬は増井博士の言うドッグショーの基準ではあるが「中形犬に入るにはサイズが大きすぎ、大形には不足」と言うことを見ると、やはりマタギ犬そしてその後継の秋田犬は当時の日本犬種のなかでは大型の犬種に属していたのではないか。即ち、何も近代になって新しくつくられた大型犬ではないと言うことである。但し、秋田犬が犬種として認められたのはここ100年くらいのことで日本犬の歴史がおよそ10000(一万)年とすれば”秋田犬は大型犬”と言われてもあまり信はおけない感じがする。
田名部博士の南方から移動した縄文人、朝鮮半島から渡来した弥生人説だが、日本犬が日本人がいるところならどこにでも、即ち日本列島一円にいるのに対し、台湾の高山地方とか韓国の珍島とかに限定されるのはどういうことか。一応、珍島犬については、モンゴルに抵抗する勢力が珍島(チンド)へ逃れる折にこの犬種を同伴した、と言う。考えづらい話で、先史時代の日本人が台湾や韓国へ行った際、何匹かの日本犬を先方においてきたと解する方がいいのではないか。日本人のY-DNAハプログループはC、D、N、O、Qなどが多いようであるが、C(C1a1)を除いてはみんな北方系の人ばかりである。C1a1にしても隣接のC1a2 はヨーロッパにわずかに見られる、とある。台湾から一挙に北海道は考えが及ばない。
今泉博士によれば、日本犬は南アジア(インド)に半野生の状態で分布するパリア犬に酷似する、とされるが、おそらくインドからモンゴル(いわゆる清朝支配の外蒙古<現モンゴル国>と内蒙古<現中国・内モンゴル自治区等>)を経由して、日本にやって来たのではないか。パリア犬が日本犬の元祖とするならばその渡来ルートにつき北回り(モンゴル)説と南回り(東南アジア)説が考えられるようである。
総括すれば、日本犬は縄文時代草創期に北方からやって来た縄文人に連れてこられた犬であり、北海道にとどまった犬が現在の北海道犬であり、北海道から北方系縄文人とともに本州方面に渡った犬が秋田犬とか甲斐犬とか紀州犬とかになって独自の発展を遂げたのではないか。その意味で、北海道犬が一番古い形質を残しているものと思われる。田名部博士の朝鮮半島から渡来した犬のことで、日本にはこの種類しかないものと思われる。南方から来た犬はなかったと言うことである。日本犬の元祖は縄文犬と言うことになる。即ち、朝鮮半島からやって来た弥生犬はないと言うことである。

★縄文時代の馬

馬(特に、家畜化されたもの)が世界に出現したのは「6000年前頃、野生種のモウコウマを黒海からカスピ海の地域で家畜化したものと考えられている。ウマが家畜化されたと考えられる最古の遺跡は黒海の北岸に位置するデレイフカ遺跡から出土した馬である」と言い、6000年前と言えば日本は縄文時代であり、農耕の進んでいなかった日本では農耕馬としての利用はなかったようである。馬の普及は紀元前3500年ごろ、メソポタミアで車が発明され、紀元前2000年(4000年前)ごろにスポークが発明され馬車が広く使われるようになってからという。馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、地中海世界から黄河流域の中国まで広く使われるようになった。このときも日本は圏外であり馬車の恩恵にはあずかれなかったようである。日本は国土が狭いので戦車としての利用はおろか、陸上運送具としての利用も後世になるまで進まなかったと思われる。馬耕もあまり普及しなかったのかもしれない。広大な草原地帯もなかったので馬に、直接に騎乗すると言う風習も育たなかったらしい。とは言え、多用途に利用できる馬を好奇心旺盛な日本人が無関心だったと言うことはあり得ないと思う。時代は大いに下るが、平安時代初期に、『類聚三代格』に以下のような文言がある。

『類聚三代格』巻十延暦6年(787)正月21日太政官符

右被右大臣宣称。奉勅。如聞。王臣及国司等争買狄馬及俘奴婢。所以弘羊之徒苟貪利潤略良竊馬。相賊日深。加以無知百姓不畏憲章。売此国家之貨買彼夷俘之物。綿既着賊冑鐵亦造敵農器。於理商量。為害極深。自今以後。宜厳禁断。如有王臣及国司違犯此制者。物即没官。仍注名申上。其百姓者一依故按察使従三位大野朝臣東人制法随事推決。

とあり、「王臣及国司等、争いて狄馬及俘奴婢を買う。弘羊之徒(前述の王臣及国司等のことか)と言う所以は苟しくも利潤を貪り良を略き馬を竊む」と言うもののようである。狄馬(てきば)とは日本列島北方の在来馬を言うようで、後世の南部馬のことかと思われる。俘奴婢(ふぬひ)とは後世の秋田美人や山形美人を言ったもので凹凸のはっきりした彫りの深い顔をした女性のことで、畿内のフラットな顔はだめ、と言うことなのだろう。馬については、『類聚三代格』巻十九弘仁6年(815)3月20日太政官符、『類聚三代格』巻十九貞観3年(861)3月25日太政官符にも記載がある。
これらのことから、夷狄の馬はユーラシア大陸北方から直接日本列島北部にもたらされたものではないかと考える説も多い。(新野直吉秋田大学名誉教授など)当時の宮中における馬の用途は競馬(くらべうま・きおいうま・きそいうま)、または駒競(こまくらべ)と言う現代における競馬(けいば)のことで、世界的競走馬育成には100年単位の年月がかかることは間違いないものと思われる。日本では公に馬を輸入した形跡はないので、民間の私的貿易で馬を購入したものと思う。有史時代に入ってからの可能性としては、高句麗の遺民による渤海との交易や百済の遺民による朝鮮半島との交易が考えられる。しかし、日本の記録では陸奥国の馬が「延喜式」主税上に駅馬の価格として「陸奥国、上馬六百束、中馬五百束、下馬三百束」とあり、上馬・中馬は全国一の価格を示す。奈良時代から平安時代にかけては陸奥国の馬が高い評価だったことが解る。また、日本の馬子唄はモンゴルの民謡に似ていると言う人もいる。馬の世話をする人が馬と一緒にやって来てモンゴル民謡を教えたかとも考えられるが、一説にモンゴルでは日本の縄文時代にあたる時代の遺跡が少なく資料もほとんどないとのことである。人口も少なかっただろうしそんなときに馬をつれて日本にやって来るとは考えられないことだ。因みに、有名な馬子唄として<津軽馬子唄>(青森県)<南部馬方節>(岩手県)<秋田馬子唄>(秋田県)<上州馬子唄>(群馬県)<小諸馬子唄>(長野県)<鈴鹿馬子唄>(三重県>がある。一般に考えられている日本への馬の流入経路は朝鮮半島(『古事記』に、応神天皇の御代に百済の国主照古王<百済の近肖古王>が、雄雌各一頭を阿知吉師<あちきし>に付けて献上したとある)か、中国(日本語のウマの語は中国語の馬<まー>の音を日本語化したもの)と考えられているが、あるいは、モンゴルと北東北地方とに古い交易ルートがあり、蒙古野馬の原産地であることと相まって、モンゴル語は日本語と同じアルタイ諸語に属し、日本語に酷似しているということから割と容易に物々交換ができたのかもしれない。特に、青森県は特異な県であり、日本では一般的でないY-DNA NとかC1a1とかがDやOに混じって存在しているようだ。南部馬を考え合わせるとモンゴル(内モンゴル自治区を含む)、満州、ウラジオストクは交易ルートでつながっているようだ。
総括すれば、日本には東日本系馬(南部馬)と西日本系馬(畿内馬)がいたようで、東日本系馬は北方系(モウコノウマ系)の中型馬で、西日本系馬は南方系(与那国馬など)の小型馬であったようだ。用途としては東日本系馬は戦闘騎馬用に、西日本系馬は農耕・運搬用に使役されていたという。しかし、日本在来馬の起源については、東北アジア由来の中型馬と東南アジア由来の小型馬という大きさによる分類法である「二派渡来説」が提唱されてきたが、近時、年代測定法やDNA系統解析などの研究結果から、日本在来馬は4、5世紀の古墳時代に朝鮮半島から渡来して、人の交流によって各地に広がったと考えるのが妥当とされるようになった、と言う。
当時、世界的な家畜馬の分類の元祖と言えば、大型馬がタルパン種、中型馬はモウコノウマと言われていたのだが(ほかに、重種馬、ポニー、軽種馬など)、古代においては日本にはタルパンは入ってこなかったようで、モウコノウマだけのようだが、上述のように南部馬の需要が高かったと言うことは畿内馬よりは優位な点があったと思われる。優位点は何なのかが解らないので今のところ確たる結論が出ていないのである。

ブナ林文化と馬の関係だが、馬は羊、山羊(やぎ)、牛より家畜化されたのが遅く、ウクライナのデレイフカ遺跡から多くの馬の骨とともに銜留(はみどめ)が発見された前4000年頃には家畜化されおそらく騎乗も開始されたと唱えられている。しかし、その後の馬の遺跡発見ははかばかしい発展を見せず、馬骨の埋納例は純粋な騎馬遊牧民が登場したと思われる前1000年頃から急激に増加した。その頃モンゴル高原には大規模な墳墓が造営されるようになり、その周囲に最大で1000基を超える石堆が設けられるが、石堆からは必ず馬の頭骨・頸骨・蹄(これらの骨だけで馬全体をあらわそうとする考えがあったらしい)が出土する。一般的に言って、左様な大規模な墳墓を造営する人物がいればそれに相応の敗者もいたはずで、なかには命の次に大切な馬ともども日本列島に流れ着いたのではないか。ストーンサークルは日本では「青森県と秋田県北部、北海道では渡島半島を中心に道北を除く道内各地に検出されている。血縁・地縁をもった氏族の連合が40 – 50キロメートルほどの距離をおいた領域を占有し、その中心に祭の場を築造したのではないか、と考えられている」とあり、「東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られている」という。何やらモンゴル高原の敗者が日本で造った墓かとも思われるが、小型のストーンサークルはモンゴルでは馬の墓でもあったようだ。石で直径数十センチの円を造り円のなかに馬の頭骨・頸骨・蹄など(単品の場合もあったかと思う)を埋納したようだ。青森県、秋田県北部、北海道・渡島半島と言えば、古く日本の馬産地と思われ、たとえモウコノウマと言ってもスピードのある馬が奈良・平安貴族に提供されていたのではないか。但し、この推論は状況証拠はまずまずだが、肝心の馬の遺物が出てこないのが難点ではある。ブナ林文化は日本の馬産にも影響を与えたのではないか。

★まとめ

日本犬については、
1.どこの日本犬もDNA(遺伝子)情報は同じで、始祖となった犬種は一つである。
2.始祖犬は、縄文時代草創期に北方から日本列島にたどり着いた縄文人が連れてきた犬と思われる。
3.北海道から南下した人たちによって全国にもたらされた。
4.北海道犬は始祖犬の一頭である。北海道犬は移動、混血がほとんどなかったので遺伝子の変異が少なかった。
5.秋田犬は元々当時としては大型犬であった。
6.日本犬は縄文時代から日本に住み着いた縄文犬と言うべきものである。

日本在来馬について
1.日本の在来馬についてはモウコノウマの系譜を引くものと思われるが、トカラ馬など南方系の馬もいる。
2.南方系の馬は縄文時代や弥生時代には日本列島に存在していただろうが、本州や九州北部には上陸しなかった。
3.日本の在来馬の主力は世界的には中型馬のモウコノウマの系統であった。
4.南部馬は奈良時代、平安時代を通じて王臣及国司等に人気が高かったので、あるいは世界的に大型馬の範疇に入るタルパン系の馬かもしれない。
5.日本の在来馬の系譜を明らかにすべきである。単に、古墳時代に朝鮮半島から来た馬では物足りない。
6.日本在来馬は日本人の体位向上とともに改良が行われなかったので、時代とともに廃れてしまった。

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