野に火を放つとは

★はじめに

「古事記」によると野に火を放つ話が二件ほどあり、一つは須佐之男命が大国主命への試練のため放ったもの、もう一つは倭建命を相模(原文・相武)国の国造がだまして殺害しようとして火を放ったもの、であるが、以下原文を抜粋してみると、

「古事記」上巻 大國主命
また、鳴鏑(なりかぶら)を大き野の中に射ち入れて、其の矢を採らしむ。 故、其の野に入りし時に、即ち火を以ちて其の野を迴り燒きき。 是に出でる所を知らざる間に、鼠、來たりて云いて、「内は富(ほ)良(ら)富(ほ)良(ら)【此の四字は音を以ちてす】、外は須(す)夫(ぶ)須(す)夫(ぶ)【此の四字は音を以ちてす】」と、如此(かく)言いき。 故、其の處を蹈みしかば、落ちて隱り入る間に、火は燒け過ぎき。 爾くして其の鼠、其の鳴鏑を咋い持ちて出で來て奉りき。 其の矢羽は其の鼠の子等、皆な喫えり。

亦鳴鏑射入大野之中 令採其矢 故入其野時 即以火迴燒其野 於是不知所出之間 鼠來云 内者富良富良【此四字以音】外者須夫須夫【此四字以音巳】如此言故 蹈其處者 落隱入之間 火者燒過 爾其鼠咋持其鳴鏑 出來而奉也 其矢羽者 其鼠子等皆喫也

「古事記」中巻 景行天皇
故、爾くして相武(さがむ)の國に到りし時に其の國造、詐りて白ししく、「此の野中に大沼有り。 是の沼の中に住みし神は、甚(いと)道(ち)速(はや)振(ぶる)神なり」。 是に其の神を看に行きて其の野に入り坐しき。 爾くして其の國造、火を其の野に著けき。 故、欺かれぬと知りて、其の姨、倭比賣の命の給いし嚢の口を解き開けて見れば、火打、其の裏(うち)に有り。 是に先ず其の御刀を以ちて草苅り撥(はら)い、其の火打を以ちて火を打ち出し、向い火著けて燒き退(そ)けて、還り出でて其の國造等を皆な切り滅(ほろぼ)し、即ち火を著けて燒きき。 故、其の地を今に燒遣(やきつ)と謂なり。

故爾到相武國之時 其國造詐白 於此野中有大沼 住是沼中之神 甚道速振神也 於是看行其神入坐其野 爾其國造火著其野 故知見欺而 解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者 火打有其裏 於是先以其御刀苅撥草 以其火打而打出火 著向火而燒退 還出皆切滅其國造等 即著火燒 故其地者於今謂燒遣也

これらの説話の原話については諸説あるも、大国主命については須佐之男命の娘(須勢理比売)との結婚に際し、須佐之男命が与える数々の試練即ち一種の結婚への通過儀礼の話とする見解が多く、倭建命の場合は戦の時に野で敵方に火を放たれた場合、草をなぎ倒し緩衝帯を作り、且つ、迎え火を放つのが通常の戦法だった、と考える向きが多いようである。
以前、何かの本でこれらの野火を放つ説話は、元は焼畑農業の開墾準備のための火入れの話で須佐之男命や倭建命の話は後から加わったもの、と言うことを読んだことがある。「草薙」という地名も焼畑地名に多いという話も聞いたような気がする。最近はそういう見解を聞くことはなくなったが、「地名用語語源辞典」(楠原佑介・溝手理太郎編)P169「くさなぎ(草薙)①くさ(草)・なぎ(薙)で、草を薙いで開墾した地か。古い時代の焼畑地名の一つか。②くさ(朽)・なぎ(薙)で、崩壊地形を示す用語を重ねたものか」とある。但し、楠原・溝手説は『崩壊地形説』のようである。もっとも、草薙の意味については耕地にするにしても野に火を放つのではなく草を刈って耕地にするという意味が一般的であるようだ。草薙が野に火を放つことを言うのか、はたまた、草を刈ることを言うのかはっきりはしないが、吉田東伍博士によれば倭建命が東征の際に賊難にあったのは、焼津、草薙(静岡市清水区草薙)、小野(神奈川県厚木市小野、同博士著「増補 大日本地名辞典 板東 第六巻」P58ー59小野神社を参照)の三地で、記紀はそれを一所一作のごとくしたのでチンプンカンプンになってしまったという。
いずれにせよ争いがあるたびに放火を繰り返していては集落は消滅し、延いては、地域社会滅亡にもつながるので、上記「古事記」にあっても火を放ったのは人里を少しばかり離れた「野」であるようなので、古典に出てくる「野に火を放つ」とは焼畑の準備のための火入れと解する。
焼畑農業については今でも極々少数存在するようであるが、水田稲作に先行する縄文農業の主生産形態だったのか、はたまた、水田稲作とほぼ同時に照葉樹林文化の一環として導入されたのか解らない面があるが、次に焼畑農業について少し検討してみたい。

★焼畑農業

焼畑農業については我が国には照葉樹林文化とともに入ってきたと解する向きが多いようである。

照葉樹林文化(領域:台湾北部、九州、朝鮮半島南部、近畿、東海道海沿い茨城県あたりまで)で我が国に影響を与えたものとしては、
根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる、と言う。

これに対して、中尾佐助、佐々木高明両博士はナラ林文化(領域:北陸、中部、北関東、東北、北海道、樺太)という概念を打ち立てている。
ナラ林文化で我が国に影響を与えたものとしては、佐々木高明博士の見解によれば、
アルタイ系言語、弓矢、犬、深鉢形の土器(北緯30度以北の冷涼地域にその分布の中心がある)、竪穴式住居の様式、そばの栽培、イノシシ(ブタ)の飼育、馬鞍型の石臼(サドルカーン。日本では石皿が使用されていた)、クルミ・クリ・トチ・ナラの実などの堅果類、ウバユリ・ヤマノイモなどの野生のイモ類の採取・利用、サケ・マスの漁撈、シカ・イノシシの狩猟、農作物ではカブ、ゴボウ、カラシナ、ネギなどで東日本系と西日本系の違いがあり、オオムギは脱粒を阻止する遺伝子の組み合わせからE型とW型の二大群に分けられ、E型は西日本、W型は東日本に分布する。

以上より判断するならば、それぞれの文化はそのバックグラウンドに照葉樹林帯とブナ林帯をかかえ、その環境の中で培われたものである。従って、照葉樹林文化は弥生文化の基層を為したものであり、ナラ林文化は縄文文化の基層を為したものであろう。そこをきっちりと分けられるのならいいのだが、最近は「縄文焼畑農業」とか「縄文稲作」という見解も見られる。
佐藤洋一郎博士は稲の研究にDNA解析等を取り入れたその道の泰斗なのだが、「縄文焼畑農業」とか「縄文稲作」を積極的に主張しておられる。
「縄文焼畑農業」に関して言えば、
1.縄文時代の焼畑は平らな土地に開かれていた
2.縄文時代の焼畑には水が豊富にあった
春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払う。夏の間は高くなった地下水位に支さえられて稲作を行う。渇水の年にはイネに代わってアワ、キビなどの乾燥に強い雑穀の収穫を見込む。反対に雨が多い年にはイネが多く収穫できた。
一般に、焼畑起源地では平地に水田を作り、山の傾斜地に焼畑を作り畑作を行うようである。日本での似たような地形としては<河内>の語源につき山間部の小盆地をいい、そこで日本の稲作は始まったという。言及はないが、おそらく山の傾斜地に焼畑を作っていたと思われる。平地で焼畑を作るというのは高地がないところと思われる。従って、焼畑が水田稲作より先にあったというのも疑問ではある。また、日本の縄文平地焼畑稲作については「水陸未分化稲作」との見解もある。
「縄文稲作」については、
1.縄文遺跡からイネのプラントオパールが出土している
2.イネのプラントオパールの量は栽培されていた規模。少量ながらアフリカ原産のシコクビエ、モロコシなども発見されている。
ほかに縄文遺跡で発見される遺物は、打製石斧という土掘具(木工具)、丸い石・真ん中に穴の開いた窪み石(発火器・ハンマー)、土偶(土地を母と考える地母神信仰の現れか)などいずれも焼畑農業に関するものが多い。
しかるに、我が国の斯界の重鎮はさような科学的分析には関心がないようで、いずれもイネについてであるが「縄文稲作」を否定し、それが通説となっているようである。曰く、
「稲作の起源 イネ学から考古学へ」(池橋宏著、講談社選書メチエ)P196
「結論として、現在の熱帯ジャポニカが焼畑農耕に使われているからといって、それと一部について共通の特徴をもつ日本の古代のイネが、古代に焼畑で栽培されたという保証はどこにもない。熱帯ジャポニカという呼び方は、一見刺激的で、報道関係者や遺跡の調査をしている人たちに期待されるような「ニュース性」があるだろうが、「遺跡から熱帯ジャポニカの発見」というのは拡大解釈ではないだろうか」
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)P21
「縄文時代に稲作はあったのか
縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼるとみなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)を確認できませんでした。また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシはコメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からというのが最近の研究者の大方の見解です」
池橋説はお説ごもっともではあるが、大量のイネのプラントオパールが出土したと言うことは、焼畑での栽培ではなくとも上述の平地における「水陸未分化稲作」なども考えられる。文化庁説はなにやらどこかの国にいた戦国時代の独裁者の「目に見えるもの以外は信ぜず」ばりの見解で、「籾圧痕にシリコンを注入して」などという発想は正道を行くものなのか。

日本の焼畑農業については照葉樹林文化とともにやって来たのか、はたまた、それ以前にもあったのか、という疑問がある。西日本の焼畑は照葉樹林文化とともにやって来たと考えられるが、東日本の縄文時代の焼畑については、あったのか、はたまた、なかったのか、今のところ判然とはしていない。焼畑農業は何分にも現在の言葉で言うリサイクル型農業というべきものでその痕跡は水田遺跡ほどには残らず、縄文遺跡で発見される植物の種子や種子の圧痕、プラントオパール、花粉などで判断しているのであるが、例えば、イネのプラントオパールが発見されたからと言って遺跡と同時代のものとは限らないという見解もある。遺跡が縄文時代だけで終焉した単純遺跡なら縄文焼畑稲作の可能性は高いであろうが、複合遺跡なら精査が必要になろうかと思う。しかし、これらの遺物は土器胎土や土器包含層(イネのプラント・オパールは粒径が小さく雨水と共に地下に浸透する可能性がある、と宣う説もある)からでたものがほとんどであり、時代が違うなどというのは失礼ながら難癖の類いのお説ではないか。
一応、重箱の隅をつつくような話は横に置いて、縄文農業はあったと仮定するとそれは焼畑農業だったのか、また、焼畑稲作はあったのか、と言うことになろうかと思う。焼畑農業は熱帯から温帯にかけて行われた農法で日本の縄文時代の主力地域は北海道、北陸、中部、関東であり、北海道だけが亜寒帯でほかは温帯ということなので焼畑農業があってもおかしくはないが、それが日本で自然発生したものか、大陸から導入されたものかはよくわからない。大陸は亜寒帯とか寒帯地域であろうが、森林火災が今でも多く(人為的なもの80%という)、火災の止んだ後にいろいろな植物が芽吹き、それを食料としたことに触発されて焼畑農業が始まったのではないか。それを縄文人は沿海州にでも渡り、我が国に取り入れたのではないか。

★結 論

大国主命と倭建命のいずれの野焼きの話も阿部源蔵(元県立静岡女子短期大学教授か)という国語学者の説くとおり焼畑の伝承の一部を切り取りして大国主命や倭建命の説話(武勇伝)に取り入れているようだ。ことほど左様に当時にあっては焼畑の火入れは危険を伴うものではなかったか。おそらく、風向きや防火帯の有無により被害が拡大したようだ。大国主命の時代は今で言う防空壕のようなものがあって火をやり過ごしたのだろう。倭建命は風向きを見計らって防火帯を築造している。飛騨地方では焼畑を「ナギ」というそうだが、「草薙(くさなぎ)」もその範疇に入るものではないか。
日本の焼畑農業が照葉樹林文化とともに日本にもたらされたというのが通説のようであるが、照葉樹林文化が日本に入ってきたのは弥生時代と考えられる。従って、水田稲作と焼畑農業は同時に導入されたとみても差し支えないと思うが、我が国にはそれ以前(縄文時代)に北方伝来あるいは我が国で自発的に発生した縄文焼畑とも言うべきものがあったのではないか。焼畑は耕耘、施肥がいらず、当時にあっては最先端の農業ではなかったか。縄文時代にも人口はそれなりに増加しており、人口が増えるということはそれに比例した安定した炭水化物系の食料があったと思われる。
農作物についても、当時の日本の中心が北海道から東北、東北から関東へと移動して行くにあたって、東北の三内丸山遺跡では今から約5500年前~4000年前にエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになったという。三内丸山遺跡の全盛期にはそれまでの北海道から樺太経由の交易が東北から直接沿海州(今のウラジオストクあたりか)の方へ縄文人が出かけていたのではないか。「平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている」とか「(興隆窪文化の遺跡からの)平底円筒型土器が朝鮮半島北部からアムール川流域、ロシア沿海地方にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されているほか、同様の土器が縄文時代の日本の東北地方・北海道からも発見されている」とある。コメも栽培が始まってからすぐに中国全土に広がり(但し、専門家の描く初期のコメの分布図は長江流域になっており、中国全土ではない。華北やそれ以北では小麦、地域、時代によっては、コーリャン、粟など)日本にも縄文時代に将来されたかもしれないが、イネは何分にも熱帯、温帯の植物で亜寒帯と言われる北海道や青森県では栽培できなかったか。縄文時代の東北地方の米遺物は八戸市是川の風張遺跡で「3500年前縄文時代後期に東北の最北端で「炭化米」が2粒出土した 稲作の出現に一石を投じる」だけで、ほかはほとんどが九州・岡山県地域に偏っている。
以上より、日本の文献に残る焼畑農業は弥生時代以降のものであるが、縄文時代の栽培農業を考えるなら日本独自の焼畑栽培農業があったと思われる。

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