日本人はなぜ長弓に固執したのか

★はじめに

我が国には縄文時代から弓矢はあったらしく、土器と弓矢が縄文の二大発明、と言う見解もある。具体的には、福井県若狭町にある鳥浜貝塚(とりはまかいづか・縄文時代草創期・早期・前期の遺跡)で、飾り弓、丸木弓(棒材の両端を尖らせただけのもので、尖棒と弓とが混在して判定不明という)、小型弓(穿孔用具か。弓錐<ゆみぎり>錐の柄に弓の弦を巻き付けて弓を前後に往復させて錐を回転させる)が発掘されているという。弓は、一応、80cm~120cmの短弓とされる。言わば、縄文人は身の丈に合った弓を使っていたようだ。しかるに、「魏志倭人伝」によると”兵用矛楯木弓 木弓短下長上”とあって、弥生人は自分の身長を超えるような長弓を使っていたらしく、弓の中央あたりを握ると弓の下の方が地面に支えて制御不能となるので弓の下の方を握っていたらしい。それもこれも、弥生人は無批判に大陸の弓を導入したらしく、小柄な縄文系倭人が使用法を変えて使っていたのだろう。もっとも、短弓の使用は西アジア方面の乾燥地に多く、長弓は東アジアの湿潤地に多いという意見もある。日本も東アジアにあるので長弓が入ってきたと言えばそれまでだが、縄文時代にはほとんどなかった戦争が弥生人がやって来たとたんに始まった、と言うのも、弥生人が日本に来てありがたかったのか、はたまた、迷惑だったのか、一考を要するところだ。
弓は日本の縄文弓もあるが、中国で発展したらしく、中国東部の民族を東夷と呼ぶのも、ばかでかい弓を使う人たちだったので、大の字と弓の字を一体化して「夷」としたと言うもののようである。中国ではこのほかに「弩(ど)」(英語でcross bowあるいはbow gunと言う)という弓類似の飛び道具も発明されている。日本では弥生時代に作られた小型の弩の木製の銃身に相当する臂(ひ)の部分が島根県の姫原西遺跡から出土していると言うが、弩は射手と弦の張り手の二名を必要としたようであり(ほかに連弩と言うものもあった)、兵器として管理・整備が難しく、日本では普及しなかったようである。ヨーロッパでは中世以降に伝わったらしく、火器の普及まで使用されたという。例えば、イギリスでは13世紀後半に長弓が普及し、百年戦争におけるクレシーの戦い(1346)ではフランス軍の弩(クロス・ボウ)に対しイングランドのエドワード三世率いる長弓隊がフランス軍を打ち破ったという。弩と長弓は射程距離、命中精度などで弩が勝っていたが、速射性能が長弓が毎分6~12本だったのに対し、弩が毎分1~2本だったためであるといわれている。
世界の弓を使っている人の様子を見ても、アフリカの人は長身で長弓を使って、弓のやや上の方を握って矢を放っているようだ。また、南米の方では小柄な人が短弓をもって弓の中央を握り矢を放っているようだ。要するに、制御不能な弓などは使用しないと言うことだ。しかるに、我が国の場合は、一説(九州大学総合研究博物館。但し、各説1cm前後の違いあり)によれば、
縄文人・・・158cm(男)148cm(女)
渡来系弥生人・・・163cm(男)151cm(女)
在来系弥生人・・・159cm(男)148cm(女)
と言うことで、遺跡から発掘される縄文時代の弓の長さは1.2m~1.6mくらいとされ、弥生時代のそれは2.0m~2.3mという。これを見ても、縄文時代の弓の長さは身長・体格と均衡のとれたものであるが、弥生時代になると弓の長さが急に長くなったようだ。これを換言すれば、縄文時代の弓は日本のオリジナル(モンゴル等からの由来ではない)であり、弥生時代の弓は大陸伝来のものと言うことになり、弓にも縄文文化と弥生文化の違いが現れているようだ。世界的には身の丈に合った弓を使っているのに、日本だけが長弓というのは何かおかしいような気がする。ちなみに、朝鮮半島は片箭、角弓という弓があり、片箭は中国の弩を改良したもの、角弓は短弓で高句麗・モンゴルの騎馬民族がもたらしたものと言うことだそうです。また、中国の東夷については、周代以前の「夷」とは現在の江蘇省や山東省周辺を言い、「三国志」東夷伝では主に朝鮮半島と日本列島を指すようである。従って、日本に長弓をもってやって来たのは江蘇省(現在の南京や上海あたり)や山東省(現在の青島あたり)からやって来た人たちか。いずれにせよ「稲」に結びつく地域であり、稲と長弓をもって日本にやって来て、本国での戦争の延長かすぐに「いくさ」を始めたらしい。とは言え、争いの多かったところは現在の九州北部や山口県で縄文文化の長かった東日本では武器と考えられる長弓が出現するのは弥生時代末期あたりのようである。
しかし、弓の長さはまちまちで以下のような見解もある。
「出土品や正倉院の弓,文献に記録のある弓の長さを調べると,同様に短い弓,中くらいの長さの弓,長大な弓のグループに分類できた。短い弓は,祭祀遺物と共伴する頻度が高く,非実用弓と考えられる。長大な弓は,中世の弓との近縁関係から考えても戦闘弓と判断できる。・・・問題は中くらいの長さの弓の評価である。出土する地域が東北地方に偏り,アイヌの弓に近い長さであることから,蝦夷系の弓である可能性が高い。ただし関東以西の非長弓に関しては,狩猟・漁撈のための生活弓の可能性もある。 」(岡安 光彦)と。これを要約すれば、日本には長弓、短弓のほか中弓とも言うべき弓もあり、用途に応じて使用していたという。長弓ばかりが日本の弓ではないと言いたいようだ。また、本弓、半弓、本半弓、短弓(箱弓)と分類する人もいる。

★具体的な弓

国内の古社などには奈良時代以前の弓が保存されているらしいが、専門家でもなかなか実物を見ることができないようである。保存している著名な神社等としては、正倉院、春日大社、大山祇神社などがある。同じ弓(群)のことを言っているのであろうが数値はまちまちでご容赦いただき、以下、書籍、インターネットの引用をしてみる。

1.正倉院関連(収蔵された弓)

「正倉院には現在27張りの弓が保存されているが、それらをみると材質はアズサ、ケヤキ材で長さはさまざまであるが、7尺2寸(2.18メートル)くらいのものがもっとも多い。現代の日本弓が7尺3寸(2.21メートル)であることを考えれば、このころより日本の弓は長弓の傾向を示し定着したといえる。」
(日本大百科全書(ニッポニカ)、入江康平)

「正倉院の弓は「東大寺献物帳」によれば、「御弓壱佰張」とあり、ほかに別式 三張があり、その内、長弓101張の平均の長さは七尺六分(2.14m)である。
また、正倉院現存の長弓二十七張りの長さは七尺九寸(2.4m)である。
春日大社には六十八張りの長弓が現存するが、平均の長さは六尺九寸(2.09m )である。
これらの弓の材質は、梓(あずさ)、槻(つき)、檀(まゆみ)、榧(かや) 、などで、梓弓の名称のごとく、その名をもって呼ばれる丸木弓すなわち単一弓で、ほと んどが直弓であるが、土保山古墳の弓のように彎弓を思わせるものもある。
弓そのものは以上のごとく、千数百年前の多くの伝世品が現存し、それが現在 使用されている長弓(2.21m)とほとんど大差がなく、また上長下短の形で使用されたこ とも同じである。」
(日本武道全集第三巻、日本弓術、馬術史より抜粋、とある)

「正倉院に弓は梓弓3張、槻弓24張が伝わる。
正倉院所蔵15張の弓の平均は205.9cm,最長は222cm,最小は182cmである。

大山祇神社所蔵9張の弓では,平均236.3cm,最長241cm,最小234cmである。」
(森 俊男。筑波大学。日本武道学会。正倉院及び大山祇神社所蔵弓の比較から見た弓具・射術の変化に関する研究)

これらの見解では最長、最小、平均の値は出ているが、弓の長さの分布図ないし各弓の具体的長さの記述がないので何とも論じられないが、一応、講学上で言う長弓ばかりなので日本の弓は長弓というのもあながち失当とはいえない。

2.遺跡からの発掘(発掘された弓)

鳥浜貝塚(縄文時代草創期・早期・前期。福井県若狭町) 弓、小型弓(弓は大きさによって通常のサイズのものと小型弓に分けることができ、通常のものは、狩猟用と装飾の施された儀式用のものがあります。小型弓は発火ないし穿孔に用いたと考えられます。重要文化財に指定されたのは丸木弓15点あり、うち2点が漆塗り。)
是川遺跡(縄文時代晩期。青森県八戸市) 弓(丸木弓5点、仲居遺跡の特殊泥炭層からの出土の飾り弓)
後谷遺跡(縄文時代後期から晩期。埼玉県桶川市) 木で作った弓(赤漆や黒漆を塗った飾り弓が3点、針葉樹を素材にした丸木弓が11点)
青田遺跡(縄文時代晩期。新潟県新発田市) 丸木弓
紅葉山33号遺跡(続縄文時代<2000年ほど前>。北海道石狩市) 飾り弓1点
中屋サワ遺跡(縄文時代晩期。石川県金沢市) 白木弓・飾り弓(多数)
下宅部遺跡(縄文時代後期・晩期。東京都東村山市) 丸木弓・飾り弓(丸木弓30点、飾り弓11点)
登呂遺跡(弥生時代後期。静岡県静岡市駿河区) 丸木弓(まるきゆみ)数本(長弓系の弓もある)

ほかにも多数あろうかと思われるが縄文時代のものは短弓、弥生時代のものは長弓の傾向にあるようである。飾り弓あるいは漆塗り弓などはレガリアないし権威の象徴、儀式用となっていたようで、その他の弓は生活用具(狩猟用や漁労用)として使われていたと思われる。武器としての使用は定かではないが、2世紀から3世紀にかけての弥生時代後期に鏃(やじり)がそれまでの石鏃から鉄鏃に代わったようである。国内的にはその頃が一番紛争が多かったようで、環濠集落や高地性集落などが出現し、水利権や余剰生産物をめぐっての抗争や戦争が絶えなかったようである。遺跡によっては首のない遺体や石鏃、鉄鏃が刺さったままで検出される遺体もある。

★まとめ

「弓道ーその歴史と技法」(松尾牧則、日本武道館出版)P52によれば「初期には大陸系の短弓が使用され、のちに短弓と東南アジア系の長弓が入り交じって使用され、四、五世紀頃(古墳時代)には長弓が使用されていたというのが、一般的な考え方となっている」と言うが本当か。日本には東南アジアから直接に文物が入ってきたと言うことはあまりなく、よしんば東南アジア系の長弓が入ってきたとしても中国(東夷、即ち、山東省や江蘇省など)経由ではなかったか。長弓は弥生時代に入ってきたようなので、稲とともに弥生人によってもたらされたと考えるのが一般的ではないか。その弓の出現も長江河口付近で長弓となったのは水田を荒らす動物(その中に人間も含まれるかもしれませんが)を威力のある武器で撃退しようとしたのではないか。その長弓が東南アジアと日本(当時は倭)に稲とともに伝わったのではないか。もっとも、稲の原産地については長江下流域とする説、東南アジアとする説がある。稲の伝播としては東南アジアから長江下流域、そして日本へと伝わってきたと言う説もあり、弓と稲が不離不即の関係にあるのならば長弓の起源は東南アジアにあるのかもしれない。しかし、日本で主に栽培されている「ジャポニカ種の可能性の高い種については中国長江流域で約1万年前に栽培されていることから、ここが起源であるとの可能性が高くなっている」という。いずれにせよ、日本の稲は長江下流域からもたらされたものであり、長弓も中国から入ってきたものではないか。縄文時代の短弓は矢を番える際は、矢を(身体から見て)弓の右側に番え、取り掛けは右手親指根で弦を引っ掛けるようにして保持する『蒙古式(モンゴル式))』を採るので、短弓はモンゴルから来たのではないかという説もあるが、はっきりとはしていない。弓は構造が簡単なのでどこにでもあるとされ、日本の短弓は日本で発明されたと言う説も根強い。当時の日本の動物で大型と言えばイノシシ、クマ、シカなどで複数の人で弓を速射すれば事足りたのではないか。
現在、世界で長弓を使用しているのは日本のほかは南太平洋、南米の民族だそうで、ブラジル原住民の長弓は写真で見ると長さは射手の1.5倍ほどあり、長弓の下端(本弭<もとはず>と言うか)を台地に固定し、的の位置によって握り位置を変えて矢を放っているような感じだ。これなんか身の丈に合った弓かははなはだ疑問だ。「アジアにおける長弓の起源に関する考察として、太平洋周辺の長大な弓の分布はオーストロネシア語族の拡散域と重なり(オーストロネシア語族は千前後の言語から構成され、西はマダガスカル島から東はイースター島まで、北は台湾・ハワイから南はニュージーランドまでと非常に広く分布している)」と言うが、実物は不明。子供は短弓を使っているような感じだ。但し、長弓を120cm以上とするなら長弓にも見える。しかし、200cm以上の本格的な長弓は世界的に見ても日本だけかと思われる。

日本の弓が長くなった理由としては、いろいろな人が諸説を発表しているが、主なものとしては以下のごとしである。

1.「日本の弓ばかりが『握り』を中央から下に取ってまで、その不便を忍んだことは、その長大の尊厳を捨てるに忍びなかったことが、一つの大きな理由になっている。」
「弓道教本」(第一巻)(全日本弓道連盟)
大上段に構え古色蒼然とした見解で、現代にあってかような意見を吐くとは時代錯誤も甚だしいと言わなければならない。

2.長弓により弓の破損防止を図った。
弓は弓幹(ゆがら・竿)が割れたり・折れたりしやすいようで、長弓にして危険分散を図ったと言うことか。

3.日本では弓は神聖なもので、機動性や合理性(短弓の特質)のみを追求せずに、神秘性も重んじた。
こういう意見は弓の発祥とは関係がないのではないか。何でも神がかりにしたがるようだ。

4.強い弓を引くには、筋力の無い日本人には限界がある。だから、長弓で直線的な狙いで射る。
前半はいいとしても、後半は武器として弓を使う場合敵がいつも直線的な位置にいたかどうか。

5.長弓は的中率が高く、遠くまで矢が届く。
4と同じで直線的な狙いの場合はいいが、的(まと)が上方や下方にある場合はどうか。

6.短弓は膠で素材を合成するから十分な張力が確保できる。日本は湿気が強いから膠がはがれやすく、十分な張力が維持できないから必然的に長弓になる。
日本の弓の加工技術が劣ると言うことか。

7.長弓は大量生産が容易で、複合弓に比べて相対的に湿気に強い。

以上、そのほかにも諸説があるが、上記諸説は長弓が弥生時代に外国から持ち込まれたことを考えると、後講釈の域を出ないであろう。楚漢戦争(劉邦と項羽の戦い)の影響が浙江省にも及び敗者が日本に逃げてきたのであろう。「この地の7000年前のカボト遺跡からは水田の跡が見つかっており、その籾のDNAはジャポニカであることから、この長江沿いの地域は日本の稲作伝来ルーツ地と見なされている。」とある。この稲と長弓を持ってやって来た避難民が日本でも内戦を繰り広げたと言うことか。即ち、中国では粟と短弓が勝ち、稲と長弓は負けたのか。しかし、日本では中国から逃げてきた稲と長弓派が多数を占め、粟と短弓派は少数だったので長弓が残ったのだろう。日本の縄文時代は粟と短弓のようで中国から来たにしてはなぜか東日本に偏っている。

私見では短弓主体の中国の弓にあってこの長弓は本来の用途は戦争の武器ではなく田畑護衛の道具ではなかったかと思われる。稲作は二期作などの特別の場合を除いてはその収穫までにおよそ一年間ほどかかり、特に、収穫期にあっては昆虫(イナゴ)、小鳥(スズメ)、鹿・猪・猿・狸・鴨・などの食害が発生する。その頃はなかったかもしれないが、今は稲熱病(いもちびょう)などもある。これらは農民の一年間の労働を無効にするばかりでなく、彼らを飢餓に追い込むことにもなる。従って、農民とすれば強い殺傷力のある武器(長弓)を持ってこれらの動物を撃退したのではないか。日本に長弓が入ってきた理由は何にせよ当初の利用目的は「倭国大乱」等の戦争の武器ではなく、食害対策が主で、その後人間の侵害があり、集落・地域間の紛争が頻発したのであろう。それも、縄文色の強い東北地方、関東地方、北陸地方、東海地方には地域間紛争はないか、少ないと言うことである。

結論を言えば、日本に長弓がなくならなかったのは、複合弓(合成弓)を作る機材や技術に乏しかったり、気候が接着剤(膠)に不適当だったこともあるが、短弓を扱うには体力・体格の面で難しかったとも考えられる。縄文時代の短弓の狩猟用だけの技術ではその後の戦争や紛争の武器にはなり得なかったと思われる。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

日本人はなぜ長弓に固執したのか への2件のフィードバック

  1. toorisugari より:

    日本も膠はあるし、鎧とかに使用されていたので、気候の問題ではないと思う。そもそも日本の弓も複合弓だし。
    また、当時の日本人の体格は周辺諸国、ヨーロッパと比べて変わりなく筋力が劣ると言うこともない。
    単に手軽に手に入った木材が不均等なもので、その使い勝手がよかったのが始まりではないだろうか。
    その後、鎧が出始めると、鎧を貫く力が必要になり、弓が大型化したと思われる。

    • tytsmed より:

      >日本も膠はあるし、鎧とかに使用されていたので、気候の問題ではないと思う。
       高温多湿の地域は膠には不向き、と言う見解もある。

      >当時の日本人の体格は周辺諸国、ヨーロッパと比べて変わりなく筋力が劣ると言うこともない。
       東アジアの人々とは互角かもしれないが、動物性タンパク質が主食の人は体格、筋力とも勝っているのでは。

      >単に手軽に手に入った木材が不均等なもので、その使い勝手がよかったのが始まりではないだろうか。
       そのようなご見解もあるいは正解かもしれません。

      >鎧が出始めると、鎧を貫く力が必要になり、弓が大型化したと思われる。
       鎧が出始めるのは弥生時代後期と思われ、同じ頃の『魏志倭人伝』には「兵用矛楯木弓 木弓短下長上」とあり、これは長弓ではないかと思われる。そもそも、弓の大型化と鎧の貫通力の問題は日本では関係がないのでは。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中