「海を光(てら)して依(よ)り來る神」とは誰か

★はじめに

「古事記」を読み始めてからズーッと思ってきたのだが、少名毘古那命が常世国へ行った後、大国主命のもとへ「海を光(てら)して依(よ)り來る神有り」とあって、この神は大物主神というのが多数説のようである。しかも、この神はそのまま出雲国に祀られたわけではなく、本人の希望により「倭之青垣東山上(倭<やまと>の青垣の東の山の上)」に祀られたという。即ち、「御諸(みもろ)の山の上に坐す神」と言うことで、現在の三輪山にある大神神社及びその祭神である大物主神と言うことのようだ。しかし、海から来た神(海の民の神か)がどうして山頂の神(山の民の神か)になるのか皆目見当がつかない。海から来たというならこの神はルートとしては1.九州(筑紫国)から来た 2.ウルルン島、竹島、隠岐の島を経由して朝鮮半島から来た 3.北陸(越国)から来た、などが考えられる。出雲国はいずれの地域とも交易があったと考えられ、助け船を出されたらありがたく受け入れたであろう。従って、大物主神は倭国(やまとのくに)へ行ってあるいは祀られて何をしようとしたのか、まずは「其神言 能治我前者 吾能共與相作成 若不然者國難成(其の神、「能(よ)く我が前を治(おさ)めば、吾(あれ)能く共に相い作り成さん。 若(も)し然(しか)らずば、國成さんこと難(かた)し」と言いき)」などと言っているが、成果が今ひとつはっきりしない。

★「海を光して依り來る」とはどういう意味

文字通り解すれば、夜に月の光を明かりにして丸木舟に乗ってやって来た、と言うことかと思うが、その本質を見てみると、

Ⅰ.大物主神は倭(やまと)の神と思われ、倭から但馬を経由して出雲にやって来た。理由は倭での地域紛争に敗れ命からがら出雲にやって来た。西暦元年頃の奈良盆地は諸勢力が入り乱れていたと思われるが、葛城国と三輪国が最終的には双璧を為していたのではないか。葛城国の国主は神武天皇、三輪国の国主は大物主神で、神武天皇が軍事優先の国主であったのに対し、大物主神は民生主導の国主ではなかったか。水田稲作の神様も倭では軍神には勝てなかったが、世の中には下には下の神様がいるもので、出雲へ行ったら同僚の少名毘古那命に逃げられて意気消沈している大国主神がいた。大物主神はこれを奇貨として大国主神を脅し、賺(すか)して、倭へ軍団を送らせ、大国主・大物主連合軍で神武軍を元の葛城国へ追いやった。それかあらぬか、「古事記」では大物主神は、神武天皇の岳父、綏靖天皇の祖父となっている。但し、「日本書紀」では神武天皇の岳父、綏靖天皇の祖父は事代主命とある。一体に、大物主神は皇室系図とはあまり関係がないとは思われるが、それでも、「記紀」には割とよく出てくる神である。少しばかり「記紀」から拾ってみると、

1.「古事記・神武天皇段」
三嶋湟咋之女 名勢夜陀多良比賣 其容姿麗美 故美和之大物主神見感而 其美人爲大便之時 化丹塗矢 自其爲大便之溝流下 突其美人之富登

三嶋湟咋の女、 名は勢夜陀多良比賣 其の容姿麗美しくありき。 故、美和の大物主神見感でて、 其の美人の大便まれる時、 丹塗矢に化(な)りて 其の大便まれる溝より流れ下りて 其の美人の陰を突きき。

2.「日本書紀・崇神天皇七年春二月条」
於是 天皇乃幸于神淺茅原 而會八十萬神 以卜問之 是時 神明憑倭迹迹日百襲姫命曰 天皇 何憂國之不治也 若能敬祭我者 必當自平矣 天皇問曰 敎如此者誰神也 答曰 我是倭國域内所居神 名爲大物主神

是夜夢 有一貴人 對立殿戸 自稱大物主神曰 天皇 勿復爲愁 國之不治 是吾意也

3.「日本書紀・崇神天皇七年秋八月条」
倭迹速神淺茅原目妙姫 穗積臣遠祖大水口宿禰 伊勢麻績君 三人共同夢 而奏言 昨夜夢之 有一貴人 誨曰 以大田田根子命爲祭大物主大神之主 亦以市磯長尾市 爲祭倭大國魂神主 必天下太平矣

4.「古事記・崇神天皇段」
其美人妊身 爾父母怪其妊身之事 問其女曰 汝者自妊 無夫何由妊身乎 答曰 有麗美壯夫 不知其姓名 毎夕到來 供住之間 自然懷妊 是以其父母欲知其人 誨其女曰 以赤土散床前以閇蘇【此二字以音】紡麻貫針 刺其衣襴 故如敎而旦時見者 所著針麻者自戸之鉤穴控通而出 唯遺麻者三勾耳 爾即知自鉤穴出之状而 從糸尋行者 至美和山而 留神社 故知其神子 故因其麻之三勾遺而 名其地謂美和也

其の美人(おとめ)妊身(はら)みぬ。 爾くして父母、其の妊身める事を怪しみ其の女に問いて曰く、「汝は自ずと妊めり。夫(お)無きに何の由にか妊身みぬ」。 答えて曰く、「麗美(うるわ)しき壯夫(おとこ)有り。其の姓(かばね)名(な)を知らず。夕毎に到り來り供に住める間に自然(おのず)から懷妊(はら)みぬ」。 是を以ちて其の父母、其の人を知らんと欲して其の女に誨(おし)えて曰く、「赤土(はに)以ちて床の前に散らし、閇(へ)蘇(そ)【此の二字は音を以ちてす】紡(うみ)麻(お)以ちて針に貫き、其の衣(きぬ)の襴(すそ)に刺せ」。 故、敎えの如くして旦時(あした)に見れば、針に著けたる麻(お)は戸の鉤穴より控(ひ)き通りて出で、唯、遺れる麻は三勾(みわ)のみなりき。 爾くして即ち鉤穴より出でし状(かたち)を知りて、糸の從(まにま)に尋ね行けば美和山に至りて神の社に留りき。 故、其の神の子と知りぬ。 故、其の麻(お)の三勾(みわ)遺(のこ)りしに因りて其の地を名づけて美和と謂うなり

5.「日本書紀・崇神10年9月条」
倭迹迹日百襲姫命 爲大物主神之妻 然其神常晝不見 而夜來矣 倭迹迹姫命語夫曰 君常晝不見者 分明不得視其尊顏 願暫留之 明旦仰欲覲美麗之威儀 大神對曰 言理灼然 吾明旦入汝櫛笥而居 願無驚吾形 爰倭迹迹姫命 心裏密異之 待明以見櫛笥 遂有美麗小蛇 其長大如衣紐 則驚之叫啼 時大神有恥 忽化人形 謂其妻曰 汝不忍令羞吾 吾還令羞汝 仍踐大虚 登于御諸山 爰倭迹迹姫命仰見 而悔之急居 【急居 此云菟岐于】 則箸撞陰而薨 乃葬於大市 故時人號其墓 謂箸墓也

倭迹迹日百襲姫命 大物主神の妻と爲る。然れども、其の神常に昼は見えずして、夜のみ來す。倭迹迹姫命、夫に語りて曰はく、「君常に昼は見えたまはねば、分明(あきらか)に其の尊顏を視ること得ず。願はくは暫(しばし)留りたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を覲たてらむと欲ふ」といふ。 大神對へて曰はく 「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり 吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。 願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。 爰に倭迹迹姫命 心の裏に密に異ぶ。 明くるを待ちて櫛笥を見れば 遂に美麗しき小蛇有り。(以下省略)

Ⅱ.「海を光して依り來る」とは単に出雲によそ者がやって来た、の意味か

当時にあっては交易でもしていなければ見知らぬ人と会っても具体的にどこの人かは解らなかったと思われる。いわゆるよそ者の出所は言葉で言われてもわからないので、一般論としては、山間部の人なら高所の山に天下ってきて、そこからやって来た、と言うことになろうかと思う。海辺の人なら船に乗って水平線の彼方からやって来た、と言うことなのだろう。「記紀」にもこの種の話が多く、
*天降りの例では、
・伊弉諾尊・伊弉冉尊は天の浮き橋から淤能碁呂島へ天降った。
・邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大神の命を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降った。
・素戔嗚尊は高天原を追放されて(神逐)出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ天降った。
・武甕槌神(たけみかづち)・經津主神(ふつぬし)は高天原より出雲國の五十田狹之小汀(いたさのおはま)に降り到った。(日本書紀)
「記紀」の天降り伝説はほとんどが高天原からのようであるが、民間の伝承では、穂高見命が奥穂高岳(3,190メートル)に降臨したとか、饒速日命は天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降った、など普通には考えられないことが多いようだ。天磐船は隕石の落下を神話化したものという説もある。饒速日命も高天原から来たように言っているが、どう見ても「記紀」系の天降り神話は海洋民族の説話も加味されているのに対し、饒速日命系のそれは純粋な山岳民族の説話のようである。
*海の彼方の例では、
・少名毘古那は天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した。(「記紀」)
・亀の甲羅の上に乗って神武天皇一行に近づいて来た国神を、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。(「古事記})
・釣り針をなくして海辺で泣いていた山幸彦のもとに盬椎(しおつち)神が来た。(「記紀」)盬椎は「潮つ路」の意という。
・天日槍命や都怒我阿羅斯等の渡来伝説。(「記紀」)
海からの渡来者は朝鮮半島からの人が多いようであるが、中国から来た人もあったはずで、その話は抜け落ちているようである。民間伝承では沖縄の「ニライカナイ」が顕著な来訪神信仰となっているようである。

以上より判断するならば大国主神と大物主神は今日的な言葉で言うと面識はなかったようで、ハッタリを効かせた大物主神が大国主神を利用して自分の三輪国王としての地位を復活させた、と言うことではないか。「御諸(みもろ)の山の上に坐す神」と言うのも後世の山城(やまじろ)を連想させ、自己保存以外の何物でもないのではないか。

★大国主神と大物主神

この二神については諸説がある。

「古事記」
是時有光海依來之神 其神言 能治我前者 吾能共與相作成 若不然者國難成 爾大國主神曰 然者治奉之状奈何 答言 吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上 此者坐御諸山上神也
「日本書紀 卷第一 第八段 一書第六」
一書曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神  其子凡有一百八十一神
「日本書紀 卷第一 第八段 一書第六」
大己貴神問曰 然則汝是誰耶 對曰 吾是汝之幸魂奇魂也 大己貴神曰 唯然 廼知 汝是吾之幸魂奇魂 今欲何處住耶 對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故即營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也

「古事記」では二神の関係は解らないが、「日本書紀」では「大國主神 亦名大物主神」とか「吾(大物主神)是汝(大国主神)之幸魂奇魂也」とか言って、二神は同一の神である、と言うもののようである。
おそらく、当時の政治形態にあっては祭政一致が原則であったかと思う。一人の人が祭(神主・巫覡)と政(王)とを兼務していた。そこいらの様子は「日本書紀」神功紀に詳しいが、神功皇后は成功者なのであろうが、一般に両天秤をかけて成功する人はどれほどいるか。どちらかに代行者を置いて本人(神)は得意の分野に専一したのではないか。天皇家では神主・巫覡の方に代行者を置いたのではないか。従って、天皇家の<まつりごと>とは<政>であって、祭祀の方は中臣とか度会とか忌部などが担当したのではないか。
大国主神と大物主神は名前からも大国主(多くの国の王。古代では大と多の区別はなかったらしい)と大物主(物は精霊を意味し、大いなる精霊)と解すれば、大国主は政、大物主は祭を司っていたと思われる。常識的に言って、出雲が「政」で大和が「祭」というのはおかしいような気もする。これでは倭(日本)の統一は葦原中国即ち出雲(大国主神)が行い、大和(神武天皇あるいは大物主神)はそれをかすめ取ったと言うことなのだろうか。「国譲り神話」ではそのようになっている。あるいは、大和では神武天皇が政を司る王で、大物主神は巫覡だったのか。大物主の神徳としては三輪山を領く(うしはく)蛇体で、古代における蛇神は水の神であり、農業の守護神であった。即ち、豊作を保障する作神であった。換言すれば、大物主神は稲作りに精を出し、神武天皇は稲を盗まれないよう警固していたと言うことか。

★まとめ

大国主神と大物主神の説話を見ていると出雲の説話と大和の説話が混合したような感じで、神武天皇の皇后を見ても「古事記」では大物主神の女(比売多多良伊須気余理比売)と言い、「日本書紀」一書では事代主命の女(姫踏鞴五十鈴媛命)と言う。大物主神を「日本書紀」の一書のように「大國主神 亦名大物主神」と言ってしまえば、神武天皇の皇后は大国主神の子か孫かは不明ではあるが大和が出雲を併呑したと言うことなのだろう。神武天皇の皇后の名にはいずれにも「タタラ」の文字が入っているので多数説は製鉄が盛んだった出雲国出身と解しているようである。「タタラ」と言えば何でも「製鉄」に結びつけるのはいかがなものかとは思うが、一応、我が国の通説的見解はそのようになっている。「古事記」に倭建命が故郷を偲んで歌ったとして、「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」とある。「タタラ」は「たたな」とは関係がないのか。比売多多良伊須気余理比売も姫踏鞴五十鈴媛命も奈良盆地の秀麗さを言ったもので鉄とは関係ないのではないか。それに、「伊須気」とか「五十鈴」とかの「スケ」「スズ」は円錐形をした稲積型の山を言うと言う見解もある。大国主神、大物主神、神武天皇がいつ頃の人かは解らないが、大和に出雲の鉄が大量に入ってきたと言うような話は聞いたことがない。
以上より結論を出せば「海を光(てら)して依(よ)り來る神」の話とは飛鳥時代から奈良時代の宮廷官僚の倭国草創期における和雲一体化説話を脚色したものなのであろう。

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