河内神社のこと

★はじめに

河内・川内などの名がつく神社は現在では西日本に見受けられるが、いわゆる「延喜式神名帳」にはほとんどない。具体例を列挙してみると、

河内國魂神社(カフチクニタマ) 摂津国莵原郡
大川内神社(オホカハチ) 伊勢国度会郡
小川内神社(ヲカハチ) 伊勢国安濃郡
芽原川内神社(ハキハラノ・・) 遠江国周知郡
川内多々奴比神社2座(カフチタヽヌヒ) 丹波国多紀郡

が記載されている。
河内・川内の読みはまちまちであるが、「カワウチ」「カワチ」「コウチ」が多いようである。おそらく奈良時代頃までは「カフチ」というのが標準語的な読みであったようだ。また、漢字表記も河内とするものは神戸市の河内国魂神社のみでほかは川内となっている。さらに、開化天皇の妃に「古事記」では「又娶川内之若子比賣」となっているのに「日本書紀」には「前庶妃大河内稚子媛」となっており、同一人物を表記したと思われるのに異なった氏名(うじのな)がついている。おそらく、「川内」が本来の表記で、「大河内」は、後世、和銅6年(713年)に「畿内七道諸国郡郷着好字」(「好字令」)が発せられて以降のことではないかと思われる。「古事記」(和銅5年<712年>編纂)と「日本書紀」(養老4年<720年>編纂)のわずかな奏上の年の違いが上記の結果になったものと考える。
ところで、河内、川内などの地名は北は青森から南は鹿児島まで(沖縄県中頭郡西原町幸地の語源は河内か)全国まんべんなくあるのに、神社の数はさほどでもない。調査の仕方がたりないと言われればそれまでだが、やや西日本に偏った神社名であろうかとも思われる。西日本に偏在と言えばすぐに水田稲作との結びつきを説く人がいるが、上記「式内社」等の祭神等を検討してみる。

★河内神社、川内神社は何の御利益があったのか

1.河内國魂神社(カフチクニタマ) 摂津国莵原郡
現在は神戸市灘区国玉通にあるが、元々の神社名を五毛天神、五毛天神社と言い、失礼ながら本当の河内國魂神社は東灘区御影にある綱敷天満神社か、と言う説も有力だ。祭神は大己貴命・少彦名命・菅原道真公で、菅原道真公は後世に追加されたものという。一般には、河内国の国魂を祀る神社と解されているようだが、祭神は河内国とは関係のない神々で、また、祭主という凡河内氏の氏神とされる天津彦根命や、その児とされる天御影命は祀られていない。兵庫県姫路市にある広峯神社の社家の広峯氏は凡河内躬恒の子孫であるという。凡河内躬恒がどこの出身(おそらく現在の京都市か。「新撰姓氏録」では凡河内氏は摂津国に二家、河内国に一家がある)であるかは解らないが、凡河内氏一族が摂津国や播磨国に勢力範囲を広げていたことは想像に難くない。凡河内の氏名も今ひとつはっきりせず、おそらく河内直が本筋で、凡河内直はその分家筋ではないのか。九河内と書いて「オコウチ」と読む例もある。九河内とは小河内のことか。凡河内の凡の字も凡人とか、凡庸とか、平凡とか何一ついいことはない。凡を「おおし」と読むには何か違和感がある。あるいは、九河内(小河内)と書くべきところを凡河内と誤記したか。河内の意味を後述するように加不知即ち堤防とするならば淀川を挟んで右岸の摂津国三島郡と左岸の河内国茨田郡に同族あるいは別氏の凡河内氏がいたか。凡河内氏とは築堤業者であったのではないか。畿内には河内・川内の地名は河内国河内郡しかなく河内郡内の神社には河内(川内)神社というのは存在しない。但し、丹波国多紀郡河内郷(現・兵庫県篠山市)があり、摂津国や播磨国の凡河内氏は丹波の出身か。祭神の大己貴命・少彦名命の御利益は一般的に言われるところの「大己貴命は慈愛の心篤く、福徳円満、縁結びの神として、少彦名命は酒造、医薬の祖神として七徳兼備と称えられ広く尊崇されています」とある。要するに、河内國魂神なんてどこかへ吹っ飛んでしまっている。従って、当神社が凡河内氏と関係があるかは大いに疑問ではある。

2.大川内神社(オホカハチ) 伊勢国度会郡
大川内神社は現在は豊受大神宮摂社の大河内神社「大山祇神」(三重県伊勢市辻久留町1丁目)になっている。祭神の大山祗神(おおやまづみのかみ)は堤防の守護神と言う。『神名帳考証再論』では「水霊」、『神宮典略』では「水の神にもあらんか」と記載する。付近を流れる宮川の洪水から地域を守る堤防の守護神として祀られた由。御利益として堤防の神として高波、海上交通、水運。本来の山の神としては、火防や登山安全をあげる向きもある。事実とすれば、「日本国語大辞典 第二版 第三巻 小学館」p.908第一段から抜粋すると、

【かばち(輔、頷など)】加波知
1.頬骨からおとがいにかけての骨格
2.車などの両側につける枠で、荷の落ちるのを防ぐもの「享和本・新撰字鏡」(898~901頃)「輔 車乃加波知」、「十巻本和名抄」(934頃)「頤(本来は<盍に頁>) 文字集略云<盍に頁><古盍反 加波知> 語源説「カホフチ(顔縁)の約カフチの転じたものか(大言海)など。
従来は清音「かはち」と言っていたが、「かまち」という語が存在し、バ・マの交替形として、あるいは方言との関連から「かばち」であったと思われる。

【かまち(框)】 かまち(輔)と同語源。

1.物の外枠の木。多く、戸、障子、などの建具の枠木を言い、転じて一般的に物の枠についても言う。
2.玄関の上がり口、床の間、縁側など、床の面の端を隠すための化粧横木。店框、上がり框など。

以上より判断するならば、大川内の川内(かはち、辞書の執筆者は「かばち」という)は川などの水があふれないように作られた自然もしくは人工の堤防で、読みも「カフチ」(自然地形から出た言葉であろう。前述の「大言海」の語源説も参照)と「カハチ」しかなかったと思われる。現在主流の「コウチ」とかその前身の「カウチ」は後世(鎌倉時代か)になってからの読みかと思う。

3.小川内神社(ヲカハチ) 伊勢国安濃郡
小川内神社は現在三重県津市芸濃町河内2553にあり、祭神は天穂日命である。但し、 式内社の小川内神社とする説がある、と言うだけで詳細は不明とするのが一般的である。1908年(明治41年)、河内にあった諸社を合祀したため、主神のほかたくさんの神々が祀られている。御利益も不明。大川内神社との対比で小堤防の守護神か。

4.芽原川内神社(ハキハラノ・・) 遠江国周知郡
読みはおそらく「ハキハラノカハチノ」かと思う。現在の論社としては山住(やまずみ)神社が有力である。同社は709年(和銅2年)元明天皇の御代、伊予国越知郡大山祇神社より遷祭したと言い、祭神は大山祇神で、伊勢国の大川内神社に似ている。山住神社は静岡県浜松市天竜区水窪町山住にあり、山犬(狼)信仰の神社と言う。山犬(狼)は、農作物を荒らす猪や鹿を退治する益獣であり、焼畑の作物の守り神とあり、その後、悪霊除け、猿除けへと拡大した。山住と言うためか天竜川とは少しばかり離れている。一説に静岡県周智郡森町大鳥居・八幡宮(祭神誉田別命)を比定する説がある。太田川の中州にあって川内の地名には近い。それに、山住神社の場合芽原(苅原と書く古文書もある)と言いながら山の上とはおかしい。

5.川内多々奴比神社2座(カフチタヽヌヒ) 丹波国多紀郡
川内は丹波国多紀郡河内郷に由来すると言い、多々奴比(たたぬひ)は楯縫(たてぬい)のことかという。延喜式に「丹波国楯縫氏造之」とある。祭神は天照皇大御神、建速素盞嗚命と言う。現在は兵庫県篠山市下板井に鎮座。楯縫氏とは主に幕を作る工人のグループで、元來の祭神は楯縫氏の祖神の彦狭知命であつたと思われる。おそらく、神(陣)幕の生産がなくなり楯縫グループは雲散霧消して、残された村民が楯縫の漢字が書くのに難しく「多々奴比」としたものか。川内と言うのが地名とともに存在するので当時の官に認められた確かな神社なのだろう。御利益は祭神が彦狭知命の場合は子孫繁栄かと思う。天照皇大御神、建速素盞嗚命の場合は農業、武運を始め何でもと言う感じである。二座とあるのも意味不明で本来は河内国魂神社の項にあるべきところを誤記したものか。

★まとめ

河内・川内の地名は読みを「カフチ」「カハチ」として、堤防の意味かと思う。川は水のあるところ全般を指し、必ずしも水の流れるところばかりを言うのではないようだ。従って、川の両岸は言うに及ばず、湖や池沼の縁もカフチないしカハチという。
河内・川内の名がつく延喜式神名帳神社で地名に準拠した神社名は少ないようだ。これに対して、現存している延喜式神社以外の河内ないし川内神社は地名からとられたものもある。例えば、河内と言う地域にそれまでは河内神社はなかったが、過疎化のため地域の神社全部を合祀し、神社名を河内神社としたなどがあげられる。おおむね、河内ないし川内の地名はそこに住んでおられる方には失礼ながら山間部の辺鄙な地域に多いようだ。小川内神社を参拝した人が「どうしてこんな不便なところに神社を建てたのだろう」という感想をもらしているブログがあった。但し、河内が山間部にあることから河内の語義を「山間部にある小平地を言う」とし、我が国の水田稲作はそこから始まったという見解もある。もっと細かく、源流部の小平地を言うという見解もある。河内と言う地名と水田稲作が結びつくかは解らないが、河内という地名が青森県から鹿児島県まで水田稲作の地にあるのであながち否定はできないかもしれない。
凡河内直が河内国、和泉国、摂津国の国造だったと言うが根拠不明。こんな大伴氏と物部氏が盤踞したような地域を支配しながら国政に参加しないと言うことはどういうことなのだろう。一応、「日本書紀」で凡河内氏の関係地名を拾ってみると、
雄略紀「九年春二月甲子朔、遣凡河內直香賜與采女・・・遂於三嶋郡藍原、執而斬焉」 関連地名【摂津国三嶋郡藍原】
安閑紀「元年閏十二月己卯朔壬午、行幸於三嶋・・・蓋三嶋竹村屯倉者、以河內縣部曲爲田部之元於是乎起」 関連地名【摂津国三嶋郡竹村屯倉】及び【河內縣】
これを見ると後世の摂津国三島郡に勢力があって、河內縣も支配していたようだ。しかし、河內縣はどこにあったかは不明。三島郡にあっては三島縣主より上席であったのかどうか。河內縣では縣主であったかもしれないが、三島縣では三島縣主の下位に位置する中小豪族ではなかったのか。元々居たところは河內縣で三島縣へは大伴金村の引きなどで来たのかもしれない。河內縣は後世の河内国河内郡(河内湖に面していたか)と解する向きが多いかもしれないが、おそらく淀川流域か河内国魂神社がある摂津国菟原郡界隈ではないか。令制国造の凡河内氏(凡河内忌寸石麻呂)は凡河内直香賜とか凡河内直味張とは血縁関係がなく、現在の神戸市(摂津国菟原郡)出身の人ではないか。

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