凡河内氏考

★はじめに

先日、とあるQ&Aを見ていたら凡河内氏は河内国、和泉国、摂津国を支配した国造(中小国造を統括する国造)で、古代の畿内の有力豪族という。凡河内躬恒以外はあまり聞いたことがなく、どういうことなのだろうと調べてみたところ、学者先生の中にも古代の有力豪族と解している人は多いようだ。
一応、凡河内の意味については後世の河内国、和泉国、摂津国を合体した国のことと言う見解が多いようだ。中には吉田東伍博士のように「明治二十九年若江渋川河内高安大県丹北六郷を合併して中河内郡と為す。・・・古の凡川内国なり」とする見解もある。明治時代の中河内郡の郡役所は現在の八尾市にあったようであるが、古代にあっては現在の藤井寺市国府(こう)あたりであったかともいう。しかし、この凡河内が多数説の言うように地名ないし特定の地域を言うものかははなはだ疑問である。そもそも、凡河内氏というのが三系統あるというのも地名とするならやや持っておかしい。三系統とは 1.天津彦根命の後裔 2.天穂日命の後裔 3.渡来系氏族、と言うものである。但し、「新撰姓氏録」には1.2.のみで3.はない。また、その発祥の地も 1.河内国志紀郡(大阪府藤井寺市) 2.摂津国菟原郡(神戸市灘区国玉通三丁目、河内国魂神社<式内社>) 3.務古(武庫)水門(神戸市兵庫区。大輪田泊か)の三カ所が挙げられている。中には河内国志紀郡が本貫地で、ほかは支流という見解もあるが、凡河内氏の系統が三系統あるということと矛盾しないか。
「凡」の意味についても諸説ありはっきりしない。「古事記伝」(本居宣長著)には 1.大小対比の義 2.恩智(おんぢ)と同語で、地名を冠せられた称号。但し、恩智の地名は、「阿智」(あち)が訛ったもの、との説あり 3.押し統ぶる義で、河内の諸郡の統領を言う、などを列挙している。ほかには、河内国の古名は凡河内と言った、凡は大・大押しとも称し統率するという意、凡は美称で大の代用字などがある。一応、1.の大小対比の義については大河内、小河内の地名があり、すんなりと受け入れられる説だ。2.の恩智(おんぢ・おち)と凡(おほし)は同語と言われても発音が違うのでは。それに、恩智(おんぢ・おち)は「落ち」の転訛語で地滑りで表土が落ちた土地を言うか。3.押し統ぶる義については凡は大押しとも書かれるので押し統ぶるの義があるか。

★凡直、凡河内直

凡氏が歴史に現れるのは六世紀の継体天皇妃目子郎女の兄・凡連ではないか。(又娶尾張連等之祖凡連之妹 目子郎女生御子 廣國押建金日命 次建小廣國押楯命)おそらく、凡の本来の文字(漢字)は「大」で、継体天皇やその妃の出身地である尾張国や越前国では「大」に代えて「凡」の文字が使われていたのではないか。有り体に言うと「大」の誤用かと思われるが、継体朝の勢力拡大とともに「凡」の使用例は増えていったようである。
「凡」のつく氏の名を持つ人は尾張国から豊前国あたりまでが多いようである。しかし、これは記録が残っているだけの話で、実際の分布状態は不明としか言い様がない。
「凡」の文字を使用した理由は 1.あまり役に立たない中小国造を廃し、大きな領地で生産性を上げるため大型国造にし、その国造を「凡」とした。 2.今まで国造がいなかった地域に新たに国造を置き、旧国造との区別のため「凡」の文字を用いた、等の説がある。
凡氏のカバネはおおむね「連」「直」で、「直」が多い。
氏の名にも偏りが見られ(単に資料が残っているだけのことと思うが)、凡直と書くのは四国に多く、凡海、凡海部、凡人部は尾張国に多く、凡河(川)内は畿内に多く、凡治部は出雲国に多い。但し、「人部」とか「治部」とかは律令制の用語で元々の「凡」とは関係がない言葉とも思われる。凡治部は品遅部(ほむちべ)と読む人が多いが、品遅部は垂仁天皇皇子誉津別(ほむつわけ)命のための子代と思われ、もう少し検討が必要か。
凡氏が出てきた時代背景には、継体天皇の践祚には内憂外患が伴い、内にあっては天皇の即位を認めない豪族たちがあったと思われ、外にあっては朝鮮半島の百済と新羅の争いが日本にも波及していた。日本国の掌握もままならなかった継体天皇はせめて国内の先兵とも言うべき国造の黒白をはっきりさせようと「凡」氏は天皇側、それ以外は反天皇側としたのであろう。一説に、「この制度は、六世紀に始まり、対朝鮮に対する軍事的緊張関係からその海路を大和政権の大王が確保するために設けられたと考えられている。従って、その分布は安芸・淡路・讃岐・土佐・伊予・阿波などの諸国に認められる」という。お説ごもっともで、継体天皇の対朝鮮政策の意志が読み取れる。それに反対した最有力国造が吉備国の国造だったのだろう。上記国名には吉備氏の勢力が強かったと思われる吉備国や播磨国は出てこない。吉備氏は「魏志倭人伝」の邪馬台国の時代から大和朝廷の朝鮮半島政策には批判的だったようで、いつも倭軍の行く手を阻んでいる。継体天皇も雄略天皇の顰(ひそ)みにならい大伴氏の勢力下にあった四国航路を選択したのであろう。

凡河内氏については、地名+凡直、あるいは、凡+地名+直の氏の名を持つ国造が河内・周防・淡路・讃岐・紀伊などにある。いずれも朝鮮半島への航路の安全を担う忠臣なのであろう。特に、著名なのは凡河内氏である。一般的な表記では大河内で「大」あるいは「凡」は美称か。それを除くと河内国の国造と言うことか。当時の河内国は後世の河内国と和泉国をあわせたものか。和泉国は霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみのげん)が建てられたことによる。一応、凡河内の意味については、多数説は後世の河内国、和泉国、摂津国を合したものと言うが、少数説としては当時の河内国(河内国と和泉国)という見解や中にはさらに絞り込んで後世の中河内郡とする見解もある。多数説は摂津国も含むが、摂津国菟原郡に河内国魂神社(現・神戸市灘区国玉通三丁目)があるからといって河内国に摂津国を含めるのには冷ややかな見解もある。
そもそも「河内」の読みないし意味については、「和名抄」では「加不知」の訓がついており、「欽明紀」二年秋七月に「百濟本記云、加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都等。」とある。要するに、河内の読みは「カフチ」であって、「カウチ」ではない。しかし、世の中にはあきらめの悪い人がいるもので、河内は「加波宇知」で波宇を切めたる也、と言い、川に囲まれた内側と言わんばかりだ。現今の例では大阪市の中之島とか福岡市の中洲のようなところなのだろうか。もっとも、当時の河内国には河内湖がありその中に浮かぶ中の島があったのかもしれない。ここでは「カフチ」を正として、「河縁(かわふち)」と解し、河岸段丘の上の部分の平野(平らな部分)を言ったのではないか。そんなところはどこにでもあり、河内国魂神社と言ったからと言って国名の河内国を意味したかははなはだ疑問である。また、凡河内氏は河内、川内と名乗った渡来系氏族を統率した氏族と解する向きもあり、河内国とは関係ないのかもしれない。
それに凡河内氏は三流があるといっても、そのうち二流は後世で言うお取り潰しにあったのではないか。即ち、

雄略紀「九年春二月甲子朔 遣凡河内直香賜與采女 祠胸方神 香賜既至壇所 【香賜 此云舸拕夫】 及將行事 奸其采女 天皇聞之曰 祠神祈福 可不愼歟 乃遣難波日鷹吉士將誅之 時香賜退逃亡不在 天皇復遣弓削連豐穗 普求國郡縣 遂於三嶋郡藍原 執而斬焉」と

安閑紀「元年秋七月辛巳朔 詔曰 皇后雖體同天子 而内外之名殊隔 亦可以充屯倉之地 式樹椒庭 後代遺迹 廼差勅使 簡擇良田 勅使奉勅 宣於大河内直味張 【更名黒梭】 曰 今汝宜奉進膏腴雌雉田 味張忽然悋惜 欺誑勅使曰 此田者 天旱難漑 水潦易浸 費功極多 収獲甚少 勅使依言 服命無隱 ○冬十月庚戌朔甲子 天皇勅大伴大連金村曰 朕納四妻 至今無嗣 萬歳之後 朕名絶矣 大伴伯父 今作何計 毎念於玆 憂慮何已 大伴大連金村奏曰 亦臣所憂也 夫我國家之王天下者 不論有嗣無嗣 要須因物爲名 請爲皇后次妃 建立屯倉之地 使留後代 令顯前迹(以下略)○閏十二月己卯朔壬午 行幸於三嶋 大伴大連金村從焉 天皇使大伴大連 問良田於縣主飯粒 縣主飯粒 慶悦無限 謹敬盡誠 仍奉獻上御野・下御野・上桑原・下桑原 并竹村之地 凡合肆拾町(以下略) 今汝味張 率土幽微百姓 忽爾奉惜王地 輕背使乎宣旨 味張自今以後 勿預郡司 於是 縣主飯粒喜懼交懷 廼以其子鳥樹獻大連 爲僮竪焉 於是 大河内直味張 恐畏永悔 伏地汗流 啓大連曰 愚蒙百姓 罪當萬死 伏願 毎郡 以钁丁春時五百丁 秋時五百丁 奉獻天皇 子孫不絶 藉此祈生 永爲鑒戒 別以狭井田六町 賂大伴大連 蓋三嶋竹村屯倉者 以河内縣部曲爲田部之元 於是乎起」

安閑紀の引用が長々となって申し訳ないが、いずれの説話も最後には摂津国三島郡が舞台となっており、同時期の話か少なくとも雄略紀の話は論外でおそらく継体天皇の説話ではなかったか。内容的には河内国から摂津国へ勢力拡大を図ろうとする凡河内氏を天皇と大伴大連金村が押し戻したか。大河内直味張は凡河内直香賜のように殺害はされなかったが、郡司職は解かれたのではないか。残る一流は河内国魂神社の神主となり、律令時代の摂津国造となったのではないか。凡河内忌寸石麻呂の名が「続日本紀」にでている。これら凡河内とか大河内というのは一種の官名で本名が別にあったのではないか。即ち、河内国志紀郡を本貫としていた凡河内氏は本名は「志貴氏」とか、摂津国菟原郡を本拠にしていた凡河内氏は「河内氏」とか、務古(武庫)水門を本貫としていた凡河内氏は「猪名氏」とか言ったのではないか。その後、この氏からは対外交渉に活躍した人もいたらしい。(大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待。大河内直矢伏 舒明天皇四年唐国の使い高表仁らを客館に案内)また、八世紀には摂津国の律令国造や同国河辺郡の郡司にも任命された。(摂津国造:凡河内忌寸石麻呂、河辺郡郡司:擬〔ぎ〕少領(臨時の少領)凡川内直、主帳として凡川内直指人)

★まとめ

凡河内氏が在住していた河内国とか摂津国は言わずとしれた物部氏や大伴氏の本貫の地で物部氏や大伴氏の族長が現今で言う本社勤務となり大和国(奈良県)へ移住したら箍(たが)が緩んでしまったようだ。そこで何天皇かは解らないが、しっかりした管理者に統治させるよう指示をして、物部氏か大伴氏かは解らない(物部氏か)がその推薦のもと凡河内氏が河内国の国造になったのではないか。凡河内氏が摂津国に食指を伸ばしたのも当時にあっては摂津国は経済成長も著しく裕福な国であったからではないか。無論、凡(おおし)族なので親継体天皇派と言うことなのだろう。従って、凡河内氏は継体天皇の朝鮮派兵(近江毛野が六万の大軍を率いて出兵)にも参加したことと思われる。「味張忽然悋惜」と言っているのも味張が単に吝嗇と言うだけでなく、朝鮮出兵で出費がかさみ台所が火の車だったのではないか。なお、「先代旧事本紀巻十・国造本紀」に「凡河內國造.今河內國.橿原朝御世,以彥己曾保理命,為凡河內國造」とあるのは、いわゆる、眉唾物であろう。おそらく、凡河内氏が歴史の表舞台に登場するのは継体朝の頃かと思う。

凡直は大国造の家柄に与えられた氏姓と考えられ、周辺の諸国造を統轄する地位にあった、と言う見解もあるが、おそらく継体朝の時に出現した制度なので、それまでの応神・仁徳派のグループに対し継体天皇擁護グループかとも思われる。ただ、その分布が安芸、淡路、讃岐、土佐、伊予、阿波などの諸国に認められるというので対朝鮮航路の確保と言っても吉備氏の山陽道沿いは除いて大伴氏ゆかりの四国(南海道)にその航路を求めたのではないか。現在記録に残るものはほとんどが律令制以降のもので四国の凡直には郡の大領が散見するので古くは国造であったのであろう。少数派と思われる凡直系がどれほど継体王朝を擁護できたかは不明であるが、案外、旧来の物部、大伴のバックアップが大きかったのかもしれない。宣化天皇が蘇我稲目を大臣に抜擢したことが継体朝の命取りになったのかも。

(追記)

凡河内氏は天武天皇の時代に凡河内直から凡河内連へ、さらに凡河内忌寸へ改賜姓されたのであるが、人事というものは入社十年で課長に昇格するとか言う自動的なものもあるかもしれないが、一般的には何らかの功績等により昇進や昇格が行われるのが普通だ。そうしてみると、凡河内氏の天武朝における二階級の昇進は天武天皇にとっては何らかの論功行賞に値する事績があったというべきであろう。衢で言われるのは「壬申の乱」の功績かとも思うが、それを見ると凡河内氏が歴史の表舞台に台頭したのは天武朝で雄略朝の「香賜」の説話とか、安閑朝の「味張」の伝承は後世(天武朝)の創作ではないか。そもそも、香賜の伝承も味張の説話も後世に残せるような内容ではない。一歩譲っても、継体天皇即位に際し、越前国から大和国にやって来た天皇のため今で言う「お手許金」として大伴金村が天皇に自分の勢力下にあった摂津国三島郡を差し出したのではないか。その管理者として天皇が河内国に縁故があったようなので(例、河内馬飼首荒籠、河内国樟葉宮で即位など)、河内国の国造(河内直といったか)を氏の名を天皇の秘書にふさわしい仰々しいものにして大(凡)河内直と名付け、三島郡の管理を行わせたのではないか。

河内国は古くは河内国、和泉国、摂津国をあわせたものという説が有力だが、その理由として、「古事記」が畿内の国名として、倭(大和)・川内(河内)・山代(山背・山城)を挙げるだけ、と言い、「日本書紀」では応神四十一年二月条・舒明三年九月条に「津国」として見えるが、この津とは難波津や武庫津などの国家的な重要性を持つ港津を言うと言うもので、明確に摂津国として現れるのは壬申の乱後の天武朝である、と。もし、それを言うなら、今の兵庫県に属する摂津国は丹波国に属していたと思われ、大阪市に属していた摂津国は河内国であったのではないか。おそらく、大伴氏という双方に勢力のあった豪族がいたから現・兵庫県と現・大阪市が一つの国にされたものと思われる。

河内国魂神社が摂津国菟原郡にあるから摂津国が河内国の一部だったという見解もある。これは、国名を冠する国魂神社は一般にその冠する国名内の、しかも国造の本拠地の近くに置かれるのを通例としている、と言う。しかし、この河内国魂神社は河内神社と国魂神社の合成神社名ではないか。河内国の国魂神社ではない。河内神社は現今で言う外交官の河内直(加不至費直)一族の氏神神社で国魂神社は摂津国か菟原郡かは解らないがいずれかの国魂神社なのであろう。河内神社は信者も安定していただろうが、国魂神社は信者がやや大げさに言うと雲散霧消して管理する人もいなくなったので河内神社に合祀したのであろう。以上より判断するなら凡河内氏は摂津国とは何の関係もなく、せいぜい継体天皇のために三島郡を管理していたかもしれないがそれも安閑天皇の時代に解任されてしまった。また、河内国の国造ではあったかもしれないが天武天皇に抜擢されるまでは鳴かず飛ばずだったのではないか。

 

 

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中