古代の池は何のために作られたのか

★はじめに

古代(ここでは主として有史以前の縄文、弥生、古墳時代を言う)の天皇は池を作ることによってその権力を示そうとしているのか、「記紀」ともに多くの天皇の事績として築池を記している。例として、
「古事記」
(崇神天皇) 作依網池 亦作輕之酒折池也。(垂仁天皇) 印色入日子命者作血沼池 又作狹山池 又作日下之高津池。(景行天皇) 又作坂手池 即竹植其堤也。(応神天皇) 作劍池 亦新羅人參渡來 是以建内宿禰命引率 爲渡之堤池而作百濟池。(仁徳天皇) 又役秦人作茨田堤及茨田三宅 又作丸迩池 依網池 又堀難波之堀江而通海 又堀小椅江 又定墨江之津。
「日本書紀」
(崇神天皇) 六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔曰 農天下之大本也 民所恃以生也 今河内狹山埴田水少 是以 其國百姓怠於農事 其多開池溝 以寛民業 ○冬十月 造依網池 ○十一月 作苅坂池 反折池。(垂仁天皇) 卅五年秋九月 遣五十瓊敷命于河内國 作高石池 茅渟池 ○冬十月 作倭狹城池及迹見池 ◎是歳 令諸國 多開池溝 數八百之 以農爲事 因是 百姓富寛 天下大平也。(景行天皇) 五十七年秋九月 造坂手池 即竹蒔其堤上。(応神天皇) 七年秋九月 高麗人・百濟人・任那人・新羅人 並來朝 時命武内宿禰 領諸韓人等作池 因以 名池號韓人池。十一年冬十月 作劔池・輕池・鹿垣池・廐坂池。(仁徳天皇) 十三年秋九月 始立茨田屯倉 因定舂米部 ○冬十月 造和珥池 ◎是月 築横野堤。(履中天皇) 二年春正月丙午朔己酉 十一月 作磐余池。(推古天皇) 十五年 是歲冬、於倭國作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池、山背國掘大溝於栗隈、且河內國作戸苅池・依網池、亦毎國置屯倉。

以上、「古事記」では築池の目的は記されていないが、「日本書紀」では崇神天皇六十二年条で<農業灌漑用(特に、河内狹山)>と記され、「同紀」垂仁天皇卅五年是歳条でも<農業灌漑用>と記されている。そのほかに、「古事記」「日本書紀」で池の用途としては、
「古事記」
古事記 中巻 伊久米伊理毘古伊佐知命 坐師木玉垣宮 治天下也
故率遊其御子之状者 在於尾張之相津二俣榲作二俣小舟而 持上來以 浮倭之市師池 輕池 率遊其御子
故、其の御子を率(い)て遊びし状(かたち)は、尾張の相津(あいづ)に在る二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣小舟(ふたまたおぶね)に作りて持ち上り來て、倭(やまと)の市師(いちし)の池・輕の池に浮け、其の御子を率て遊びき。

「日本書紀」
日本書紀 巻第七 景行天皇
四年春二月甲寅朔甲子 鯉魚浮池 朝夕臨視而戯遊 時弟媛欲見其鯉魚遊 而密來臨池 天皇則留而通之 爰弟媛以爲 夫婦之道 古今逹則也
鯉魚(こひ)を池に浮(はな)ちて、 朝夕に臨視(みそなは)して戯遊(あそび)たまふ。 時に弟媛、其の鯉魚の遊(あそ)ぶを見(み)むと欲(おもほ)して

日本書紀 巻第八 仲哀天皇
元年春正月庚寅朔庚子 是以 冀獲白鳥 養之於陵域之池 因以 覩其鳥欲慰顧情 則令諸國 俾貢白鳥
冀(ねが)はくは、白鳥を獲(え)て、陵域(みささぎのめぐり)の池(いけ)に養(か)はむ。
八年春正月己卯朔壬午 惶懼之 忽作魚沼・鳥池 悉聚魚鳥 皇后看是魚鳥之遊 而忿心稍解
惶(お)ぢ懼(かしこま)りて、忽(たちまち)に魚沼・鳥池を作りて、悉(ふつく)に魚鳥を聚(あつ)む。皇后、是の魚鳥の遊(あそび)を看(みそなは)して、忿(いかり)の心、稍(やうやく)に解(と)けぬ。

日本書紀 巻第十二 履中天皇
三年冬十一月丙寅朔辛未 天皇泛兩枝船于磐余市磯池 與皇妃各分乘而遊宴
天皇、兩枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯池(いはれのいちしのいけ)に泛(うか)べたまふ。 皇妃(みめ)と各(おのおの)分(わか)ち乘(の)りて遊宴(あそ)びたまふ。

以上を見てみると、崇神・垂仁の両天皇の条では勇ましくも「農業灌漑用池」となっているが、ほかは「船遊び」とか「観賞魚の飼養」とか、果ては神功皇后のご機嫌直しのために池が作られているようだ。かろうじて、仲哀天皇が父君の日本武尊の遺徳を偲ぶため古墳の周壕に白鳥を飼いたいと言ったのが目立つ程度である。今の人は「灌漑」「灌漑」と声高に叫ぶが、当時の上層部の人はそれほど農業に真剣味がなかったような気がする。

★「池」の語源は

現在のほとんどの学説は「池」は水田稲作のために人工的に作られた溜池と解しているようである。従って、池を作るためには周りに水田適地がなければならず、その水田に水を十分に供給できない川面より高いところにある土地とか、河川はあっても水量が乏しい中小河川がほとんどで水の需要をまかなえない平地などに築池される。しかし、溜池は何も人工的に作るばかりでなく、自然に水たまりができて大きくなったものもあるという。例として、埴安池・巨椋池・湖山池などを挙げる見解がある。埴安池・巨椋池は干拓等により今はない。それ故、池とは池になる前の湿地をも言うのではないかという見解もある。
池の語源の多数説は「魚を生かせておくもの」と言い、「生き(イキ)」が「池(イケ)」に転訛したものかとも思われるが、『日本語源 大辞典』(前田富棋監修・小学館)p.113では異なった趣旨を説いている。それによると、
「地名におけるイケの分布が西日本に偏在し、それらが稲作関係の地名や普及範囲とも重なることから、イケは必ずしも養魚に限らず、人が生く(生きる)ためのもの、あるいは水を生かせて(涸らさないで)おくものとも考えられる」と。言わんとすることは、池は水田稲作と関係し、養魚には関係のない言葉であり、人が生き、水を生かすものであると解するようである。西日本に池の地名が多いのも、用水の便が悪い地域として讃岐、大和、摂津、河内、和泉、播磨など西日本の中枢の国がいつも挙げられている。今も水利がよくないのではないか。当然、これらの国には池が多く「池」のつく地名があってもおかしくはない。上述の「記紀」の記事を見る限り、大和国の池は農業用水や工業用水を得るために築池したとは思われない。天皇は御子や皇妃を喜ばすために船遊びや魚釣りなどを専らとしたのではないか。
池に似た言葉に「井(ゐ)」ないし「井戸(ゐど)」という言葉がある。 こちらは生活用水(水道用水)が主用途かとも思われるが、規模が大きくなると農業用水にも使われたようである。一般的には、井戸とは地下水を汲めるように地面に掘った竪穴を連想するが、自然井戸もあり、泉や河川のほとりに流れを利用して貯水場を作り、集落の飲料水とした。それを大規模にしたものが江戸時代の神田上水や玉川上水である。しかし、人工的に地面を掘り、板を使って周囲の壁とした方形や円形の竪穴井戸もすでに弥生時代前期からあるという。遺跡の最古のものは奈良県磯城郡唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡で、長さ2m、径80cmばかりの丸太が井戸側として垂直に埋められていた。ほかにも藤井寺市の国府遺跡で弥生前期の「井戸状の落ち込みを確認」とあるが、確かなものではない。また、大阪市東住吉区瓜破遺跡には古墳時代のくりぬき丸太で作られた井戸があった。
「井」は「池」よりも人間の生活に密着しているので一説に「井は古くは<掘井戸>だけでなく、<水のある場所>すべてを表し、<川>と同じ意味で使われた。その一つの痕跡として<川をせき止めた場所、その施設>を今でも堰(ゐせき)と呼ぶ」(「古代地名語源辞典」楠原祐介等編、p.335)と言う。「記紀」に築池されたと書かれている池はほぼ河内国(後の和泉国を含む)と大和国に限定されており、大和朝廷は両国が水田稲作適地と目論んだのかもしれないが、そんな大がかりな池を作ってまで稲作をする意味があったのであろうか。特に、河内国と大和国には井戸の掘削技術も早くからあったようでそれと池との組み合わせはどういう意味を持ったのだろうか。

★まとめ

今でも旧播磨国や旧河内国、旧和泉国の近刊の地図を眺めていると池の形をした図形がたくさん見られる。旧大和国の場合は古墳かなと思われるものが多いが、地図を見ただけならどうしてあんな不便なところに水田を作るのだろう、とか、溜池は今でも役に立っているのか、とか、その種のことが頭をよぎる。記紀では狭山池と依網池が草創期の溜池として出てくるが、しかし、それが崇神天皇や垂仁天皇の頃にできたかは問題があり、ほとんどの人がそれらの構築年代を後世のものとしているようだ。記紀編纂の頃の畿内の穀倉は河内国であったのであろうか。後世のことではあるが江戸時代の狭山池や依網池近隣の石高を見てみると幕府領や旗本領などが交錯し断定はできないが、それでも狭山藩は一万石、丹南藩も一万石と小藩ばかりである。そういうところに、無数の水田灌漑用溜池なんて考えづらい。
ほとんどの学説は依網池は農業灌漑のために造ったというが、同池周辺の利用状況を「記紀」で見てみると、
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇
皇極天皇元年五月乙卯朔己未、於河內國依網屯倉前、召翹岐等、令觀射獵。
くらいなもので、あるいは、依網屯倉は天皇の狩猟場(後世的に言うと<鷹場>)で依網池は今で言う河口湿地や干潟の類いで、鳥類等をおびき寄せる施設ではなかったか。即ち、「日本書紀 巻十一 仁徳天皇四十三年秋九月庚子朔、依網屯倉阿弭古、捕異鳥」と言うのは、鷹が依網池にやって来て休息をしていたところを阿弭古が網で捕らえたと言うことなのだろう。灌漑池というのは後世(奈良時代以降か)の話であって築池当初は天皇の狩猟施設であったのではないか。
ところで、唐突であるが「魏志倭人伝」には「其死有棺無槨封土作冢」とある。土壙墓あるいは墳丘墓を言ったものであろうが、庶民の墓なら掘った土を埋め戻して終わりかもしれないが、集落の長の墓ともなると冢と言うからにはある程度の高さを持った、例えば、出雲国の四隅突出型墳丘墓ほどのものになるのではないか。その場合、盛り土用の土が必要でどこからか持って来ることとなる。持って行かれた方は整地でもしない限り大きな穴ができ、放っておくと水たまりになる。古墳でも同じことで周壕のない古墳はどこからか土を持ってくるようになる。「池」の地名が稲作関係の地名や普及範囲とも重なる、と言われるが、近畿地方はまた古墳密集地であり、その盛り土用の土の需要も高かったものと思われる。今、水田稲作には必要以上にある溜池は多くは農業用水のためではなく古墳築造をはじめとする何らかの土木工事の痕跡ではないのか。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中