五十瓊敷入彦命

★はじめに

五十瓊敷入彦命は垂仁天皇と日葉酢媛命の第一子で第二子の大足彦忍代別命(景行天皇)が皇位を望んだので天皇の位に就けた。
「日本書紀」巻六
卅年春正月己未朔甲子 天皇詔五十瓊敷命 大足彦尊曰 汝等各言情願之物也 兄王諮 欲得弓矢 弟王諮 欲得皇位 於是 天皇詔之曰 各宜隨情 則弓矢賜五十瓊敷命 仍詔大足彦尊曰 汝必繼朕位
欲のない人と言ってしまえばそれまでだが、その後はなにやら武内宿禰と同じような働きをしている。
五十瓊敷(いにしき)の意味だが、おそらく漢字で書くと伊敷と思われるが、この発音は当時にあっては「イシキ」と「イニシキ」の二通りがあったのであろう。今でも一色を「イシキ」と読む場合と「イッシキ」と読む場合がある。別の例では、服を織る職業の機織部(ハタオリベ)を「推定での変化はハトリベ、ハトリ、ハットリ」という説もある。ところで、「日本歴史大辞典(あ~う)」(河出書房新社、1979年刊)p.407の「いにしきじんじゃ(伊邇色神社)」の項に石田修一という先生が「・・・伊邇色は稲屋敷(いなやしき)、稲屋代(いなやしろ)で、皇子の名も逆にここより出たものか。この社を俗称年宮・年宮明神というのもこの証たるべく、八六〇(貞観二)年三月薩摩国正六以上伊爾色神授従五位下(三代実録)とあり・・・」と言うがいかがなものか。年宮の「年」は一般的に「実り(みのり)」を表すと言うが、祭神としては大年神である場合が多く、「記紀」には五十瓊敷入彦命と稲にまつわる話はまったくない。それに、伊邇色神社は鹿児島市下伊敷と言うところにあり、地名と神社名が一致している。もっとも、一色(いしき)の語源は居敷、今の屋敷を意味すると言う説もあるが、居敷は居屋敷の中略と思われ、そんなに古い言葉ではないようだ。屋敷は宅地(東寺百合文書延久三年<1071>)→宅地・建物(源平盛衰記<鎌倉時代>)→近世の武家邸宅に変化している。創建年代は不詳なるも平安時代前期には存在しており、古社ではあるが、前記貞観二年の「三代実録」に載っている枚聞(ひらきき)神社(開聞岳が神体山)や加紫久利(かしくり)神社(矢筈嶽が神体山)とは異なり伊邇色神社は延喜式神名帳に登載されていない。やはり何か薩摩国(鹿児島県)とは縁の薄い神社ではないのか。「伊邇色神社の由来」書きには「旧社号を歳之宮というのは、蝗(いなご)の害があるときにはこの神に祈ればたちどころに蝗は壊滅し、とか、伊邇色神社の名称は日本でただ一社のみです」というのも、大和朝廷の南下政策に伴い建てられたものか、あるいは、地名が先行していて伊敷の地に同じ語の伊邇色(伊敷)神社が建てられ、祭神に五十瓊敷入彦命を持ってきたか。従って、伊邇色神社の創建は奈良時代のことと思われる。
五十瓊敷の語源についても伊敷として、イ・シキとするのかイシ・キとするのかによって意味が異なるようだ。とは言え、「シキ」のつく地名は九州にもおおいようで、例えば「和名抄」では、肥後国天草郡志記郷(熊本県天草郡苓北町志岐)、ほかには熊本県葦北郡芦北町佐敷とか、鹿児島市伊敷町、沖縄県南城市佐敷とか、沖縄県糸満市伊敷とか、長崎県東彼杵郡川棚町石木郷(鎌倉時代からの地名か)とか、佐賀県小城市三日月町石木(石木ヶ里で建長元年<1249>の文書に見える)とかがある。「シキ」は朝鮮語で「城、砦」の意味という説がある。それ故、九州に多い地名というのだろうが、共通祖語から出た言葉か。

★五十瓊敷ないし伊敷とはどういう意味か

前述したように五十瓊敷ないし伊敷の解釈としては「イ・シキ」とするものか「イシ・キ」とするものかによって意味が分かれるようである。

「イ・シキ」とした場合、「イ」は接頭語と解され、本意は「シキ」にあるようで、その意味としては多数がある。主なものをあげると、

1.「頻(しき)る」は「重なる」の意味があり、「段丘」のことを言う。大和国磯城郡の城は乙類。頻るの「き」は甲類。甲乙の問題があるという。
2.石塁を言う。吉田東伍「増補大日本地名辞典」上方第二巻(p372)には以下のごとくある。
「又按ずるに磯城とは石塁の謂なり、工芸志料云、石をならべて垣を成す是を志貴という」と。このほかにも、一定の仕切られた場所をいう、という類いの説は多い。
3.古語スキ(鋤き、剥き)の転訛語で、削る、剥ぐの意から地滑り地を言う。
そのほかにも多数の説があるが割愛する。

「イシ・キ」とした場合、漢字で書くと「石城」となるのであろうか。

1.石の城を意味する。
2.石垣(いしかき)の「か」が脱落したもので石塁のことか。
3.「イシ」は石または磯の意味で、「キ」は接尾語、即ち、「岩のある場所」を言う。
他の諸説は割愛した。

以上より判断するならば、自然地形地名では「地滑り地」、人為的な地名では「石塁」がいいのではないかと思う。「魏志倭人伝」の「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」の描写に似ているのではないか。特に、城柵の語が石城に合致するような気がする。
ところで、「伊敷」「五十瓊敷」の地名だが、五十瓊敷入彦命が活躍したとされる大和国や河内国には見当たらない。せいぜいあるのは大和国の城上郡、城下郡と河内国の志紀郡・郷くらいなものである。変わったところでは、 岐阜市の伊奈波神社の社伝では五十瓊敷入彦命は現在の岐阜市の開拓神で、詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。換言すれば、五十瓊敷入彦命は美濃国の豪族であって垂仁天皇の皇子でもなければ大和国や河内国とは何の関係もないことになる。ちなみに、「日本書紀」に述べられている五十瓊敷入彦命の事績は、
垂仁天皇35年9月条
五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った。○冬十月 作倭狹城池及迹見池。池の大きさにもよるが二ヶ月間で河内と大和に四池も作れるものか。後述する劔池・輕池・鹿垣池・廐坂池を河内と大和に振り分けたものか。農閑期に築造したと言えばそれまでだが、築造月も9月と10月となっている。
垂仁天皇39年10月条
五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府阪南市の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮(奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した。
同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で河上という鍛冶に大刀1千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという。
この経歴から見ると、武内宿禰の以下の経歴に似ている。「日本書紀」から抜粋すると、
応神天皇
七年秋九月 高麗人・百濟人・任那人・新羅人 並來朝 時命武内宿禰 領諸韓人等作池 因以 名池號韓人池
十一年冬十月 作劔池・輕池・鹿垣池・廐坂池
池を造ったというのは同じで、大刀1千口を造らせたというのは五十瓊敷入彦命にはあって、武内宿禰にはない。二人は実在があやふやなところがあり、いろいろな説話を継ぎ接ぎして人物像を作成したのかもしれないが、その虚像はどのようにしてできたのであろうか。

★五十瓊敷入彦命の実像は

五十瓊敷入彦命は垂仁天皇と日葉酢媛命の第一子として生まれているのに、垂仁天皇の後継者は景行天皇になっている。当時は親子相続ではなく兄弟相続だったという説もあるが、一般的に兄の方が弟より経験等において勝っており兄を後継者と指名するのではないか。応神天皇のように末子(菟道稚郎子皇子)を可愛い、可愛いで後継者にするのは農業国家へ歩み始めた日本では問題外の行動ではないのか。五十瓊敷にせよ忍代(景行天皇の諱)にせよ大和国とは関係のない地名のようで二人は垂仁天皇とは血縁のない後継者で、垂仁天皇にとってはどちらが天皇になってもかまわないと言うスタンスだったのではないか。結局、やる気のある景行天皇を後継者にしたと言うことかと思われる。
五十瓊敷入彦命の事績としては第一に農業振興のため池溝(うなて)を開削したことと第二に武器として大刀千口を作らせ当時の武器庫である石上神宮に保管したことである。後世の言葉で言う富国強兵策そのものであるが、岐阜市の伊奈波神社由緒書には「御鎮座は、景行天皇十四年、命の偉徳を偲び武内宿禰をして椿原の地(今の岐阜公園丸山の地)に鎮斎せしめ給うたのが始まり」と言い、五十瓊敷入彦命と武内宿禰のかすかな関係を垣間見ることができる。
五十瓊敷入彦命は伊奈波神社(岐阜県)や伊邇色神社(鹿児島県)に伝わる断片的な説話では景行天皇や日本武尊と同じように全国遠征へ出かけたようである。しかし、「記紀」を見ていると何か五十瓊敷入彦命の奈良盆地南下と紀ノ川を遡上して奈良盆地に入ってきた集団の争いがあったと思われる。そこで、双方の検討をしてみると、
五十瓊敷入彦命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)にいたことになっているが、これは宇陀(現・宇陀市一帯)河上宮(現・奈良県吉野郡)を言ったものではないか。この河上に剣ないし大刀千口を作れるほどの鍛冶場があったかははなはだ疑問ではあるが、大和国対紀伊国戦でそのくらいの武器の準備が必要だったと言うことなのだろう。
一方、武内宿禰は紀伊国の出身と言い、同地の豪族としては「紀臣」氏と「紀直」氏がある。武内宿禰もそのいずれかの氏の出身と思われるが、諸説あるも私見では両氏の本拠地は紀臣氏が紀ノ川右岸、紀直氏が紀ノ川左岸ではなかったかと思われる。両氏の奥津城は紀臣氏が晒山(さらしやま)古墳群で紀直氏が岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)である。基幹産業は紀臣氏が吉野杉の伐採と紀ノ川河口における造船が主産業であり、紀直氏は和歌山平野における農業であったと思われる。当然のことながら、紀臣氏は現在の五條市(元・大和国宇智郡)から御所市や橿原市に進出し、大和国の豪族になったことは想像される。近時は武内宿禰は大和国宇智郡の出身という説も有力に主張されている。しかし、これも難しく、武内宿禰は「日本書紀」景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとしており、菟道はウチ(内)と読むのが正則かと思われ、やはり武内宿禰は紀伊国出身と考えるのが一般的かとも思う。
大和朝廷(五十瓊敷入彦命)と紀伊国(紀臣氏と紀直氏)の紛争も大和朝廷の勝利となり、具体的には勝手に人の木(吉野杉)を持って行くな、と言うことになったのではないか。

★宇度墓は五十瓊敷入彦命の墓か

宮内庁は大阪府泉南郡岬町淡輪にある宇度墓(うどのはか)を五十瓊敷入彦命の墓と治定している。但し、同墓の推定築造年代は5世紀後半と推定されている。五十瓊敷入彦命の墓について記紀に記載はない。「延喜式」諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」と言う。「延喜式」は後世のもので何を根拠にこういうことを言うのかは解らないが、おそらく五十瓊敷入彦命が実在したとすれば4世紀頃の人と思われ推定築造年代とのずれがあると思われる。また、上述した岐阜市の伊奈波神社の社伝では「臣下の讒奏のため、朝敵として攻められて同地で討たれた」と言い、妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)が同地に墓を建てたらしい。しかし、これも失礼ながらにわかに信じがたい話で作り話の域を出ない話ではないのか。もっとも、当時の朝廷のトップは景行天皇であり、天皇と五十瓊敷入彦命は「日本書紀」巻六 「卅年春正月己未朔甲子の条」で景行天皇は皇位を、五十瓊敷入彦命は弓矢(武器)を所望したので、二人はなにやらはじめから内々に対立していたのかもしれない。しかし、「日本書紀」巻六 「八十七年春二月丁亥朔辛卯 五十瓊敷命 謂妹大中姫曰 我老也 不能掌神寶」と言っておられるところを見ると五十瓊敷入彦命は晩年は石上神宮にいたのではないか。従って、大和国で亡くなられた人の墓をわざわざ河内国(後の和泉国)に築造することはないと思う。おそらく、宇度墓とは石上神宮界隈にある古墳ではないのか。
ところで、紀小弓宿禰の墓を造ったという田身輪(たむわ)であるが、一般には大阪府泉南郡岬町淡輪と解されている。その意味するところは、「タム」は 1.古語「たわむ」で川が曲流するところ 2.田畝に囲まれた集落、と言い、「ワ」は 1.古語「わ」(回、廻、曲)で、丸く囲んでいるところ。周り、巡り。 2.山間部の蛇行する川沿いの内側の平地 3.平地、低地で周囲を土手に囲まれたところ(小川豊「危ない地名」)とある。これは菟砥川や男里川より紀ノ川が適しているのではないか。それに、一説によると墓地というものはこちらに五十瓊敷入彦命の墓、となりに紀小弓宿禰と言うような他氏族の墓が混在するような造り方はしないそうで、紀臣一族の墓なら紀臣氏一族が、五十瓊敷入彦命一族の墓なら同皇子の子孫の墓が造られているはずである。紀臣氏一族の墓の可能性が高いが、同氏の奥津城は晒山古墳群と言い、同古墳群は大谷古墳(私見では紀小弓宿禰の墓か)を含めて11基の古墳が築造され、そのうち大谷古墳を含めて5基が首長墓と目されている。築造年代は5世紀前半から6世紀後半で、首長墓は一号→五号→大谷古墳→二号→四号墳の順に築造されたらしい。それでは、淡輪古墳群の大型古墳は誰の墳墓かと言うことになる。現在の大阪府泉南郡岬町界隈には古墳や遺跡が多く、これを子細に見てみると、
5~6世紀に漁業や水運に関わった氏族の墓  磯山古墳群、みどり山古墳群
製塩遺跡  小島東遺跡 最古の製塩土器、製塩炉三基が五世紀前半、二基が同後半
とあり、これは古くより大伴氏の得意としていた分野ではなかったか。無論、両紀氏も海洋進出を果たしているようだが、大伴氏には一朝一夕の優位があったのではないか。
大伴氏と紀氏の勢力圏は京都大学名誉教授岸俊男博士によると「奈良・平安初期の諸資料を調査した結果、紀伊国名草郡、那賀郡で両氏の分布が重複する」という。
以上を考え合わせると、淡輪古墳群の大型古墳は大伴氏の墳墓とも考えられる。
一般には大伴氏の奥津城は今の帝塚山古墳のあるあたりと言い、昔はもっとたくさんの古墳があったところらしいが、寄る都市化の波には勝てず、今は帝塚山古墳だけになったようだ。そこで、淡輪古墳群の大型古墳の被葬者だが、大伴室屋大連(西陵古墳)、大伴連談(西小山古墳)、大伴金村大連(宇度墓)となるのではないか。室屋と金村は大連で天皇級の古墳であってもおかしくないし、談は遠征軍の一大将だったので大きさが違うのではないか。これらの古墳については、築造年代と被葬者の死亡時期や円筒埴輪の製作技法に木ノ本古墳群の技法が用いられていると言うことで綿密な検討が必要だ。

★まとめ

景行天皇の時代はやや大げさに言うと全国遠征した人が多く、例えば、景行天皇は関東から九州南部、日本武尊は東北から九州南部、武内宿禰は東北から九州北部、五十瓊敷入彦命は東北から九州南部(伊奈波神社と伊邇色神社の伝承による)など、「記紀」が主張する景行期が国家統一の時期だったのかもしれない。そこでは、外敵の蝦夷や熊襲との戦いのほか、身内同士の諍いが多かったのかもしれない。「古事記」中巻 景行天皇段「天皇既所以思吾死乎 何撃遣西方之惡人等而 返參上來之間 未經幾時 不賜軍衆 今更平遣東方十二道之惡人等 因此思惟 猶所思看吾既死焉 患泣罷時」と言うのも、景行天皇は「後生畏るべし」の言葉通り息子の日本武尊にまでコンプレックスを感じていたのではないか。都を長期不在にして寝首を掻かれたのでは元も子もなくなるので子や兄を外征に送り出したら、これまた有能で嫉妬の炎を燃やしているのだろうか。しかし、日本三代実録《卷四貞觀二年(八六〇)三月廿日庚午》○廿日庚午。・・・『薩摩國從五位上開聞神加從四位下。從五位下志奈毛神。白羽火雷神。智賀尾神。賀紫久利神。鹿兒嶋神並授從五位上。正六位上伊爾色神從五位下。』・・・とあるのは、伊爾色神は地主神(土地の開拓神)で伊敷の地名に由来する神か。五十瓊敷入彦命は妃はいたようだが、子供はいなかったようで「記紀」にはその子孫の様子は記されていない。一般的に、「記紀」の説話は子孫のいる人のその子孫が伝承してきた説話を元に書かれているのに、子孫と称する人のいない話は架空の話か、架空とまでは行かなくともほかの説話の転用とか、誰か(この場合は武内宿禰か)の説話の使い回しと思われる。

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