鳥取とは

★はじめに

「鳥取」は県名や県庁所在地名が「鳥取」となっている鳥取県や鳥取市が有名であるが、現在でもマイナーながらも市町村の町名や字名に残っている。地名としては古いものらしく、「和名抄」にも七カ国の郷名に残っている。即ち、河内国(河内国大県郡鳥取郷)・和泉国(和泉国日根郡鳥取郷)・因幡国(因幡国邑美郡鳥取郷)・越中国(越中国新川郡鳥取郷)・丹後国(丹後国竹野郡鳥取郷)・備前国(備前国赤坂郡鳥取郷)・肥後国(肥後国合志郡鳥取郷)である。すべて中部地方以西の西日本にあり、口の悪い人に言わせれば東日本には鳥(おそらく食鳥であろう)は居なかったのかと言うことになる。一方、鳥取氏に関しては、「新撰姓氏録」に以下の記載が見える。

右京/神別/天神/鳥取連/連/角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也/垂仁天皇皇子誉津別命。年向三十不言語。于時見飛鵠。問曰。此何物。爰天皇悦之。遣天湯河桁尋求。詣出雲国宇夜江。捕貢之。天皇大嘉。即賜姓鳥取連
山城国/神別/天神/鳥取連/連/天角己利命三世孫天湯河板挙命之後也
河内国/神別/天神/委文(しとり)宿祢/宿祢/角凝魂命之後也   (角凝魂命の子孫には織物業の人もいたらしい)
河内国/神別/天神/美努連/連/同神四世孫天湯川田奈命之後也   (美努<御野>は地名で美努連は古くからの在地豪族か)
河内国/神別/天神/鳥取/同神三世孫天湯河桁命之後也
和泉国/神別/天神/鳥取/角凝命三世孫天湯河桁命之後也
以上より地名と氏が結びつくのは河内国大県郡鳥取郷と鳥取氏(カバネなし)と和泉国日根郡鳥取郷と鳥取氏(カバネなし)の二例だけである。

そもそも、鳥取についての始原の話は、以下の垂仁天皇の説話に由来するらしい。

「日本書紀」巻第六垂仁天皇
「廿三年秋九月丙寅朔丁卯 詔群卿曰 譽津別王 是生年既卅 髯鬚八掬 猶泣如兒 常不言何由矣 因有司而議之 ○冬十月乙丑朔壬申 天皇立於大殿前 譽津別皇子侍之 時有鳴鵠 度大虚 皇子仰觀鵠曰 是何物耶 天皇則知皇子見鵠得言而喜之 詔左右曰 誰能捕是鳥獻之 於是 鳥取造祖天湯河板擧奏言 臣必捕而獻 即天皇勅湯河板擧 【板擧 此云詫儺】 曰 汝獻是鳥必敦賞矣 時湯河板擧遠望鵠飛之方 追尋詣出雲而捕獲 或曰 得于但馬國 ○十一月甲午朔乙未 湯河板擧獻鵠也 譽津別命弄是鵠 遂得言語 由是 以敦賞湯河板擧 則賜姓而曰鳥取造 因亦定鳥取部 鳥養部 譽津部」

ここでは「鳥取部(野鳥類を食用のため捕獲するものであろう)」と「鳥養部(鳥類を食用のため飼養するものであろう)」、および「誉津部(后妃が皇子・王子(誉津別王)を養育するため、壬生(乳父)(みぶ)としてその宮にあてられた、いわゆる湯沐(とうもく)料をさすものと思われ、子代にあたる、と言う)」が出てくる。あるいは、鳥取や鳥養の鳥は飼鳥で「主として観賞用および愛玩用の目的で人間に飼われている鳥類」を言うのかもしれない。この場合は主として網で捕獲するのであろう。誉津部と一緒に設立されているのでここの鳥は飼鳥かもしれない。従って、これらの部は誉津別王の薨去後は廃止あるいは縮小されたか。
ちなみに、「古事記」中巻にも「於是天皇因其御子定鳥取部 鳥甘部 品遲部 大湯坐 若湯坐」とあり、「日本書紀」が天湯河板擧への論功行賞で設置された趣があるのに対し、「古事記」では誉津別王のために設置された様子がうかがわれる。

★鳥取の意味は何なのだろう

「鳥取」の意味についても一様ではないようだ。以下、諸説を見てみると、

1.鳥類を捕獲すること、とするもの。鳥類にもいろいろあり、
a.白鳥に限定するもの。
b.白鳥と鶴とするもの。
c.鳥類全般とするもの。
などが散見する。
2.鳥取地名は鍛冶地名とするもの。
全国鳥取地名には必ずといっていいほど鍛冶遺跡があると言う。
3.古墳築造に関わるとするもの。
和泉国の鳥取氏は日根郡鳥取郷で古墳築造に関係したとするもの。
同郷には和泉石という石棺に適した石があり、また、
土師宿祢、土師連、山直、石津連、石作連、津守連などの名がある。
付近には大型古墳も存在する。淡輪古墳群など。
4.地形地名とすると、「トトリ」は、
「ト」は、a.峠 b.山の尾根 c.山、高地
「トリ」は、取るで浸食地。具体的には、崩壊地、地滑り地。
私見では山裾を流れる河川の浸食も言ったのではないか。
従って、「トトリ」の地名には山がなければならないが、鳥取市の場合、
鳥取郷は久松山麓一帯の平野部に推定されており、久松山でかって
地滑り等があったか。

以上をまとめてみると、やはり当初の鳥取、鳥養は鳥類の捕獲や飼養に関わった人々を言ったものではあろうが、長くは続かなかったようですぐに廃止ないし縮小されて当該部民は現代流に言う失業の憂き目にあい、周りにある職業に転職したのではないか。従って、2.の鍛冶工や3.古墳築造者は二次的な職業だったようで、鍛冶工は現代流に言うと金儲けができるとか、古墳築造は当時の国家的巨大産業で失業の恐れがないなどの理由で就いたものではないのか。
「鳥取郷」も「鳥取部」由来とは考えづらい。鳥取部とは1.中央にいる鳥取部の伴造のために物資を貢納する農業部民2.捕鳥部 万(ととりべのよろず)のように中央豪族の奴僕的性格の強い鳥取部民が考えられているが、1.の農業部民はそのような部民がいたかどうかであるが、実体は不明と言うほかはないと思う。木簡では、
藤原宮跡出土木簡に「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」  <付近に5世紀末からの遠所製鉄遺跡がある>
平城宮跡出土木簡に「丹後国竹野郡鳥取郷鳥[   」(平城宮跡出土木簡2-2205)
正倉院古裂の銘文に「丹後国竹野郡鳥取郷□(門カ)田里戸車部鯨調アシギヌ(絁)壱匹 長六丈 天平十一年十月」(寧遺下)
などがあるようだが、大贄布奈とか調絁(アシギヌ)とか言われても一般的な貢納品で鳥取郷の性格はわからないと思う。よって、鳥取郷とは地形地名と解した方がよいのではないか。

★まとめ

以上見てきたところでは、地名と氏が一体化しているのは、河内国大県郡鳥取郷と鳥取氏(カバネなし)と和泉国日根郡鳥取郷と鳥取氏(カバネなし)の二例である。河内国大県郡鳥取郷は、現在、天湯川田神社がある大阪府柏原市高井田界隈に比定されている。このあたりは応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳(惠我藻伏崗陵)に近く、鳥取氏は古市古墳群に関わりがあったのではないかとも思われる。また、和泉国日根郡鳥取郷もはっきりはしないが大阪府阪南市石田にある波太神社界隈に比定されている。こちらも大阪府泉南郡岬町の淡輪古墳群に近い。おそらくこちらの鳥取氏も古墳築造に関わっていたと思われる。
ところで、ジョニー・ボール著/山崎直美訳「目で見る数学 美しい数・形の世界」p.17に「数学なくして、ピラミッドが建設されることはなかったでしょう。」とある。一般に巨大建造物には数学の知識が必要だ、と言うことかと思うが、日本の縄文時代に北海道や東北地方で見られるロングハウス(特に、東北地方に顕著で、北陸地方にも分布と言う)についても単なる山勘で建造していたのでは地震や大雪があった時は簡単に倒壊し、甚大な人的、物的損害が出たことと思う。そこで、遺跡の中心が東北地方と言うことで中国の遼河文明の影響が大いに考えられるが、私見ではこの計数管理は六進法で行われた日本プロパーなものではないかと思っている。この六進法は後世の古墳の築造まで使用され、古墳時代に朝鮮半島から十進法が入ってきて取って代わられたのではないかと考える。中国は元々十進法の国であり、六進法とは無縁ではなかったかと思われる。
そこで、河内国の鳥取氏と和泉国の鳥取氏だが、朝鮮半島からやって来た人が十進法を説いたところいち早く賛意を表し武内大臣や六人部連に採用を進言したが、「余計なことを言うな」としかられて、今で言う「干されてしまった」のか。両氏ともカバネがない。
ちなみに、鳥取は本来は「十取」と書き、六人部も「六取部」と書くのが正当か。原意は「尺取り虫」とか「位取り」の取りと同じか。

ただし、河内国と和泉国の鳥取氏以外、といっても平安京と山城国の鳥取連であるが、この氏族は旧来の鳥類捕獲業者の子孫か。

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