古代のハカリ

★はじめに

日本の度量衡をはかる計量器に関しては現在では「差し(物差し)」、「枡(ます)」、「秤(はかり)」などと言うが、古代にあっては「差し」や「枡」と言う言葉はなくて「秤」だけだったようである。
「新撰姓氏録」 左京 皇別 商長(あきおさ)首の項に「三世孫久比。泊瀬部天皇[謚崇峻]御世。被遣呉国。雑宝物等献於天皇。其中有呉権。天皇勅此物也。久比奏曰。呉国以懸定万物。令為交易。其名云波賀理(はかり)」とあるのが文献初出らしい。もっとも、商長首久比が行ったのは呉国ではなく百済国という説もある。
ほかに「出雲国風土記」では、楯縫郡の冒頭に<所以號「楯縫」者。”神魂命” 詔、「五十足天日栖宮之縦横御量、千尋栲紲持而、百結結、八十結結下、六十結結下而、此天御量持而、所造天下大神之宮造奉」>とあり、最初の「御量(みはかり)」は動詞で、後の「天御量(あめのみはかり)」は規格も含めた計測器の総称か。具体的には、「縦横御量」とあるので今で言う巻尺のことか。
また、「古語拾遺」では、「令手置帆負彦狹知二神以天御量 【大小斤雜器等之名】 伐大峽小峽之材 而造瑞殿 【古語 美豆能美阿良可】とあり、天御量(あまつみはかり)とは【大小斤雜器等之名】と定義している。
以上の三件を考察するに、「秤(はかり)」は元々日本にはなくて外国(百済国か)から導入されたものかと思われる。「枡(ます)」は「大宝律令・養老律令」に「量、十合為升、三升為大升一升、十升為斗、十斗為石」とあり、単位の升と計量器の升を区別するため「枡」の字を当てたようである。これまた、米ばかりか液体等の測定に「枡」は必需品だったと思われるが、日本でのはっきりした出現過程は不明である。「養老律令」(特に、養老令第十賦役令)を見てももっぱら租税を徴収する道具として使われたようで、庶民とのつながりはどれほどだったか。なお、升とは元々は両手ですくった量に由来する身体尺と言う。これに対して、「差し(物差し)」は上記「出雲国風土記」に「千尋栲紲持而、百結結、八十結結下、六十結結下而、此天御量持而」とあるように、<「栲紲(たくなは)[縄]」は、「楮(こうぞ)などの皮でより合わせた縄」をいう。海女(あま)が海中にはいる際の命綱などとして用いられた>とあり、これだけでは一本の縄に単位あたりに他の細い縄を結んだものか、はたまた、一本の縄を単位あたりに結んで行ったものかはわからないが、一本の縄を百を最長として八十、六十と下げていったようだ。二十ずつ下げる意味がわからないが、長い縄をなうだけでも人手が必要と思われるので多くの人々の協力があって「差し(物差し)」は完成したようである。

★神殿、宮殿の建築

上記「古語拾遺」に「造瑞殿 【古語 美豆能美阿良可】」(みづのみあらかをつくる)とあり、「美阿良可」とは「万葉集」に「藤原がうへに 食す国を 見し給はむと 都宮(みあらか)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに」(1-50)と見え、ここでは「都宮」と表記されている。この例から見ると、ミアラカは天皇が国を支配する都宮として建てた皇居である、とする見解がある。国家的な神殿や宮殿は忌部氏が建築していたというのである。その元祖は手置帆負命(讃岐忌部氏の祖)と彦狭知命(紀伊忌部氏の祖)と言う。「古語拾遺」に「其(手置帆負命・彦狭知命)裔 今在紀伊國名草郡御木 麁香二郷・・採材齋部所居 謂之御木 造殿齋部所居 謂之麁香 是其証也」とあるが、西宮一民元皇學館大学学長によると忌部郷はあるが、御木 麁香二郷はないとのこと。忌部氏が神殿や宮殿を建築していたことも怪しくなってくる。斎部広成はしきりと神殿や宮殿の造営氏族を強調するが、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐等のおのおのの忌部は品部であって、部曲の忌部が大工仕事を行ったというのであろうか。古代の造営業者には猪名部氏があり、養老令「木工寮四部官」の頭(かみ)は特定の氏族に固定されているわけではない。特に、仏教が伝来してからは寺院建築等は帰化人とか渡来人と言われる人が行い在来の日本人は影が薄くなり、 大宝 二年(702)「大宝律令」の賦役令に、斐陀匠条(養老令第十賦役令三十九条斐陀国条)ができ、寺社や宮殿の造営の下請けにはこういう人たちが任命されたのであろう。忌部氏はせいぜい中臣氏とともに祭事の神主を務めていたのではないか。
ところで、神殿や宮殿の建築に必要な度量衡は度即ち長さだけで、量(容量)や衡(重量)は必要でなかったようである。日本固有の度量衡の単位として<ヒロ><アタ><ツカ>が広く喧伝されているが、これらは全部長さの単位で、ヒロ(尋)は成人男子が両手を左右へ広げた時の、指先から指先までの長さ、長さは一定しないが、曲尺でだいたい四尺五寸(約1.36m)から六尺(約1.8m)くらい。アタ(咫、尺)は親指と中指(一説に人差し指)とを広げた長さ。ツカ(束)は手でつかんだほどの長さ。即ち、指四本分(約二寸五分)の幅に当たる。おそらく、日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代を通じては秤(ハカリ)、枡(マス)はなかったのではないか。ハカリに代わるものとして「目分量」、マスに代わるものとして「土器」(縄文土器<円筒土器>、弥生土器<壺形土器>)が使われていたのではないか。
長さの基準にもいろいろある。具体的には、前漢尺、後漢尺、魏尺、晋尺、古韓尺などのモノサシがあったようである。日本には応神天皇の時代に朝鮮半島からたくさんの土木技師や作業員がやってきた。
「日本書紀」巻第十 応神天皇
七年秋九月 高麗人・百濟人・任那人・新羅人 並來朝 時命武内宿禰 領諸韓人等作池
十一年冬十月 作劔池・輕池・鹿垣池・廐坂池(前行の具体例か)
十四年春二月 百濟王貢縫衣工女 曰眞毛津 是今來目衣縫之始祖也 ◎是歳 弓月君自百濟來歸 因以奏之曰 臣領己國之人夫百廿縣而歸化(新羅が邪魔をしたと言うことで来朝は十六年八月)
いろいろな国の人がやって来ている。度量衡の基準にもいろいろあったのではないか。土木工事の総監督には武内宿禰があたっている。おそらく、上記では池の築造が多いが、古墳もマスタープランは武内宿禰およびその関係者が作成し、施工者の一部に朝鮮半島からやって来た技術者等がいたと言うことなのだろう。但し、武内宿禰についてはその実在を疑問視する向きもあり、一応、応神天皇が招聘した朝鮮半島の土木技術者等を指揮、監督した人はいたと言うことである。日本で使われていたモノサシは、律令時代以前では前漢尺、後漢尺(狩谷俊介説)、魏尺、晋尺(森浩一説)、古韓尺(新井宏説)などで研究者によってまちまちのようである。ほかに縄文尺(藤田富士夫説)もある。縄文尺は遼河文明から移入されたものか。同地域のY染色体ハプログループはハプログループNが71%の高頻度で認められたと言う。日本ではY-DNA Nは1.6%と言う説もあり、遼河地域と日本の東北地方に何らかの接点があったか。
以上より判断するならば、日本には旧石器時代より何らかの長さを測るモノサシのようなものがあったと推測されるが、現実には出土していない。おそらく、当時のモノサシは動物の角、骨、木などでできていたと思われるので酸化反応等により消滅してしまったか。

★秤(はかり)

秤は重量を量る計器であるが、古代東洋では天秤(てんびん)と竿秤(さおばかり)があった。いずれも中国が発祥地で天秤は周代に、竿秤は秦代に出現したという説もあるが、一般的には双方とも周代には普及していたと解されている。但し、中国の竿秤の出現は今ひとつはっきりせず、いつ頃つくられたかわからないという人もいる。西欧の竿秤はローマ時代に発明されたという。殷代に青銅が出現しているので天秤はすでに殷代にあったという説も有力か。天秤と竿秤の区別は明代で、我が国には明より伝わり実用化された、と言う見解もあり、諸説混沌としている。
天秤は権(けん)即ち分銅(ふんどう)と組にして用い、竿秤は錘(おもり)と組にして用いた。日本には上述の「新撰姓氏録」商長首の項に「三世孫久比。泊瀬部天皇[謚崇峻]御世。被遣呉国。雑宝物等献於天皇。其中有呉権。天皇勅此物也。久比奏曰。呉国以懸定万物。令為交易。其名云波賀理(はかり)」とあり、崇峻天皇の時代に導入されたものか。しかし、我が国はすでに「後漢書東夷伝」に「建武中元二年(西暦57年)倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬」などとあるので、秦や漢の時代にはすでに秤は導入されていたのではないかという見解もある。なお、久比が持ち帰った秤は竿秤の可能性が高い。久比は波賀理(はかり)と言う和語も使っているので崇峻天皇が知らなかっただけで、一般にはハカリはなにがしかの用途に使用されていたのかもしれない。
翻って、日本に関する記事が載っている中国の史書を見ると、たとえば、「魏志倭人伝」では、「又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤」とあって、「金八両」とか「真珠鉛丹各五十斤」とか重さの単位が書かれており、おそらく当時の倭(日本)にあっては両や斤は国の上層部の人々や外国(中国、朝鮮半島の国々など)と交易をしていた人々は理解をしていただろうが、一般庶民の方はどうかと言うことである。
そもそも、天秤は西欧においてはエジプトが起源のようで、紀元前5000年頃の墓の中から石の分銅とともに天秤竿が出土している。用途は薬の調合のために薬品をはかるというもので最小単位は0.7g程度であったという。現在の観念からしても精巧なものと考えられる。他方、東洋では殷代の中国において銅とスズの合金である青銅をつくるため銅・スズを一定割合にするため天秤を利用したという。薬にせよ合金にせよ日本に出現するのは中国より後と考えられ、天秤や竿秤が日本国内で使用されるようになったのは西暦元年後あたりからではないのか。石の加工にハカリが用いられたとは考えられない。後世、江戸時代においては天秤と分銅は両替屋にのみ使用が許されたという。おそらく、日本では先史、古代にあっては中国の例にならい金属の質量を量るのに用い、時代が下るに従って貴金属に限定されていったのではないか。江戸時代にあっては使う人も制限されているので、庶民には全く無縁のものであったと思われる。
竿秤については、中国の竿秤の出現は不明という見解もあり、あるいはローマから伝わったのかとも思われるが、西欧の竿秤は竿の部分が金属であるのに対し、日本、中国のは木、角、骨などを使い、やはり別個の発明かと思われる。天秤はたくさんの分銅を用意しなければならず、携帯には不便である。しかし、竿秤は一本のハカリ竿と一個の錘で広い範囲の質量が量れる利点がある。その利便性から日本でも早くから普及したのではないかと思われる。特に、商用には必要不可欠な道具ではなかったか。店舗を構えている商人は天秤でも問題はなかっただろうが、行商系の商人は分銅を持ち歩くのに難儀したことと思う。ハカリは公平性が要求されるものなので江戸時代には幕府の特別許可を得て、秤の製造、頒布、検定、修繕などを独占した座があった。江戸の秤座は守隨氏が、京都の秤座は神氏が支配した。そのため、ハカリの改良は認められなかった。天秤の製作は堺の職人により行われていたと言うが、過般、京都市中京区烏丸通御池角で我が国初の天秤を製造する工房跡が発見されたと言い、江戸時代に堺出身で中堀與一郎という針口師が住んでいたところという。この天秤に附属するマユ型の分銅は、江戸時代を通じて、分銅座制度として代々後藤四郎兵衛(世襲名)が所管していた。
ハカリはその性質上強い統制下にあったと思われるが、時代によってはいい加減なハカリも多かったようで、江戸時代でさえ画一化をいやがる大名もいたと言うことはどういうことなのだろう。

★枡(ます)

枡は体積をはかるための測定器であるが、日本における起源は定かではない。文献初出は延喜式(927)という。単位としての升は律令にもあったので実物は大化以前にあったと思われる。中国においては他の度量衡器と同じく周の時代に出現したのではないかと考えられている。米(こめ)が国家経済の基本単位になるとその体積を量る枡はごまかしの連続であったようだ。各時代を通して枡の規格はあったようだが、偽枡が横行していたようだ。無論、そんなことはいつの時代にあっても重罪であっただろうが、取締に効果はなかったようだ。枡の統一を図ろうとした人物、組織として織田信長、豊臣秀吉、江戸幕府があるが成果は上がらなかったようである。江戸時代に入り枡座を設立し、東日本33か国で使用される枡は樽屋が、西日本33か国と壱岐・対馬で使用される枡は京都の福井作左衛門が製作し、審査を通った枡に焼印を押していた。ほかに甲府にも枡座があったという。しかし、枡座はあまり機能しなかったらしく枡改め(枡の検定)もままならなかったようだ。枡の現物は大阪府松原市高見の里遺跡で出土した12世紀後半の平安末期と考えられるものが最古の桝と言う。同枡は油を量った枡らしい。
枡の用途としてはほかに、1.神に捧げる供物を入れる容器 2.節分の豆を入れる容器 3.枡底をたたいて子供や死者の霊魂を呼び戻す 4.穀霊を宿したり増殖させたりする 5.神霊をまねく呪具等にも使われたようである。「古事記」に「天の石屋の戸に于(う)氣(け)【此の二字は音を以ちてす】を伏せて、蹈み登(と)杼(ど)呂(ろ)許(こ)志(し)」とあるが、この場合の「于(う)氣(け)(桶)」は枡のことか。
以上より判断するならば、日本の枡は計量器ないし測定器としての正確性は横に置かれ、その中に入っている米とかの穀物や油とかの液体とかに実をおいていたようである。容量に関心があったのは税を取る役人とかごまかして得をしようという商人で、一般庶民は俵やカマスなどから適量を取り出す容器くらいに考えていたのではないか。

★まとめ

日本の広い意味(度量衡の測定器)でのハカリに関しては中国より感覚が鈍いようである。中国が早くから長さとか、質量とか、体積を量ることにこだわっているのに、日本ではその対象の物性にこだわっているようだ。木の長さを測るのならまず第一にその木の木霊と言おうか神霊と言おうかその種のものを問題にするようであり、木の長さを測るにもあるいは神事が伴っていたのかもしれない。遺物の最古のものも日本では奈良時代とか平安時代とか有史時代に入ってからのものであり、モノサシにしても中国が殷の後期(紀元前1046年滅亡)の出土と言い、日本は7世紀以後と言う。そもそも、中国では度量衡の定義を
周(紀元前1046年頃 – 紀元前256年)の時代にすでに行っている。その頃は日本なんて影も形もない、などと酷評する人もいるが、まあ、中国が日本(倭)を認識したのは今から3000年ほど前といい、周の時代ではないか。金文で『「度」とは、物の長短及び、その二次ベキ、三次ベキの面積体積は尺をもってこれを測り、名を度となす』と言っていて、今とほとんど変わらない定義づけである。以上を要約すると、
1.日本の先史・古代にあったハカリは物の長短を測る物差しだけである。しかも、中国のように二次冪、三次冪などの概念はない。
2.秤は周代の頃より日本に入ってきたと言う人もいるが、天秤、竿秤が実用となるのは古墳時代が始まる直前頃ではないのか。古墳の築造に秤が必要になったかもしれない。
3.枡も早くて弥生時代と同時頃で、日本(倭)人には測定器の枡よりも、その中の物が重要だったようである。すなわち、米とか油である。
日本の尺度に対する誤差の許容範囲は中国よりかなり寛容で、長さ以外は中国人にとってはあまり正確なものではなかったと思う。その長さの単位「尺」も中国にあってさえも時代によってまちまちなようである。

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