縄文尺と古墳

★はじめに

富山県の藤田富士夫先生が縄文時代の長さの単位である縄文尺を発見され、その発見でもすごいのに、単位の35cmが日本プロパーな単位である、と言うことになり、ますますすごいなあと思ったものである。しかし、その後の研究により、「岩田重雄さんという方は、中国の新石器時代の平均値が十七・四㎝で、これが日本へ入ってきて、このような尺度が生まれたのではないかと言っています・・・中国の新石器から殷にかけて、尺度が用いられているものだから、殷尺であろう」とか、「類似する平底円筒型土器が朝鮮半島北部からアムール川流域、ロシア沿海地方にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されているほか、同様の土器が縄文時代の日本の東北地方・北海道からも発見されている。円筒土器やけつ状耳飾りなどは三内丸山遺跡と類似する」と考古学的な裏付けを説く見解もある。特に、遼河文明の興隆窪文化<内モンゴル自治区赤峰市の敖漢旗(ごうかんき、アオハンき)・興隆窪集落>との類似性も指摘されているようだが、遼河文明を担った人たちはY-DNA Nの人が多く、日本にはY-DNA Nは極少数であり日本とは関係がないのではないかとも思われる。しかし、北海道縄文人は旅行が好きだったようで、何らかの形で沿海州などへ行って数の概念をマスターしてきたのかもしれない。ちなみに、Y-DNA Nの日本での頻度は1.6%と言う説がある。Y-DNA Nはウラル系諸族やヤクート人に多いと言う説もある。無論、日本も多民族国家なので全く無関係というわけではないだろうが、日本が導入したのは遼河文明が持つ都市計画とか大型建物の建造など現代の土木建築関係の技術が多く、すでに日本にあった土器や資源が少なかった遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)などの導入は行わなかったようである。あるいは、縄文尺の導入は、この計測単位(35cm)が東アジアに広く及んでいるという見解もあり、日本には遼河文明以前に入ってきていたのかもしれない。特に、細石器文化と同時に日本列島へ持ち込まれたことは十分に考えられる。そこで、まず、細石器文化と縄文尺を考察し、次いで、大陸の土木建築技術と縄文尺について考察しようと思う。

★細石器文化と縄文尺

35cmを1単位として長さを測る計測方法はインターネットで見ると東アジアでは広く行われていたと言う、一般投稿者の見解がある。また、上記、岩田重雄さんは日本計量史学会会長と思われ、先史時代からの計量に関する歴史を研究しておられたようである。その方が日本の縄文尺は殷尺と言っておられるので「お前ごとき素人が何を言うか」と言うことにでもなろうかと思うが、以下の引用文を参照してみてください。

「発掘された日本列島2003」(文化庁編、朝日新聞出版、p10)
「それら(細石刃・筆者注)はいずれも規格性が要求され、連続して剥離するためには、石核の形を入念に調整しなければならない」

「発掘された日本列島2011」(文化庁編、朝日新聞出版、p11)<青森県三沢市、五川目(6)遺跡>
「細石刃とは長さが2~3センチ程度で、カミソリの刃のように薄く、両縁が刃のようになる細長い形をしており、シカの角などに連続的にはめ込んだりなどして、槍やナイフのように用いたことが想定されています。後期旧石器時代後半の日本列島や、ユーラシア大陸でも共通して見つかる石器です」

「発掘された日本列島2014」(文化庁編、朝日新聞出版、p9)<北海道紋別郡遠軽町、白滝遺跡>
「(石刃について・筆者注)白滝遺跡では原石の入手がたやすいことから、大型のものが作られたようです。長さ45.9cmの世界最長級の石刃が出土しています。石槍は槍の先につけたり、動物を解体するなどナイフのような使い方をする石器です」

上記の三箇所の引用文を見ると、
1.「それら(細石刃)はいずれも規格性が要求される」と言うのは、当時にあっては数の概念があったとは言い切れないが、マスター細石刃があってそれを基準に同一基準の細石刃が作られていたと思われる。
2.「(細石刃は)後期旧石器時代後半の日本列島や、ユーラシア大陸でも共通して見つかる石器です」とあるのは、その頃は日本列島とユーラシア大陸が何らかの人的なつながりがあったと思われる。
3.細石刃の大きさについてであるが、日本列島、ユーラシア大陸双方ともだいたい同じで、長さは3cm以下、幅は0.5cm前後という。多くの資料を見ると長さは3cmくらいが多いようである。無論、まれに3cmより大きいものもあるが、3cmあたりに収束しているようである。

そこで、日本では「細石刃を装着した実例は知られていない」(湿地や酸性土壌で残らないのか)というので、私見の勝手な推測を述べると、「木や動物の骨の柄に溝を掘り、はめ込んで使用」とあるが、溝(両縁)は二条で双方に長さ6cmの細石刃を三個ずつはめ込んだのではないか。6cmの細石刃などは見たこともないと言われると思うが、上記に「白滝遺跡では原石の入手がたやすいことから、大型のものが作られたようです」とあるのは、何も「石刃」だけではなく「細石刃」でも同じだったのではないか。あるいは、白滝遺跡のように原石の採掘生産地域では今で言う「半製品」の形で消費地へ製品を送ったのではないか。ちなみに、五川目(6)遺跡の細石刃核(細石刃の一つ前の工程の石)の大きさは、
不定形 長さ4.3cm 幅3.2cm 厚さ1.5cm
舟底形 長さ5.4cm 幅7.0cm 厚さ3.8cm(北海道)
角錐形 長さ3.6cm 幅2.5cm 厚さ2.5cm(西南日本)
となっており、北海道の主力生産方式である舟底形は他の形の細石刃核より大型のようである。また、当時の狩の対象物が中型に移行したのも頻繁に替え刃の必要がなく、細石刃を大きくし、その代わり装着する刃の数を少なくして効率を上げたのではないか。よって、私見では日本では後期旧石器時代後半の細石刃には 1.大陸と日本では動物の生態系が異なること 2.最良の原材料とされる黒曜石が日本では豊富で大陸では乏しかったこと、 3.舟底形の細石刃核は他の細石刃核に比べ大きめで、細石刃の大きさに多様性を与えた、などから制度継受後すぐに現今で言う技術革新がはかられ、その場合の細石刃の長さは従来の倍の6cm、装着枚数は半分の両縁・計6枚となったのではないか。参考文献としては、

「北の黒曜石の道」(木村英明、新泉社、p32)
「細石刃は、長さ三~五センチ、幅五ミリほどの短冊形をした石器である」

「世界考古学事典 上」(下中邦彦編、平凡社、1979.2、p414)
藤本強東大名誉教授執筆、細石器の各種(原寸) 7.バックド・ブレードレットの挿絵は5.8cmほどである。

「黒曜石 3万年の旅」(堤 隆、NHKブックス、p73)
「原産地周辺に限らず、北海道全般に石器サイズが本州と比べて大きいのは、彼らが大形獣狩猟者であった何よりの証ではないか、とする見解がある」しかし、この見解には大形獣の活動期と細石刃の出回り期が異なるという見解もある。

稲田孝司博士も「遊動する旧石器人 先史日本を復元する」(稲田孝司、岩波書店)で述べておられるように、同じ細石刃と言っても当時の北海道旧石器人(舟底形細石刃核から細石刃を作成)と西南日本人(角錐形や角柱形の細石刃核から細石刃を作成)とでは庶民の生活レベルは大いに違ったと言うことである。北海道の方は石器の種類も多く専門家がパッと見ただけでどんな生活を送っていたかを連想できるが、西南日本の方は石器の種類が少なく専門家が、たりない部分を木器や骨器で補ってみてもはっきりとした生活イメージがわかないとのことである。

★縄文土木と古墳築造

北海道は七、八千年前までは寒冷ではあったが雪は降らなかったという見解がある。あるいは、あまり雪は降らなかったとか、日本海側には降った、などという見解もある。また、シベリアも草原地帯であったなどという人もいる。北海道が乾燥した草原地帯であったなら、住居は寒冷地対策を施せばいいだけで冬場の雪の荷重などは考える必要はない。何分にも旧石器時代の住居跡はなく「遊動する旧石器人」ばりに、春夏秋冬に住居を移動していたのかもしれない。また、獲物の動物も冬になれば温暖の地に移動したのでそれについて行ったのかもしれない。有名な三内丸山遺跡の六本柱建物も最近は縄文カレンダーなどという説も出てきて、建造物が大がかりの割には当時のカレンダーは春、夏、秋、冬がわかるだけのシンプルなものであったようだ。大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」にある旧石器時代の竪穴住居は我が国最古の住居跡と言い、後世の縄文時代の住居跡とはあまり変わらないようだ。
そこで、話は一足飛びに飛ぶが、細石刃のようにセンチメートル単位で物事を処理していた人が、住居などをどのようにして造ったのであろうか。後期旧石器時代後半のヨーロッパ・ロシア・シベリアの住居遺跡では地表を浅い皿状に掘りくぼめて、その上に獣骨や鹿角を組み合わせた骨組みをつくり、さらに皮革でおおってキャンプ生活を営んでいた、と言う。骨組みを経験や勘でばかり行っていたのでは家はつぶれる一方なので、6cmの細石刃を6個でワンセットとして長さを測りだしたと思われる旧石器人は、途中省略して6の冪(べき)で表示してみると、
6の一乗=6、6の二乗=36、6の三乗=216、6の四乗=1296、6の五乗=7776、6の六乗=46656、となり、著名古墳である「大仙陵古墳」と「誉田御廟山古墳」の数値は以下のようになっている。

大仙陵古墳の規模について、堺市の公式サイト。
規模の評価値
墳丘長486m(全国1位)
高さ35.8m(後円部)

誉田御廟山古墳の規模について、羽曳野市の公式サイト。
墳丘長:約425メートル
後円部直径:250メートル
後円部高さ:35メートル
前方部幅:300メートル
前方部高さ:36メートル

数値はほかにも発表されているが、我田引水になるかもしれないが、墓の検討としては前方後円墳の部分を比べてみるべきではないかと思い、墳丘長については、大仙陵の486mは6cmの六乗の466mに20m加算したものである。また、誉田御廟山陵426m(我田引水で約425mを426mにした)466mから40m減算したものである。墳丘の高さについてであるが、大仙陵は「高さ35.8m(後円部)」とあり、誉田御廟山陵は「後円部高さ:35メートル」「前方部高さ:36メートル」とあり、これも我田引水になるかもしれないが、墳丘の高さは両陵とも36mと見なしてよいのではないか。唐突になるが、両陵の墳丘長を差し引きすると 大仙陵(486m) ー 誉田御廟山陵(426m)=60mとなり、6cm×1000(10の三乗)と言うことである。基準値(466m)よりの加減は10進法を使う人が決めたものか。

★まとめ

古墳築造にはまず模型をつくり、それを築造予定地の横に置き、模型を拡大して築造すると言う説がある。この日本で一、二を争う巨大な二基の古墳がどのようにして造られたはわからないが、少なくとも土木技術においては日本の旧石器時代からの技術が用いられ、日本(倭国)の技術者(土師氏、伊福部氏など)の威信がかかっていたのではないか。そこに現れたのが20mとか40mとか言う何かメートル法を先取りしたような採寸法を持ち込んだ一団の人だった。彼らはおそらく朝鮮半島経由でやってきたのであるが、「韓国伝統の尺貫法は10進法を基本とする東洋的な度量衡体系」という人もいるらしいが、韓国の10進法はいつ頃始まったのか。おそらく東アジアの10進法は中国が源流で日本では古墳時代頃に導入されたのではないか。従って、古墳築造に従来の6進法と10進法が混在していてもおかしなことではなかったようだ。日本ではその後も6進法はしぶとく生き残ったようで、尺貫法では、1 間は 6 尺である。これなんかも急に現れたものではなく、旧石器時代からの長さの単位を踏襲したものであろう。そもそも、日本の尺貫法は10進法と6進法を混合したようなものだ。例、一寸3センチ、10×一寸=一尺30センチ、6×一尺=一間180センチ。
以上をまとめてみると、
1.旧石器時代からの長さの単位は35cmの人体尺ではなく、細石刃の長さの中央値である3cmからでたものか。無論、細石刃を取り替えるには同じ規格でなかったら意味をなさないので、原石供給地は地域差に対応するため半製品(細石刃核)で渡したのではないか。最終加工地では後世のメートル原器のようなものがありそれに合わせて最終調整したか。ものの基準を定めるのに人体などという不安定なものは日本人の体質に合わなかった。
2.尺貫法と言っても地域差があるが、日本の場合広域ネットワークと言おうか取引の単位に地域差をなくそうと努力したのか、国内はもとより海外の尺度も取り入れてものをはかっていたようである。10×一寸=一尺、6×一尺=一間はその最たるものだ。
3.日本に十進法が導入されたのは古墳時代からか。日本で自然発生したものではないようだ。日本に紹介したのは秦氏の前身の集団か。
4.日本では物差しの遺物が発見されていないと言うことだが、持ち運びに便利なように軽量の木竹材や縄が主流だったからか。
5.旧石器時代などの古い時代は日本と大陸との差はあまりなかったようで、同じような遺物が出てきてもどちらが先(起源)とは決められない。日本の方が先進国だったりすることがあるらしい。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中