敗れし安曇、斎部の両氏のその後はどうなったか

★はじめに

律令制が始まり朝廷の権力も絶頂期にあるかに見えたが、頂上は下りの始まりで、余剰官僚や不要制度は財政負担を招き国家は衰退し始めた。かかる事態にあっては、時の政府がとるべき手段としては 1.余剰人員の整理 2.実効性の乏しい制度の廃止、などが考えられる。ここでは、なぜか同位と言おうか同じ地位の人が二人(二氏)いる場合を検討する。現代的に言えば、日本国に外務大臣が二人とか、財務大臣が二人とかいるような類いの話である。
まず、天皇の食事(供御<くご>)の調理を担当する者として律令制以前は膳職(かしわでのつかさ・ぜんしき。膳臣が担当か)があり、大宝令により官人等の食事をつかさどる大膳職(だいぜんしき)と天皇の食事をつかさどる内膳司(ないぜんし)に分立した。おそらく、膳臣は律令制以前は膳職を独占していたと思われる。景行天皇の時代に始祖磐鹿六雁(いわかむつかり)が安房で堅魚(かつお)と白蛤(しろはまぐり)を調理献上し、その功により膳臣の賜姓にあずかり、膳大伴部(かしわでのおおともべ)という部民を与えられた、と言う。(「高橋氏文」逸文。原典は「日本書紀」(景行天皇53年10月条)で、それに諸々のつぎはぎをしたか)ところが、一説によると阿曇氏もいつの頃かはわからないが古くからの膳職であったという見解もある。一般には、膳臣は調理は上手であったが、素材調達に難があり、阿曇氏は調理の腕はまずまずだが、神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられたので海人族が当てられたか。言わば、両氏は補完関係にあったのかもしれない。そこで、律令制に移行した際、両氏の長所を取り入れるため二人長官としたものか。
一方、神祇の方であるが、私見では天武天皇により壬申の乱の論功行賞で伊勢神宮が国家神道の中枢となるまでは神社はおろか神官等においても正規の国家機関としては存在しなかったのではないか。一応、天孫降臨の際の五伴緒神の子孫が神祇官の骨子となるのかもしれないが、そのほかにも崇神天皇が招聘した大田田根子(大神神社)、景行天皇の皇子・稲背入彦命(兵主大社)、応神天皇(「日本書紀」では神功皇后となっている)の田裳見宿禰(住吉大社)や阿曇磯良(風浪宮、志賀海神社)等の各天皇のお抱え神主の子孫はどうなったのだろう、と言うことである。律令制以前では神祇官は「名負氏(なおいのうじ)」の世襲で、中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・楯縫(たてぬい)・神服(かむはとり)・倭文(しどり)・麻績(おみ)等の諸氏が務めていた。これが律令制以降はだんだん中臣・斎部に収束され、最後には中臣の独占となったらしい。

★高橋氏と阿曇氏

高橋氏と阿曇氏は律令制が成立する以前から膳職(かしわでのつかさ・ぜんしき)をつとめていたようで、律令制後も内膳司の奉膳(ぶぜん・長官)を世襲していたようである。内膳司の長官は高橋氏、阿曇氏の場合は「奉膳」と書き、その他の氏の場合は「正」と書き、いずれも「かみ」と読んだようである。元々は高橋氏と阿曇氏の独占職だったので「正」はなかったようだ。ところで、この場合の阿曇氏だが、本家本元の筑前国糟屋郡阿曇郷(現・福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町 あたりか)出身の阿曇氏か。阿曇氏が膳職に任ぜられたのも御贄(おにえ)には海産物が供えられその調達係だったためではないか。さすれば、奈良の都から遠路はるばる九州まで行って海産物を持ってくると言っても途中で傷んだりして現実的なことではないと思う。たとえば、高橋氏が「高橋氏はまた志摩守(しまのかみ)に任じられることが多かったのは、志摩国が御食国(みけつくに)(天皇に供御料(くごりょう)として海産物を納める国)であったからである」とあるように、阿曇氏も都に近いところに海人族を抱えて都に海産物を運ばなければならなかったのではないか。そこで、つらつら考えるに、それに該当する国の候補としては、摂津国、和泉国、紀伊国、若狭国が考えられ、特に、摂津国が一番条件的にはよいのではないかと思われる。そこで探してみると、摂津国に安曇江荘(あづみえのしょう)というところがあった。場所は難波江に注ぐ堀江川の川口(大阪市)にあった東大寺領の荘園。起源は天平勝宝四年(752)摂津職西生郡美努郷の双甲倉一宇を含む三町六段余りを、東大寺が銭百貫で安宿王から買得した。交易のための船津だったようだが、今で言う漁師がいたかもしれない。おそらく、ここいらから海産物を都へ運んだのではないか。但し、この安曇江は九州の阿曇氏が移り住んだところと言う説もあるが、古語「アツ」「アヅ」には「崖、崩落地」などの意味があり、安曇、渥美、熱海等の語がすべて海人族の移動地名とは限らない、と言う説もある。また、「日本書紀」には、履中天皇の時に、阿曇連浜子なる人物が住吉仲皇子の乱に加担して淡路の海人をひきいて皇太子を追うが、逆に捕らえられ処罰されたと言う記事がある。兎角、大阪湾沿岸は海人族の多いところらしく、特に、住吉大社は摂社に大海神社(祭神:豊玉彦命、豊玉姫命)、志賀神社(祭神:底津少童命、中津少童命、表津少童命)、船玉神社(祭神:天鳥船命、猿田彦神)、若宮八幡宮(祭神:応神天皇、武内宿禰とあるが元々は海神か)があり、海神のオンパレードのようだ。おそらく、衰退した海人の神社を住吉大社に合祀したものかと思われるが、そのほかに椎根津彦、塩土老翁を祀る神社もある。これらの神は漁業の神ではなく航海の神か。
ところが、高橋氏と阿曇氏は神事の際の行立の前後を争ってしばしば対立し、ついに延暦十年(791)十一月新嘗の日に奉膳安曇宿禰継成は高橋氏を先と定められたことを不満として詔旨に従わず退出したため、翌年三月佐渡に流され、以後安曇氏は内膳司における地位を失った。私見では持統天皇五年(691)十八氏に「墓記」の上進を命ぜられたが、その中の膳部氏と阿曇氏は膳職で、「日本書紀」応神天皇三年十一月条の阿曇連の祖大浜宿禰や白村江の戦いに出撃し戦死した阿曇連比羅夫は九州の人で膳職の阿曇氏とは直接関係がないのではないか。もっとも、阿曇比羅夫は本邸も奈良にあったようで九州の人がどうして奈良に自宅を持つのだ、と言われれば弱いのであるが。膳職の膳部氏も阿曇氏も元々は摂津国の人で大伴氏の徴兵あるいは推薦で炊事担当者として従軍していたのではないか。但し、奈良県橿原市膳夫町があり、膳部氏は元々奈良県出身ではないかという意見が出るだろう。一方、安曇氏は奈良県桜井市阿部の阿部が安曇の転訛という人もいるが信じがたい。

★中臣氏と斎部氏

両氏を顕著にしたのは天孫降臨の際の五伴緒神の随行の神話であるが、何か祭事関係氏族を後からとってつけたような話で元々中臣氏や斎部氏は国家建設の功労者としては影が薄く、記紀編纂の際に「俺たちも国家創建の功労者だ」などと言って台頭しつつあった中臣・藤原氏が斎部氏等を誘い「五伴緒神の随行神話」をねじ込んだのではないか。ちなみに、五伴緒とは天児屋命(中臣連の祖)、布刀玉命(忌部首の祖)、天宇受売命(猿女君の祖)、伊斯許理度売命(作鏡連の祖)、玉祖命(玉祖連の祖)を言い、天孫降臨にはほかに三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、天叢雲剣)と思金神、手力男神、天石門別神を持参および帯同した。五伴緒の子孫は名負氏として神官となっているが、後の三神(思金神、手力男神、天石門別神)には子孫がなかったのか、はたまた、祀る人がいなかったのか降臨してからの説話はほとんどない。「先代旧事本紀」では、思兼神は信濃国に降り立って信之阿智祝の祖になり、また、秩父国造の祖ともなったとしている。子に天表春命・天下春命がおり、栲幡千千姫命は思兼神の妹に当たる、と言う。「高橋氏文」逸文にも「知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の上祖天上腹(あまのうははら)、天下腹(あまのしたはら)人等を喚ばしめて」とあり、どうして天孫降臨の神(人)が景行天皇の時代に出てくるのか。
中臣氏は中央政界に打って出てくるのは藤原(中臣)鎌足が乙巳の変でクーデターの首謀者の一人となってからであり、それまでは何をしていたのかほとんどわからないのが実情と思われる。折口信夫博士は、斎部広成が「古語拾遺」で斎部氏が中臣氏より上位に立つことを説いたところ、「そんなことはない。中臣というのは「神」と「天皇」の中を取り持つと言う意味だ」と言って、中臣氏優位を説いたが、現今では中臣とは地名(一説に、京都市山科区中臣町付近と言う)と言うのが一般的でる。従って、中臣氏の歴史は645年の大化の改新に始まり、天武天皇10年(681年)3月17日に、「天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦中阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。大嶋・子首、親ら筆を執りて以て録す」と。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われるが、中臣氏の家伝もできていないと思われるのに国史編纂とは考えられない。上毛野君とか、忌部連とか、阿曇連とか、難波連とか、中臣連とか、平群臣とかは当時にあっては中級豪族だったか。ちなみに、藤氏家伝( とうしかでん)ができたのは天平宝字4年(760年)と言う。藤原鎌足から始まっている。
一方の斎部氏だが、これまたはっきりとしない一族だ。斎部氏は以前は忌部と書いていたようなので「忌みごと」を担当していたようである。「忌みごと」とは穢れ(けがれ・死、女性の月経など)、神事(神事における祭主などへの各種禁忌)を言い、本来は神事を積極的に行って「忌み」を払いのけるようだったが、今はタブーばかりが残っているようである。忌部とは「忌み」を払う神事を行う人を言うようだ。斎部氏が正史にに現れるのは中臣氏と同じ頃で、大化元年(645年)、忌部首子麻呂が神幣を賦課するため美濃国に遣わされている。壬申の乱では忌部首子人(首または子首とも)は天武天皇方の将軍・大伴吹負に属し、大和を守備した。持統天皇4年(690年)には色弗は持統天皇の即位にあたって神璽の剣・鏡を奉じた。慶雲元年(704年)には子人は伊勢奉幣使に任じられたその後は中臣氏とともに伊勢奉幣使となる例となった。しかし、斎部氏の最盛期はここいらまでで、その後は次第に中臣氏の勢力に押され、奉幣使補任は減少した。天平7年(735年)に忌部宿禰虫名・鳥麻呂らは忌部氏を奉幣使に任じるよう訴え、訴えは認められた。しかしながら天平宝字元年(757年)6月には中臣氏だけが任じられ他姓を認めないこととなった。

★まとめ

阿曇氏と膳部氏、斎部氏と中臣氏。いずれも一つの地位を二氏で分け合っていたような感じで、ついには「両雄並び立たず」と言うことになり、一方が他方を排斥することとなった。阿曇氏と膳部氏の場合は阿曇氏が自滅した感じであるが、斎部氏と中臣氏の場合は陰湿な権力闘争がだらだらと続いたのではないか。斎部氏と中臣氏の序列は上記「日本書紀」が記すように大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦中阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首ではなかったか。即ち、伴造としての完成度は斎部氏や阿曇氏の方が高かったと思われる。しかるに、この両氏はその後新興勢力に押され歴史の舞台から去って行った。あるいは当時の為政者(具体的には、天武天皇)は由緒ある家柄は諸般の事情により好まなかったのかもしれない。上記の「帝紀及び上古の諸事」作成の記録者にしても、かっての国家経営で主導的役割をはたした、大伴とか、物部とか、蘇我とか、紀とか、吉備などは全く出てこない。これなどもおかしな話でやはり天武・持統両天皇の偏向がうかがわれる。
ところで、中央豪族の阿曇氏や斎部氏はその後どうなったのであろうか。
「新撰姓氏録」によれば、阿曇氏は、以下の三氏が採録されている。
右京  神別 地祇 安曇宿祢 宿祢 海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
摂津国 神別 地祇 凡海連   連  安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也
河内国 神別 地祇 安曇連   連  綿積神命児穂高見命之後也
ほかにも安曇宿禰と同祖とされる氏族が何氏かあるが、いずれも他の海人族と一緒に扱われているので何らかの海産物の取り扱いに関わっていたのかもしれない。
斎部氏は、次の一氏が採録されている。
右京   神別 天神 斎部宿祢 宿祢 高皇産霊尊子天太玉命之後也
玉作関連の二氏と一緒に記載されているので何らかの祭具を作っていたか。大中臣氏の排斥が激しく一族は地方へ落ち延びたか。

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