「人」のつく地名について

★はじめに

「和名抄」で「人」の字がある地名を見てみると、
1.肥後国球麻郡人吉郷(現・熊本県人吉市)
2.大隅国囎唹郡人野郷(比定地不明)
3.大隅国大隅郡人野郷(比定地不明)
がある。そのうち、肥後国球麻郡人吉郷は比定地もはっきりしており問題はないが、大隅国囎唹郡人野郷および大隅国大隅郡人野郷は郷名が同じばかりでなく、両郡の比定地にも諸説があるようだ。そこでまず、囎唹郡や大隅郡の人野郷の諸説について述べてみることにする。
囎唹郡の当初の郡域は、和銅6(713)年に日向国から肝杯(きもつき)、囎唹、大隅、姶羅の4郡が分かれて大隅国が置かれた際は大隅半島北部の大半を占め、天平勝宝7(755)年に囎唹郡の北端を割いて菱刈郡が新設され、その後延暦23(804)年までの間に囎唹郡から桑原郡が分かれている。従って、現在の地名でいうと伊佐市、霧島市、曽於市、姶良郡などを古代の囎唹郡とする説が有力である。大隅郡は現在の菱田川と肝属川とに挟まれた平野部から桜島にかけての地域か。諸説がある。現在の地名でいうと垂水市、鹿屋市、桜島(鹿児島市)、曽於郡大崎町あたりか。但し、「和名抄」の姶羅郡の郷名には鹿屋、串伎、野裏、岐刀の4郷ががあり、鹿屋は現在の鹿屋市、串伎は現在の東串良町および旧串良町に比定されている。岐刀郷は大隅郡にもあり、「姶﨟(あひら)郷」は大隅郡の項に記載されている。また、「大隅国風土記」逸文では串ト郷が大隅郡所属とされていることなどから、姶羅郡と大隅郡は和銅6(713)年の設立当初、あるいは、「和名抄」編纂の時に都から遠隔地故の混乱や誤解があったようである。
郡域や郷域を推定する方法として1.地形や地名等により推測する 2.地域で中心的な祭礼の場として位置付けられる神社の位置による 3.考古学的遺跡の多少、内容から推測する、等があるようだが、繁昌正幸さんと言う方が、1.2.3.を駆使して薩摩国、大隅国の郷域比定をしており、大隅国の囎唹郡と大隅郡の郷域の部分を抜粋してみる。

囎唹郡
葛例郷  霧島市       福山町佳例川     飯富神社あり
志摩郷  鹿児島市      桜島町西道古河良   三柱神社あり
阿氣郷  霧島市       国分市郡田      止上神社あり(国府は府中)
方後郷  曽於市       財部町下財      日光神社あり
人野郷  曽於市       末吉町住吉      住吉神社・槍神社あり

大隅郡
人野郷  曽於市大隅町北部  大隅町中之内
大隅郷  曽於市大隅町南部  大隅町岩川      岩川八幡神社あり
謂列郷  鹿屋市       輝北町市成      太玉神社あり
姶膓郷  鹿屋市       吾平町上名      鵜戸神社あり
禰覆郷  南大隅町根占    根占川北       若宮神社あり
大阿郷  錦江町       城元         河上神社あり
岐刀郷  垂水市北部     垂水市二川      菅原神社あり
(繁昌正幸さんの論文から抜粋したもので、町名、住所は旧のままになっている)

翻って人野郷には諸説あり、 1.大野郷を書き誤ったものとして,垂水市大字大野に当てる説 2.入野(いりの)郷を誤ったとして諸県郡飯野(いいの)郷(現宮崎県えびの市内)とする説 3.本来同一地であったものを両郡に分属させたものかといい、両郡の郡界に当たる現在の垂水市大字牛根に比定する説もある。 4.ヒトは文字通り「人」の意で、「人の住む野」のこと、など。
私見を述べれば、上記、繁昌正幸説のごとく、和銅6年の「割日向国肝坏・贈於・大隅・姶羅四郡,始置大隅国」の際に、現在の都城盆地は南北に二分されて、北部は日向国へ、南部は大隅国に帰属したのではないか。その南部の「人野」と言われたところがまたまた二分されて一方は囎唹郡人野郷となり、他方は大隅郡人野郷となったのではないか。これは肥後国球磨郡人吉郷と縁続きで発想的には同じ語源かと思われる。

★ほかの「人」の文字がつく地名

1.人丸(山口県)、人丸瀬(島根県)、人丸山(兵庫県)
いずれも柿本人麻呂にまつわるもので、「人丸社」ないし「柿本神社」など祭神を柿本人麻呂とする神社とセットで地名がつけられることが多いようだ。人丸社ないし柿本神社の元宮は人麻呂が生誕そして物故した(諸説あり不明)島根県益田市高津の柿本神社で、人丸社の数が多いのは山口県とのことである。

2.人見村(群馬、埼玉、東京、千葉)、人見郷(静岡)
関東に「人見」地名が多いのは本姓が小野氏で、猪俣氏の支流「人見氏」の移動によるものかと思われる。人見氏は武蔵国幡羅郡人見邑(現・埼玉県深谷市人見。但し、足利基氏の寄進状に武蔵国榛沢<はんざわ>郡人見郷とある)を発祥とする。武蔵七党のひとつ猪俣党の支流とされる。おおよそ「人見」と名のつく土地には人見山あるいはそれに類する小高い山があり、楼観(物見櫓)の役割を果たしていたという。地名はその監視塔(人見山)に由来するか。

3.人遠城(愛媛県)、人遠(神奈川県)
人遠(ひとお)城、人遠(ひととお)と読みに少しの違いがあるがおそらく同じものであろう。山間の地にあるようだ。あるいは、「人尾」も同類か。

4.人首村(ひとかべむら・岩手県)
北上高地中央の山地・丘陵に立地。坂上田村麻呂に討伐された人首丸の潜居地であったことに由来すると言う説がある。

5.人行(ひとぎょう・愛媛県)
木地師が集住しているという。愛媛県上浮穴郡久万高原町杣野・人行集落。

6.人母村(ひとぼむら・富山県)
渋江川沿いの山間部にある。西礪波郡福光町人母、小矢部市人母。

★地名の検討

1.「和名抄」に掲載されている、「人吉郷」と「人野郷」

人野郷は上記繁昌正幸説以外にも比定地はいろいろあるのであるが、一応、繁昌説に従う。それによれば、人吉郷(人吉盆地)と人野郷(都城盆地)はそれぞれ盆地にあり、人吉、人野の共通項としては「人」があげられる。そこで、「人」の意味合いだが、私見ではこれを漢字で書くと、「秀(ひ)」「処(と)」となるはずで、「秀」は「穂」と同じく、モノの先端(この場合は平地の周りの山頂)をいい、「処」は場所、場合によっては複数を表すか。従って、この場合の「人」は盆地の周りの山々を表現したものかと思われる。
「人吉」の「吉(よし)」であるが、「よ」は漢字で書くと、代、世、節などと書かれるもので、つながる、続く(例、世々王あるも、皆女王国に統属す)の意味か。「し」は「級(しな)」の「し」か。「級(しな)」には、「短い糸をつなぎ合わせる」とか「層をなして重なる」の意味があるらしいが、人吉盆地の平野部の河岸段丘を言ったものか、はたまた、周りの山々の重層部分を言ったものかははっきりしない。
「人野」の「野(の)」は一般に言われるごとく「野」は人手が加わった平地、「原」は人手が及ばない平地」ということで、少なくとも「人野」では田畑の耕作が行われていたのではないか。但し、野と原については東京都あきる野市のサイトでは異なった趣旨を説いている。「人野」の発想だが、石川県能美郡では盆地を「くぼじゃーら」と言い、「くぼ」は「窪」、「じゃーら」は「平」を意味するそうだ。この場合の「くぼ」が人野の「人」に相当し、「じゃーら」が「野」に相当するのではないか。なにやら似た発想だ。

2.「人首」

これは「人」が盆地の周りの山々を表し、「首(かべ)」が「壁」を意味して(但し、崖という説もある)、盆地を囲む山々が壁のようになっている様を言ったものか。但し、東北地方には宮城県の鬼首(おにこうべ)、秋田県の鬼首もあり、「首(こうべ)」は「かうべ」といったようなので、「かうべ」が「かべ」になったか。あるいは、宮城県鬼首は「荒雄岳周辺の江合川 (荒雄川) が流れる盆地名でもある」とあり、人首(ひとかべ)も「人首の町は周囲を山に囲まれた小さな町である。町の横を流れる川は人首川と呼ばれ人首の名が残っている」とある。こちらも、いわゆる、盆地で地図を見ると少し離れたところに小河川も多い。元々は「川辺(かはべ)」で「カハベ」の「ハ」が脱落して「カベ」となったものか。あるいは、単刀直入に「川辺」を「川(か)辺(べ)」といっていたのかもしれない。いずれにせよ「人首」も盆地を意味したようだ。
余談になるが、秋田県には強首(こわくび)村とか鬼首(おにこうべ)峠とか、江戸中期には仙北郡に鬼壁(おにこうべ)村、出羽山地に鬼壁(おにかべ)山など「鬼」とか「首」のついた地名が多い。「オニ」とか「コウベ」の語は平安時代中期以降に出てくる言葉で、坂上田村麻呂の鬼退治や人首村の人首丸、鬼首村の大竹丸斬首の話などは到底信じがたい。ちなみに、「鬼首」の文献初出は「陸奥話記」の永承六年(1051)陸奥国司藤原登任が秋田城介平重成を先鋒に「鬼切部(おにきりべ)」(鬼功部の誤写か)で俘囚の長安倍頼時と戦って大敗した、と言うものである。また、岩手県ではこんなことも言っている「鬼首山(おにかべやま)という山名は日本武尊の鬼神討伐伝説に基づくもので、室根山<岩手県一関市>の古名とされます」と。このほかに東北地方には「鬼」のつく地名が多く、これなどはとても妖怪や化け物などとは思われず、地形用語なのであろう。首(くび、こうべ、かべ)も何らかの地形、地質を表す言葉と思われる。あるいは、東北では鬼とは蝦夷を言ったものか。一般的には、「鬼」も「首」も山名や峠名につくことが多いのでいずれの語も突破するのが難しい難所とか大型障壁を言うのではないか。その意味では「壁」も同じ意味だと思う。

3.人遠(ひとお)、人遠(ひととお)

人遠(ひとお)城は盆地でも何でもないが、人遠(ひととお)は神奈川県足柄上郡山北町皆瀬川の人遠集落にある。盆地とは言いがたいが、周囲が山がちの地形である。

以上を総括してみると、「人」のつく地名は盆地が主流で、あたりが山また山という地形が多い。

★まとめ

1.熊襲の語源は「筑前国風土記」にあるように球磨囎唹ではないか。おそらく、人吉盆地と人野盆地(現在の都城盆地を私見が勝手に言ったもの)は共通の文化的基礎があり(但し、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説がある)熊襲とは地域名であり、そこに住む人は隼人と言ったのだろう。また、「人」のつく地名は北海道や沖縄には見当たらない。沖縄は元々盆地らしい盆地はないのであるが、北海道は名寄、上川、富良野、北見など盆地に分類されているところもあるが、ほとんどが平野という位置づけのようである。人口が希薄だったことも地名の種類が少なかったのかもしれない。船で移動する人の地名はあちこちに多いが、陸路で移動する人の地名はそんなに普及しないようである。特に、盆地などの閉鎖社会にあってはなおさらだ。「人」地名は九州でも九州南部は「和名抄」にも載っているのに、九州北部では皆無だ。ほかに大分県の「日田」があるのみである。関東でも「人見」以外はほとんど見当たらない。盆地がないからと言ってしまえばそれまでだが。

2.人吉郷と人野郷の結びつきであるが、いずれの地にも「延喜式神名帳」搭載のいわゆる式内社はなく、人吉郷の有力神社として阿蘇神社系の青井阿蘇神社と霧島神宮系の老神神社がある。人野郷では旧社格が高いのは「府県社」の住吉神社である。どうして内陸の人野郷に海神である住吉神社があるのかは不明であるが、おそらくいずれの神社も創建が有史時代に入ってからと思われる。両郷を結びつける一番の紐帯に花弁状住居跡(円形の竪穴式住居部分<居間として使用か>の周りに大小複数個の長方形個室(寝室などか)を巡らし、それが花びらのように見える住居跡)がある。人吉盆地では、過般、人吉市赤池原町の中通遺跡で同住居跡が発見された。また、墓制についてであるが九州南部では地下式板石積石室墓と地下式横穴墓とがあるが、「地下式板石積石室墓は、熊本県天草・芦北地方や鹿児島県出水市など八代海沿岸部、熊本県の球磨川上流域部、川内川流域部、宮崎県大淀川上流部で確認されています」とあり、「地下式横穴墓は、宮崎県の一ツ瀬川流域を北限とし、宮崎平野部、宮崎県内陸部、川内川上流域部、志布志湾岸及び内陸部、熊本県人吉盆地で確認されています」とある。地下式板石積石室墓で言えば、熊本県の球磨川上流域部と宮崎県大淀川上流部、地下式横穴墓で言えば、宮崎県内陸部と熊本県人吉盆地で双方の接点があるのではないか。従って、球磨地方と囎唹地方にはそんなに異質性と言うことはなかったのではないか。

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