日高見国とは

★はじめに

「日高見国」と言えば武内宿禰が景行天皇の命で北陸及東方諸国を視察し、その報告として、
「日本書紀 卷第七 景行天皇」の段に、
「廿七年春二月辛丑朔壬子 武内宿禰自東國還之奏言 東夷之中 有日高見國 其國人 男女並椎結文身 爲人勇悍 是總曰蝦夷 亦土地沃壞而曠之 撃可取也」とある。この「日高見國」は東國と言うから現在の関東や東北地方と解されている。この場合の「日高見国」は東夷の国を賛美した抽象的な国ではなく具体的な場所と考えられている。その在るところは、上述の「東國、蝦夷、土地沃壞而曠之」の語や北上川河口近く現・宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73に日高見神社があること、「三代実録」に「日高見水神」と記されていることなどから武内宿禰が視察した日高見国とは、現・仙台平野と考えられている。以降、日高見国は大和朝廷に圧迫されて後退し、北上盆地にその中心を移したと言う説もある。一応、一関市狐禅寺(こぜんじ)より上流は北上盆地、下流は仙台平野と言うようだ。ところが、「日高見国」もこの一件で落着すれば問題はなかったが、後世、諸説が出てきた。全部は紹介できないので主なるものを列挙してみると、

1.大倭の美称
「大祓詞」(「延喜式」祝詞)に「四方之国中大倭日高見之国安国定奉」とある。
2.蝦夷の地にかかる仮想的な地名
3.広く平らなる土地を汎称した古語
4.異民族の居住地
5.空想上の地
6.常陸国の信太郡の旧国名
などがあるが、1.~5.までは抽象的な概念かと思われるので、6.常陸国信太郡について検討してみる。

★常陸国信太郡は旧日高見国だったのか。

この説の震源地は「常陸国風土記」で、信太郡(「しだ」とルビーを振っているところもあるが「した」が正しいようである)の条で、「古老の日へらく、難波の長柄の豊前の宮に御宇しめしし天皇の御世、癸丑の年、小山上物部河内、大乙上物部会津等、惣領高向の大夫等に謂ひて、筑波・茨城の郡の七百戸を分かちて信太の郡を置けり。此の地は、本、日高見国なり、云々」と。卜部兼方の「釈日本紀」もこの文章を引用している。信太郡の建郡は孝徳天皇白雉四年(653)と言うから、それ以前は日高見国というのは珍しくはなかったのかもしれない。そこで、常陸国にあったという日高見国は諸説あるもそれを総括すれば、次のごとくである。

日高見国とは、当時の常陸国の人は「シ」と「ヒ」の発音が曖昧で、信太郡は実は「シタノコホリ」ではなくて「ヒタノコホリ」であった。その郡域は大まかに言うと旧稲敷郡(「和名抄」の信太郡と河内郡を合わせたくらい)で、中心地は現・美浦村信太にあった。しかし、その後郡域が拡大したのか、元々大きかったのかはわからないが、いずれにせよ旧新治郡(古代の茨城郡の一部)も含まれるようになり、旧稲敷郡の方は「ヒタ・カミ(漢字で仮に日田上と書く)となり、旧新治郡の方は「ヒタ・シモ(漢字で仮に日田下と書く。ヒタシモはヒタチの語源とも。ヒタシモのモが脱落し、ヒタシがヒタチに転訛したと言うもの)となった。この「日田上」の方が佳字で「日高見」となったというもの。そのほかに大和朝廷の東進とともに大倭(やまと)国を意味する日高見国が常陸国から陸奥国に移動したと言う説もある。
この常陸国の「ヒタ」とか日高見国の「ヒタ」は無関係とは思われず、日高見国は常陸国の語源に関わっていると思われる。そこで、この「ヒタ」に関わる地名として「和名抄」より見てみると、

豊後国日高郡日田郷(ぶんごのくに・ひたぐん・ひたごう)日高にも「比多」の訓注がある。
飛騨国(ひだのくに)
紀伊国日高郡(きいのくに・ひだかぐん)
常陸国(ひたちのくに)

上記四地名のうち紀伊国日高郡を除いては盆地のあるところである。豊後国日高郡日田郷は現在は日田盆地と言われている。飛騨国は現在は国府盆地、古川盆地、高山盆地がある。常陸国は現在は柿岡盆地、笠間盆地、岩瀬盆地、大子盆地など。おそらく「ヒタ」の語は盆地と関係するものであろう。紀伊国日高郡は白馬山脈と真妻山の間の山間地を盆地に見立てたものか。

常陸国の語源については 1.漬(ひた)す、漬土(ひたつち)(風土記) 2.直道、直通(ひたみち)<風土記の原文は近通となっているが直道ないし直通の誤写か)(風土記) 3.日高地説(日高見<蝦夷の地>へ通う地) 4.ヒタ(直)チ(<土>のチ、土地を示す)説 5.「一面に平らな地」説(常総台地の一部に名付けられた小地名が起源か)などの諸説がある。 1.は湿地帯を言ったものか。即ち、霞ヶ浦の沿岸部を言い、常陸の地名発祥の地は信太郡であり、延いては「日高見国」が語源か。 2.は直線道路が縦横に張り巡らされていたと言うことか。但し、この説は常陸国が蝦夷攻略の前線基地になり、かつ、軍用道路が陸路になってからのことか。「日本書紀」の日本武尊は海路で日高見国(現・石巻市か)へ行っている。 3.は武内宿禰は北陸経由で日高見国へ行ったと思われるがそこいらの整合性は如何。 4.5.は常陸とは平野を表す言葉なのだろうが、北部の山岳地帯に対し、南部の平地を言ったものか。
私見では盆地の語源は窪んだ土地を言うのではなく、周りの高い峰や山岳に求めるべきではないか。即ち、常陸の語源は現在の柿岡盆地(山根盆地)にあり、ヒタチやヒタカミの「ヒ」は「穂(ほ)」と同源の「秀(ひ)」(大辞林・〔「穂(ほ)出(い)づ」の転じた「ひいづ」の転〕 )即ち、物の先端部分を言い、「タ」は場所を表し、「チ」は道あるいは土地を意味したものであろう。常陸国は初め常道国(ひたみちのくに)といい、のち常陸国(ひたちのくに)となった。「カ」は住処(すみか)の「カ」で場所を表し、「ミ」は廻(めぐらす)の意で盆地を囲んだ山々を言うのであろう。従って、「ヒタ」だけでも盆地を囲む高い山々を言い盆地を意味するのであるが、「ヒタカミ」や「ヒタチ」は余計な装飾語がついている。飛騨や日田は盆地そのものをずばり言っている。日高見は穂高神社祭神穂高見命の穂高見と同語か。飛(乙類)と日(甲類)は違いがあるので飛騨や日田は意味が違うという見解もあるが、平安時代の「和名抄」の頃は甲・乙の違いはあったのであろうか。

常陸国は日高見国から転じたものと考える向きが多いが、常道国(ひたみちのくに)から転じたという説もある。また、東北地方が「道の奥(みちのおく)」と言われたときは「常道国」と書き、「陸奥(むつ)」と言われるようになったら「常陸」と書くようになったという説もある。なにやら蝦夷(東北)の前線基地どころか地名表記では蝦夷の従属地になっているような感じだ。穂高見とか日高見という地名も先史時代には多かったのかもしれないが、だんだん簡略化されて「ヒタ(ヒダ)」とか「ヒタカ(ヒダカ)」あるいは「ホタ(ホダ)」とか「ホタカ(ホダカ)」などになってしまったか。穂高神社も文献にはないかもしれないが、元は穂高見神社と言っていたのが、穂高神社に簡略化されたものか。

★結 論

常陸国の日高見国は「常陸国風土記」が唐突に言い出したものでそれが事実かどうかははなはだ不明だ。場所的にも信太郡より「和名抄」に言う茨城郡の一部旧・茨城県新治郡八郷町(現・石岡市)あたりがいいのではないか。「和名抄」によれば常陸国茨城郡には十八郷があったそうだが、そのうち七郷が旧・八郷町にある。夷針郷、山前郷、大幡郷、茨城郷、小見郷、拝師郷、田籠郷がそれである。おそらく旧・八郷町を含む石岡市が縄文時代から一貫して常陸国の中心地ではなかったか。遺跡も縄文時代からのものが続いており(但し、肝心の弥生時代のものがないらしい)、現・石岡市のどこかに常陸国にまつわる地名があるのであろうが、今は発見されていない。あるいは、日高見国とは今の石岡市を言ったものか。石岡市の市名の由来は不明という。
現在、北上とか日高あるいは穂高などと言う姓はまずまずあるが、日高見とか穂高見などの姓は皆無のようだ。現在では縄文語の痕跡はあるものの、縄文語は廃れてしまったようだ。そこを重箱の隅をつつくように縄文地名を探してみてもぱっとした成果は出ないのかもしれない。あるいは、中部山岳地帯の穂高見と東関東の日高見は語義は同じというので双方に何らかのつながりがあって、常陸国の弥生化が遅れたのかもしれない。縄文中期以降は東関東は阿玉台式土器文化圏と言い、中部山岳地帯から西関東にかけては勝坂式土器文化圏という。特に、現・石岡市界隈は阿玉台式土器文化圏の中心地だったようで縄文畑作農業が浸透し、水田稲作は受け入れがたかったのかもしれない。但し、稲の伝播ルートは日本海を青森県まで北上し、その後、太平洋岸を南下して関東に到達した、と言う見解もあるので、関東の弥生時代は短かったのかもしれない。

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