新羅、加羅、百済は日本語か

★はじめに

新羅、加羅、百済は朝鮮半島南岸の古代の国ないし郡郷の名と思われるが、日本におけるその読みが「しらぎ」とか「から」とか「くだら」となっている。新羅や加羅ならいつの時代、日中朝どこの国の人が読んでもシンラ・シラ(新羅)、カラ(加羅)なのだろうが百済は誰が読んでもクダラないしクタラとはならない。私見では常々思っているのだが、シラとかカラとかクタラとかは元々日本語(縄文倭語)ではなかったか。百済(おそらく、正しくはヒャクサイと読むのだろう)をクタラと読むのは全羅南道の光州市界隈は古くは倭人がクタラといっていたのではないか。その後、「魏志」韓伝馬韓五十余国の中の一国「伯済国」が地域を統合し、国名が百済国になったのではないかと思われる。(通説でもある)無論、上記見解は私見であって、百済がどうしてクダラないしクタラと読まれるようになったのかははっきりしていない。一応、ここでは読みのはっきりしない「百済」は最小限度にとどめ、新羅と加羅を重点的に述べる。

百済の読みの「クタラ」は、日本語では「クタ」は「朽ちる(くちる)」が原義で、「腐る(くさる)」も同根の言葉という。地名としては愛知県界隈に「クテ(久手、湫)」<湿気が多くて水草などが生えている所。低湿地。>の地名があり、「和名抄」では筑後国三潴郡管綜(くたへ)郷、出雲国楯縫郡玖漂(くたみ)郷、肥後国山鹿郡来民(くたみ)郷など。そのものずばり、摂津国百済郡とか河内国錦部郡百済郷などもある。よって、クタラの意味はクタが湿地帯を意味し、ラは接尾語と考えられる。水田稲作を暗示するもので全羅南道にも先史時代の水田遺跡があるのか。百済の由来は上記伯済国のほか、「唐会要百済伝」(961)に「以百家濟海。因號百濟焉。」とある。日本との国交は応神天皇の頃(四世紀中頃か)に始まったとみられ<但し、井上秀雄説ではこの倭国は朝鮮半島南部の倭人と九州北部の倭人のことで、大和朝廷ではなく、百済と大和朝廷の国交は6世紀という>都は漢城(ソウルの漢江南岸)にあったが、475年に高句麗の長寿王との戦いで蓋鹵王は戦死し、都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷した。日本の前方後円墳類似の古墳がたくさんあるのもこの地域なので日本が百済にコミットするようになったのもこの頃(雄略朝)かと思われる。おそらく、百済の国名は首都が漢城にあった頃に発生したものであり、日本のクダラないしクタラは首都を熊津に遷都した際、そのあたりを倭人(日本人)はクタラないしクダラといっていたのではないか。但し、「日本書紀」雄略天皇21年(477年)春3月条に「天皇聞。百済為高麗所破、以久麻那利賜汶洲王(文周王のこと)、救興其国」とある。この久麻那利がクタラになるのかどうか。ほかに百済の語源には「大いなる国」を意味する朝鮮語「큰 나라 (クンナラ)」に由来するという説もあるようだ(李寧煕説)しかし、百済の語に「大いなる国」の意味があればそれでもいいが、ない場合はどうなるのだろう。また、「大村(大きい村)」の日本語訳がクタラでそれを読みとしたという説もあるが、これまた百済と大村が結びつくかどうか。とにかく、雄略朝期には日本が朝鮮半島南部を実効支配していたことは間違いなく、各国政府機関には日本人(倭人)の出向官吏がいただろうし、その統括機関として任那日本府もあったようで、農業・漁業等の実経済を担う実働部隊もいたことは間違いないだろう。また、久麻那利も「魏志倭人伝」の「官曰彌彌、副曰彌彌那利」から推察すると久麻という大きな地域があり、久麻那利は久麻よりは小さい地域ではなかったか。従って、クタラとはクマラの転訛したものか。百済についてはその滅亡のことはわかるが、発祥のことはわからないのが現状のようである。

★新羅

「新羅」の読みについて一般的には「しんら」、「しら」と読むのだろうが、日本では語尾に「き」または「ぎ」という音をつける。これは「新羅奴」、あるいは「新羅城」ではないかという説がある。新羅と日本が敵対していた事実を反映しているという。おそらく「城(き)」で、「城(き)」は「城(しろ)」の古語という。古くから「シラキ」と言われていたなら、おそらく応神天皇が出兵した際、新羅に本陣を敷いたのではないか。新羅は新羅でも現在の慶州市ではなく、釜山ではなかったか。釜山は今は港町であるが古代には山の手の方が栄えていたようである。しかし、応神天皇が陣を敷いたのは海岸沿いで、好太王五万の軍勢が押しかけてきたらすぐにでも対馬に避難するようになっていたのだろう。但し、白木の地名は九州に多いと言うが、これは「白木」という油を採取する木に由来するという。
新羅の地名も日本にあり、「和名抄」では、武蔵国新座郡志木郷(現・和光市白子あたり)、陸奥国柴田郡新羅郷(現・宮城県柴田郡柴田町あたり)があり、いずれも新羅人配置の記録がある。しかし、類似の地名はごまんとあり、以下、代表例を列挙してみる。
しら(真良)安芸国沼田郡真良郷(現・三原市高坂町真良)
しらかた(白方)陸奥国岩瀬郡白方郷(現・須賀川市)
しらかは(白河)陸奥国白河郡白河郷(現・白河市)
しらく(志楽)丹後国加佐郡志楽郷(現・舞鶴市・旧東舞鶴市)
しらた(白田)陸奥国磐城郡白田郷(現・福島県双葉郡広野町)
しらとり(白鳥)常陸国鹿島郡白鳥郷(現・茨城県鹿嶋市)

シラの意味合いとしては 1.シル(汁)の意味で湿地のこと 2.シリ(尻)の意味で後方のこと 3.シル(領る)の意味で一定の地域を指す、などが考えられている。多くは湿地と解されて水田適地を指すことが多いか。
異なった趣旨を説くものとして、古代朝鮮の斯盧、斯羅、新羅、徐羅などは日本語のシロ(城)と同語で、もと高地の山城の義、と言う(坪井九馬三説)「城(シロ)」の語源は「高い」(坪井九馬三説)とするものと「垣、壁」(川守田英二説)とするものがあるようだ。朝鮮の城は山城のことだと言うが、斯盧、斯羅、新羅、徐羅はみんな新羅(シラギ)のことをいい地域に偏りはないか。それに日本の城の語源は山背(やましろ)で山背国を佳字の山城国と改めた際、読みも「やましろのくに」となり、城がシロと読まれるようになったらしい。外敵を防ぐための防御施設は、古く「き」と称し、「柵・城」の字が当てられた。のちにそれぞれ音読して、「さく」または「じやう」といわれる、とあり、日本の「城(シロ)」は朝鮮語とは関係がないようである。また、日本の城(シロ)の原意は「垣、壁」のようで、古語「き」というのも私見では太い丸太を隙間なく打ち立てた柵のことで、山城(やまじろ)のことではないと思う。
以上を総括すると、新羅とはシラと読み日本語の湿地を言ったものではないか。そこで倭人が水田稲作を始めたものと思われる。具体的には、日本の三原市高坂町真良が沼田川支流の小盆地のようなところなので、本当は洛東江の川沿いの低湿地が新羅の地名発祥の地かと思いたいが、実際は小河川から水を引き小規模水田で稲作を始めた地域のようである。地域的には釜山と慶州の間くらいか。

★加羅

「加羅」の読みについては「カラ」で異論はないようだ。「和名抄」によると「カラ」のつく地名は、筑前国志摩郡韓良郷(現・福岡市西区に唐泊崎などあり)があり、韓地渡る港、韓人の宿泊する亭のことという。「万葉集」に韓亭とか韓泊の語あり。「カラ」のつく地名は日本にもごまんとあり、以下、代表的なものを列挙してみる。

からしな(辛科)上野国多胡郡辛科郷(現・高崎市吉井町)
からしま(辛島)豊前国宇佐郡辛島郷(現・宇佐市辛島)
からせ(醎瀬)武蔵国比企郡醎瀬郷(現・東松山市下唐子、上唐子)
からへ(辛家) 肥後菊池郡辛家郷(現・菊池市七城町加恵)
からむろ(辛室)播磨国飾磨郡辛室郷(現・姫路市新在家)
からや(韓家、辛家)日向国児湯郡韓家郷、筑前国宗像郡辛家郷

「カラ」の日本語の意味としては「涸れる」「小石まじりの地」「崖」「高地」などがあり、自然堤防、微高地などに多い地名、と言う。朝鮮半島では加羅は伽耶となったようだが、おそらく日本でも同じような意味ではないか。備中国賀陽(かや)郡など。但し、朝鮮半島の古代文献等は「加羅」が一般的。
以上を総括すると、朝鮮半島の「加羅」は高地に起源を有し、それは「小白山脈」のことかと思われる。即ち、加羅とは高地を意味し太白山脈と小白山脈に囲まれた盆地のことではなかったか。我が倭人(日本人)のご先祖様もこの地に住み着いて最初は海岸沿いで、農業が普及すると洛東江沿いで開拓に当たったものと思われる。
異説としてカラ、カヤは日本語のカラ(族)と同起源とする見解がある。それによれば「古代朝鮮ではしきりに加羅、伽耶という語が国の名の下につけられている。当時は国といっても氏族であり、そのカラ、カヤは日本のカラと同じ起源である」と。(山中 襄太「国語語源辞典」)しかし、文献的に見ても○○加羅などという国は旧加羅国から派生した国に限られており、日本を例にとると、北海道が独立して北海道日本とか沖縄が独立して沖縄日本とか言ったたぐいの話ではないのか。考えすぎかと思われる。

★まとめ

朝鮮半島に先史、古代に日本人がいたことは間違いないと思うが、インターネットなどで見るとその支配領域がだんだん狭くなっていくことがわかる。やはりY-DNA/D1b(旧D2)が朝鮮半島にないというのも白村江の敗戦で日本が完全に半島から撤退したとき、日系人は総引き上げとなったようだ。かって朝鮮半島に日本人がいたと言う痕跡は今では朝鮮半島南部の人々の顔つきで偲ぶこととなった。言葉も通じなくなり、先方は分裂国家であり、南北両国とも反日感情も強いようなので、我が国は「触らぬ神に祟りなし」の心境のようだ。
以上より観察するなら、朝鮮半島における我が国の影響が垣間見られ、漁業や農業の当時の基幹産業において国家発展の礎を築いたのではないかと思われる。古代においては文化は朝鮮半島より我が国へと言う道順で入ったと考えられやすいが、それは朝鮮半島に中国文化が浸透してからで、それ以前はオリジナリティの高い日本文化が先方に渡っていたのではないか。従って、人類生活の一番古層に属する地名が日本語起源で先方に残っていても全く問題はない。シラ、カラ、クダラなどは日本語であったと思料するものである。

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新羅、加羅、百済は日本語か への2件のフィードバック

  1. みずら より:

    高句麗:日本は西アジアから来たヒッタイト系鉄器民族。
    百済新羅は、征服された原住民の国。全く別の言語。

    • tytsmed より:

      >高句麗:日本は西アジアから来たヒッタイト系鉄器民族。

        そうなんですか。初めて知りました。

      >百済新羅は、征服された原住民の国。全く別の言語。

        教科書的には高句麗と百済は同一民族で、新羅は秦からの亡命者が建国した国と習ったのですが。

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