日本列島と朝鮮半島

★はじめに

いつの時代にも日本と朝鮮半島とはごたごた続きのようで、最近でも、

『自民党国際情報検討委員会などは17日(2015年7月)、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録に際し、韓国政府の対応が「両国間の信頼関係を損ねた」として、日本政府に抗議するよう求める文書をまとめた』とか、

『いわゆる従軍慰安婦を巡る問題で、韓国在住の元慰安婦2人が日本政府などを相手取り、損害賠償を求める訴訟を米サンフランシスコ連邦地裁に起こした。13日(2015年7月)提出の訴状によると、原告1人につき、計2000万ドル(約25億円)の賠償などを要求している』とか、
言わばうんざりするような話が間断なく報じられがっかりさせられる。日本人と朝鮮人は近似性が高いという研究発表もあるのだが、実際の両国(日本国と大韓民国)は犬猿の仲のようである。もっとも、この研究発表はいわゆるmtDNAのことをいったもので男性のY-DNAは朝鮮半島のO系統と日本列島のD系統とは少しばかり違うと思われる。
過般、日本の村山元首相が韓国へ講演に行って元従軍慰安婦の人々の老人ホームへ慰問に行ったところ、そこにいた人たちは元首相を懐かしそうにしげしげと眺めていた。とても恨み骨髄に徹する人を見る目つきではなかった。どうやら、韓国では戦前・戦中派の人は親日であり、戦後派の人は反日の人が多いようである。日本統治の実体験のない人は対日感情が空回りしているような気がしないでもない。換言すれば、戦前・戦中派の人は清濁併せ持ち、戦後派の人は「水清くして魚棲まず」というところか。上述の損害賠償の件にもあるように、韓国人は条約等の約束事を守らない国家なのか。昨今のギリシャと似たところのある国のようだ。条約により国家間解決が図られているのなら大韓民国が自国民を説得すべきではないか。ギリシャは実現はともかくそのようにしているようだ。「日本だからいい」などと自己流の勝手な解釈をしているとそのうち他国から相手にされなくなるのではないか。You are not aloneならぬYou are aloneになってしまうのではないか。

これも我々日本人から見ると残念至極なことであるのだが、歴代大統領の晩節といおうか末路といおうか、日本でいう晩節を汚すとか英雄の末路とか、芳しくない人が多い。一般に報じられている例では、(元大統領、敬称略)

李承晩 4・19革命(1960年)で失脚し、米国ハワイ州へ亡命。再選の為に大規模な不正選挙を強行。

朴正煕 在任中に暗殺。長期軍政による自由の抑圧。

全斗煥 退任後に死刑判決(高裁で無期懲役に減刑され、後に特赦)。粛軍クーデターや光州事件等。

盧泰愚 退任後に軍刑法違反で懲役刑(後に特赦)。粛軍クーデター・光州事件及び大統領在任中の不正蓄財。

盧武鉉 退任後に自殺。弾劾訴追の棄却により、職務に復帰。在任中の収賄疑惑により退任後に捜査を受ける。

金泳三、金大中両元大統領のように大過なく大統領職を遂行した人もいるが、晩節を全うした大統領は少ないようである。韓国は日本と違い独裁政権や権力者の不正の生じやすい政治風土があるようだ。また、権力者の在任中は難しいのかもしれないが、退任後にあれやこれやあら探しをするようである。それもこれも韓国国民の民度の問題に帰着するか。現今の我が国の安保法制法案強行採決についても「選んだ国民も悪い」とインタビューに答えている人々も多いようだ。韓国にもそういう人もいるようだが、多数に押しつぶされて声にならない。

話は変わるが、日本列島と朝鮮半島は有史以前より行き来があったようで、その痕跡は近接地域である九州北部と朝鮮半島南部に多いようだ。個人的な見解では朝鮮半島は多民族地域で日本人と朝鮮人は近縁だといっても、その顔つきは朝鮮半島の方が多種多様に思われる。日本列島は島国のせいか時代がたつにつれ一極に収斂して「あれは日本人」と誰もがそう感じる顔つきになるが、朝鮮半島の人は朝鮮人とわかっても、どうしてああも顔つきが違うのかと思うほどだ。日本列島にやってきたのはそのごく一部の人かと思われ、大多数の朝鮮半島の人は日本とは疎遠であったようである。
森浩一編「倭人伝を読む」(中公新書665)で岡田英弘東京外国語大学名誉教授が以下のごとく述べておられる。
「三世紀ころの日本列島のイメージ
それで、人口が多くて文化が特異であったという認識は、このときに始まったわけではなくて、ひじょうに古くからそうだったのではないかと思うんです。
現在、ソウルから鉄道で南下してきますと、だんだん風物が変わってくる。秋風嶺のトンネルで小白山脈を抜けて、慶尚道の地へ出ますと、空気が急に柔らかくなって、山が緑が多くなりますね。日本海から吹き込む風も湿り気を帯びてくる。また、漢江の渓谷とは違ったタイプの顔立ちの人たちが目につく。釜山なんか歩いていますと、瀬戸内海の沿岸のどこかの町にいるんじゃないかという感じがすることがあります。顔がまるく、頬骨の高い、目の小さいーーーこういう、われわれがふつう韓国型だと思い込んでいる北方型の韓国人とまた違った、日本型の顔立ちの人たちが登場する。韓国語のアクセントも、漢江の渓谷とはまた違った、日本語のそれに近いような感じがする」
これは日本の歴史学者ばかりでなく誰もがいだく感情かと思う。即ち、最近は学説等も収斂されてきて朝鮮半島南部の現在でいう全羅南道とか慶尚南道とかはかって日本人(倭人)が定住していた地域であった。九州北部や朝鮮半島南部に共通している稲作や支石墓なども九州北部を経由して朝鮮半島に伝わったものではないか。但し、朝鮮半島の支石墓は大別して北方形式(テーブル式)と南方形式(碁盤式)があり、半島全域に広まっている。従って、半島北部(おおむね慶尚北道以北)と南部の支石墓は起源が違うようだ。半島南部の稲作と支石墓はセットでまず揚子江下流域から九州北部へやってきて、その後、朝鮮半島へ渡ったか。

★朝鮮半島にはどのような日本人(倭人)が住んでいたの

岡田英弘先生が「日本型の顔立ち」という朝鮮人はどのような人かといえば、弥生人系の人なのか、はたまた、縄文人系の人なのか。我が国では弥生人は朝鮮半島や中国大陸からやってきた人と認識されているので、もし朝鮮半島南部の人が弥生系の人ならば日本人と朝鮮人との差違はほとんどなくなり岡田先生が「日本型の顔立ち」というのは縄文系の彫りの深い顔つきで髭が濃い人をいうのではないか。しかし、朝鮮半島にはY-DNA/D系統の人はほとんどいないという。Y染色体ハプログループは外見上の見かけとは一致しないといい、いくら朝鮮半島南部の人が日本型の顔立ちをしているといっても、それだけでY-DNAがD系統になるものでもないらしい。私見で恐縮だが、「顔がまるく、頬骨の高い、目の小さいーーーこういう、われわれがふつう韓国型だと思い込んでいる北方型の韓国人」とおっしゃるが、こんな朝鮮人を見たことはない。
著名な好太王碑文には「倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」<倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった〉とあり、このときの倭王は応神天皇と考えられており、この百残・加羅・新羅の人々は日本人(倭人)だったか。その後、663年(天智2年)8月に白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、現在の錦江河口付近)で我が国が唐・新羅連合軍に敗れるまで、歴代為政者は百残・加羅・新羅を日本の領土ないし百残・加羅・新羅は我が国の属国と考えていたか。少なくとも彼我(朝鮮半島南部と日本)の記録では日本人(倭人)の半島へ対する積極的な攻勢がうかがえる。朝鮮側文献「好太王碑文」「三国史記」「三国遺事」など。日本側文献「古事記」「日本書紀」など。

★朝鮮半島の日本人は何語を話していたの

「(朝鮮半島南部の)韓国語のアクセントも、漢江の渓谷とはまた違った、日本語のそれに近いような感じがする」というのも、朝鮮半島南部の人々は古代日本語の半島方言ともいうべき言葉(日本語)を話していたのではないか。応神天皇が「辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった」とあるのも、当時の半島南部の人は日本人(倭人)と話すのに通訳などはいらなかったのではないか。それ故、倭の進駐軍が10年間も彼の地に居座ることができたと思われる。日本語と朝鮮語に類似性があるのも、朝鮮語の基層には日本語(倭語)があり、その後、北方言語が入ってきたのではないか。

★まとめ

江南の人に聞いてみたわけではないが、揚子江河口から船に乗って東方へ進んだ場合、日本列島の長崎や有明海に行くのと朝鮮半島へ行くのとではどちらが簡単かと聞かれれば、おそらく長崎や有明海となるのではないか。江南の人が日本列島にやってきた頃は当然のことながら縄文時代と弥生時代の境目で日本では狩猟採取が主力の時代かとも思う。当時の九州北部の人は海人族が多かったようで、当然のことながら漁獲量を上げようと朝鮮半島の方まで漁に出かけていたのではないか。それが一時的な滞在か、永住かははっきりしないがおそらく双方のケースがあったであろう。釜山、馬山、金海、鎮海等には縄文時代から九州の海人族が定住していたものと思われる。釜山では縄文土器や九州産黒曜石などが発掘されているという。ほかに縄文人の渡韓目的としては男性の不妊症を女性のせいにして女性確保のためにでかけたのではないか。
佐賀県呼子町(現・唐津市)の大友遺跡や福岡県志摩町(現・糸島市)の新町遺跡の支石墓に埋葬されたのは縄文系の人のようで、九州大学の「大友遺跡第五次・六次調査の発表」に「・・・6・7・21号支石墓の下部構造はこれまで北部九州で発見されている支石墓の下部構造と形態を異にし、石槨に構造が類似しており、より朝鮮半島の支石墓の下部構造に近似したものであると考えられ、発掘調査の成果の一つに挙げられる」とある。いわんとすることは、日本の支石墓は朝鮮半島の支石墓をお手本にして造られているということなのだろう。しかし、支石墓の分布が主に松浦半島、糸島市付近、島原半島などとあり、水田遺構は菜畑遺跡(佐賀県唐津市)や板付遺跡(福岡市博多区板付)や、野多目遺跡(福岡県福岡市南区野多目)、早良平野の橋本一丁田遺跡(福岡市西区福重2丁目)などにあり、同一とはいわないまでも両遺跡はやや持って重なり合っていると思われる。それに、韓国の稲のDNAと我が国の稲のDNAは違うという見解もある。即ち、日本の稲の来た道と韓国の稲の来た道は違うということであり、支石墓の被葬者が縄文系というのも韓国の支石墓と日本の支石墓はそのルーツが違うという人もいるらしい。そもそも、朝鮮半島南部には縄文土器を始め、貝塚、前方後円墳など日本の基層文化が長期にわたって継承されていた。やはり朝鮮半島の南部には日本人(倭人)が住んでいたのであろう。しかし、その人的な痕跡はほとんどないので決着がつかないでいる。

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