宗像氏と水沼氏

★はじめに

宗像氏と水沼氏については一番の問題点は「日本書紀」で宗像三女神を斎祭った氏族が本文と一書で違うということである。その文章を抜粋してみると以下の通りである。

【日本書紀 卷第一 第六段 本文 原文】
是時 天照大神勅曰 原其物根 則八坂瓊之五百箇御統者 是吾物也 故彼五男神 悉是吾兒 乃取而子養焉 又勅曰 其十握劒者 是素戔嗚尊物也 故此三女神 悉是爾兒 便授之素戔嗚尊 此則筑紫胸肩君等所祭神是也

【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三】
故日神方知素戔嗚尊 元有赤心 便取其六男 以爲日神之子 使治天原 即以日神所生三女神者 使降居于葦原中國之宇佐嶋矣 今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭神是也

【古事記 上巻】
故其先所生之神 多紀理毘賣命者坐胸形之奧津宮 次市寸嶋比賣命者坐胸形之中津宮 次田寸津比賣命者坐胸形之邊津宮 此三柱神者 胸形君等之以伊都久三前大神者也

以上より、「日本書紀」にせよ「古事記」にせよ本文では宗像三女神を斎祭っているのは宗像氏といっている。それでは【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三】はなぜ水沼君等を持ち出しているのだろうか。理由として考えられることは、
1.宗像氏と水沼氏は元々は同族である。
2.宗像氏と水沼氏は全く異なった氏族ではあるがそれぞれ現在の宗像市や柳川市・大川市・久留米市界隈にて宗像神を祭っていた。
3.「日本書紀」「古事記」はともに「筑紫胸肩君等」「筑紫水沼君等」「胸形君等」と氏名(うじのな)の次に「等」の字を当てている。「等」は複数を意味するものと思われ、これは宗像三女神が必ずしも特定の一族に奉斎されたのではなく、誰もが氏神として祭っていた。

★各説の検討

1.宗像氏と水沼氏は元々は同族である。
宗像市と水沼氏は現在の玄界灘を漁業領域とする一族であったが、出雲から大国主命がやってきて抗争になって一族の中が大国主命と同盟しようとしたものと抵抗しようとしたものに分かれ、前者は「先代旧事本紀」では、多岐都比売命は大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだといい、「古事記」では大国主命と多紀理毘売命との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)と高比賣<下光比賣(したてるひめ)>を生んだという。要するに、大国主命一族になったということ。後者は、抵抗して衆寡敵せずかどうかはわからないが現在の久留米市三潴町高三潴あたりまで逃げ延びたか。しかし、これはどうして勝者の神すなわち大国主命が宗像大社に祭られないのであろうか。一般的には、大国主命と多紀理毘売命は夫婦神であるとして、社殿に二神を祭るのが多いようだ。宗像大社で勝者の大国主命が一顧だにされないのは、後に筑紫大和連合に敗れてしまったからか。その割には、宗像氏は大国主命の神裔と宣っている。ただし、宇多天皇皇子の正三位中納言清氏親王を祖とするというのが宗像氏の見解のようであるが、まったくの創作という見解もある。また、水沼氏が宗像神を斎祭った神社は「風浪宮」か。風浪宮は、現在、福岡県大川市にあり、祭神は、少童命三座、息長垂姫命、住吉三神、高良玉垂命とあり、神主は神功皇后三韓出兵の際の先導役・阿曇連磯良丸の子孫という。祭神に宗像三女神がないことや阿曇系神社の総本社である志賀海神社の近くに同じような伝承の神社があるのは不審。おそらく、風浪宮は創建時は祭神を宗像三女神とし、神主も水沼氏がつとめていたのだろうが、水沼氏が勢力を失い不在になった後は阿曇氏一族がやってきて祭神を少童命三座、神主を阿曇氏として綿津見系に変更してしまったのではないか。
2.宗像氏と水沼氏は全く異なった氏族。
宗像氏は現在の宗像市を流れる釣川河口あたりを本拠に活躍した海人族であり、水沼氏は現在の筑後川河口付近を本拠とした海人族ではなかったか。地域的にも離れ、異なった氏族が同じ神を斎祭るのはおかしい、あるいは、あり得ないというのが従来の見解であるが、先史時代といえども人の移動はあったはずで、まとまった人の動きがあれば宗教も移動したのではないか。双方の地に自然発生的に宗像神が生じたとは考えづらいが、宗像が「海方(うみかた)」の語を語源とするならば、あるいは双方の地形からいってあり得るかもしれない。なにぶんにも水沼氏のその後の衰退が著しく、水間氏というのは景行天皇の子孫という。その水間氏も雄略天皇によって追放されたかもしれないので、しぶとく生き延びた宗像氏とは異なり水沼氏の宗像神は早くに消滅したのかもしれない。
3.宗像三女神は誰もが氏神として祭っていた。
日本国憲法20条において「信教の自由」が保障されている現在においては同じ神を誰もが信仰しても問題にはならないが、古代においては○○氏の氏神(うじがみ)を××氏が信仰してはどうなるのかが問題だ。当初においては一氏族に一氏神が原則だったようであるが、地域社会が生じると氏神はムラの守護神たる産土神(うぶすながみ)や鎮守神(ちんじゅがみ)と同一視されるようになったようである。おそらく、草創期のムラは一氏族の本家や分家で構成されていたのであろうが、そのムラに鉱物資源が産出するなどとなったらいろいろなムラから人々が押し寄せてきたようだ。その場合の、産土神や鎮守神はどうなるかも問題で、最初は元からいた氏族の氏神を祭っていただろうが、時がたつにつれて後発の集団の神社なども創建されて、狭い区域で宗派争いが起こったか。

★まとめ

九州には筑紫君とか宗像君、水沼君、肥君、宇佐君、大分君、筑紫米多君、阿蘇君など「君」のカバネ(姓)を称える豪族が多いようだ。これは原始的カバネなのか大和朝廷からのカバネかは判然としないが、一説によると天武天皇の「八色の姓」制定の時、選に漏れた旧称で、「八色の姓」では「君」カバネは存在しないが日本人の「臣」とか「君」という文字好きがものをいってか「君」はその後も尊ばれたようである。天皇の尊称ないし敬称を古く大王(おほきみ)といったようなので、天皇家は畿内の中小「君」姓(カバネ)豪族をまとめて大王となったのか。畿内には「君」カバネの中小豪族が多かったらしい。ほかに「彦(ひこ)」姓をまとめた大彦(おほひこ)や「伴(とも・『魏志倭人伝』の不彌国の官「多模」は<とも>と読み、伴造のことか。<山田孝雄博士説>。しかし、多数説は「玉」のもののようである。)」カバネをまとめた大伴(おほとも)などがあるようである。ただし、大彦は現在の関東の旧毛野国や武蔵国一帯の「彦」姓豪族をまとめたものか。また、大伴は紀伊、和泉、摂津、淡路、四国の「伴」姓豪族をまとめたか。宗像氏は天照大神と素戔嗚尊との誓約で生まれた宗像三女神が始祖で三女神のいずれかが(「古事記」では多紀理毘賣命)大国主命との間に神裔が生まれ、宗像氏となっていることには異論がないが、水沼氏の場合は諸説があり、有力どころでは 1.水沼県主猿大海の子孫 2.景行天皇の皇子という国乳別皇子(くにちわけのおうじ)の子孫。ただし、国乳別皇子は国造(筑紫君が筑紫の国造という説あり)と思われ、弓の名手で弓頭神社の祭神で、海人族ではない。水沼別の祖という。 3.物部阿遅古連の子孫、などがある。物部阿遅古連(物部麁鹿火と同世代という)の子孫というのは時代が下りすぎており、景行天皇の子孫というのも天皇の子孫が海人族とは考えづらい。水沼県主猿大海の子孫というのが無難なのであろう。なお、宗像氏は天武天皇の八色の姓の制で朝臣のカバネを賜っている。その頃には、水沼氏は一族離散になっていたか。
以上より判断するならば、大彦や大伴は大和朝廷草創期に地域社会をまとめ上げて大和朝廷創建に貢献したのであろうが、九州の筑紫君以下の諸「君」姓豪族は統一ということがなく、逆に、筑紫君や南部の隼人族や熊襲族のように朝廷に反抗した氏族が多かったのではないか。曽君(曽於君)のように大和朝廷に帰順したものには「君」の姓を与えていたのであろう。宗像三女神について奉祭する氏族が宗像君と水沼君が競合するのも漁業権や水先案内業務、航海士業務、海運業務、造船等で双方競合し、守護神までもが競合してしまったのかもしれない。【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三】の三女神を「筑紫水沼君等祭神是也」は誤伝といってしまえばそれまでだが、水沼君にも何らかの一族伝承があったはずで、宗像(普通名詞では海方となるか)神は海人族水沼氏の神だったといいたかったのではないか。
航海技術や造船技術に関しても宗像氏と水沼氏では雲泥の差があったと思われる。宗像氏の航路は島伝いに朝鮮半島を目指したのに対し、水沼氏の航路は筑後川河口付近を出発したら一足飛びにノンストップで目的地の現・上海市までいく古代版無寄港航海だったのではないか。無寄港航海だったので航海日は一日で時間の節約にもなり、日本に色濃く残っている南方系の江南文化(三国時代の呉など)が水沼氏を中心とする海人族によってもたらされたのではないか。もっとも、呉の人が故国の戦乱等を嫌い日本にやってきたという説もある。また、有明海沿岸に多い装飾古墳も水沼氏関連領域には少ないという。「日本書紀」の「雄略天皇十年秋九月乙酉朔戊子 身狹村主靑等 將呉所獻二鵝 到於筑紫 是鵝爲水間君犬所囓死 【別本云 是鵝爲筑紫嶺縣主泥麻呂犬所囓死】 由是 水間君恐怖憂愁 不能自默 獻鴻十隻與養鳥人 請以贖罪 天皇許焉」が響いて、九州から現代でいう関東あるいは東北あたりに飛ばされてしまったか。茨城県や福島県に多い装飾古墳は九州の人がやってきて造ったという見解もある。即ち、左遷された水沼氏一族のことか。
水沼氏は現代的にいうと転勤族で、玄界灘から有明海へ、有明海から鹿島灘へと引っ越し、その間に口承以外の文章は失ってしまったか。千葉県の印旛沼界隈には宗像神社が分布している。印旛沼開拓・治水の神という位置づけらしい。元・宗像村という村もあったという。おおむね九世紀後半の創建と考えられている。こういうところを見ると、「ムナカタ」もなにやら「ヌマカタ」(印旛沼の沼。沼方)に見えてきて、水沼が先で宗像は後世の創作かとも思えてくる。天武天皇の妃に宗像氏出身者がいて「日本書紀」編者は慌てて宗像氏を取り上げたのではないか。そのとき借用したのが水沼氏の伝承だったか。宗像、水沼、阿曇の諸氏は海人族で元は外来の人ではなく、日本古来の人々即ち縄文人の末裔だったのではないか。あまり文字とは縁のなかった人々だったか。「新撰姓氏録」にも宗形、阿曇は畿内にもわずかながらあるが、水沼は皆無である。この点も借用・改ざんに便利だったか。

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