三種の神器

★はじめに

「三種の神器」と言えば、言わずと知れた「天皇家」の「正統たる帝の証し」として、「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」・「草薙剣」即ち三種宝物(「日本書紀」)を指す。しかし、品数に関しては二種とするものと三種とするものがある。二種神宝説は「古語拾遺」で、鏡と剣を言うと曰う。「日本書紀」でも、継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」とか、宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」と、あるいは、持統天皇四年(690)正月の条、「忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」とあり、二種神宝説を採るがごとき表記も見られる。三種宝物説は「日本書紀」「古事記」の説で、鏡、剣、玉を言う。中臣氏の説くところだが、宝器は奈良時代には後宮の蔵司が保管した。その後、後宮を制した中臣氏の一族である藤原氏の背後勢力により忌部氏は宮中祭祀において中臣氏に圧倒されてしまった。当然のことながら、神器も三種となったのである。しかし、三種の神器についてはその淵源はもっと古いという説もある。
弥生時代に入って漢(中国)の政変により漢の上層部の人々は中国大陸を追われ朝鮮半島へやって来て、その玉突き現象で朝鮮半島から九州北部地域に渡ってきた人もいたと思われる。その人たちの埋葬の風習として甕棺墓があったらしい。その中で一族の族長的な人の甕棺墓には副葬品として一つのセットとしての型があった。即ち、銅剣、銅矛のような武器類と、鏡類、玉類がワンセットとなって副葬されているのである。この副葬品の風習はその後古墳にも引き継がれたので、これを「三種の神器」の原型と解し、東京大学名誉教授故井上光貞博士は天皇家ないし三種の神器は九州北部に起源があると考えておられるようだ。

★「三種の神器」の由来は何か

「三種の神器」のようなそれを所有することによって正統な王や君主とみなされる品々を西欧では「レガリア(regalia)」という。東洋の先進国の中国では伝国璽(皇帝専用の印鑑)とか九鼎 (きゅうてい。<かなえ>のことで、一般に言う鍋や釜のことであるが祭器として使用された)などの所有者が正統な天子とされた。朝鮮半島では高句麗の東明王(朱蒙)の「ラッパと太鼓」、瑠璃王の「剣」、大武神王(無恤)の「鼎」が、三種の神器とされた。新羅については直接には解らないが、「日本書紀」垂仁天皇3年3月条において新羅国王子の天日槍命が渡来したと記す。その際に七物を持参し、現在の出石神社の神宝にしたという。但し、同書別伝で八物説もあるが、大刀が増えているだけである。百済については日本流に言うと高句麗の分家筋の国に当たり、高句麗と同じかとも思うが、昨今の韓流ドラマで朱雀・青龍・白虎・玄武の四神を封印し、朱雀の神器・青龍の神器・白虎の神器・玄武の神器などと言っている。何か後世的な作り話のようなので、一応、「日本書紀」で新羅の王子・天日槍命が招来したものとして、

羽太の玉(はふとのたま) 一箇
足高の玉(あしたかのたま) 一箇
鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 一箇
出石の小刀(いづしのかたな) 一口
出石の桙(いづしのほこ) 一枝
日鏡(ひのかがみ) 一面
熊の神籬(くまのひもろき) 一具

これなどは玉、小刀、桙、鏡などとなっており、我が国の三種の神器に似ている。但し、「古事記」は異なった趣旨の以下の八物を記している。

珠 二貫
浪振る比礼(なみふるひれ)
浪切る比礼(なみきるひれ)
風振る比礼(かぜふるひれ)
風切る比礼(かぜきるひれ)
奥津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)

これは日本の二種神宝説の剣・鏡に似るが珠・鏡では少しばかり様子が違うようである。因みに、比礼と言うのは風や浪を制御する航海の呪具という。

以上より判断するならば、中国、高句麗、百済の墓制は日本とは異質のものであろう。従って、日本の九州北部の弥生墳墓(甕棺墓)は、1.日本での自然発生説 2.朝鮮半島からの渡来説 3.稲とともに長江流域からの渡来説、などがあるが、副葬品は新羅の墓制に近いというものの、慶尚南道の金海貝塚から出土した甕棺は日本からの搬入品説もあり、あながち甕棺墓は日本発生説も捨てきれない。そもそも、古代新羅は倭人(日本)の侵攻がたびたびあり、且つ、三家ある王家のうち一家(昔氏)は日本人を始祖とすると言う。ほかの王家でも多かれ少なかれ日本人がからんでおり、日本の風習や制度が彼の地に渡ったとしてもおかしいことではない。昔氏でなくとも断続的に日本人の支配があったのではないかと言う見解もある。従って、甕棺墓は日本では九州北部で独自に開発されたものか。甕棺墓自体は世界中にある由。
九州北部の弥生式墳墓のもう一つの類型として支石墓(碁盤型。卓子(テーブル)型は日本にはない)がある。朝鮮半島では半島南西部の百済に濃密に分布している。おそらく、日本には半島南西部の方から導入されたものと思われる。そのほか変わったところでは、縄文時代晩期に長崎県(長崎県佐世保市の大野台支石墓群など)で中国浙江省の石棚墓群(碁盤型支石墓のこと)によく似た支石墓が出現している。支石墓の中は諸外国が石棺なのに対し、日本では甕棺となっている。また、副葬品も日本の支石墓は少なく(本格的に現れてくるのは身分差が生じてからと言う)、甕棺墓の三種の神器をセットにしたものは、日本プロパーなもののようだ。

中国や朝鮮半島に三種の神器的なセットになった神宝と言おうか呪具とかがなかったなら、何をお手本にして九州北部の人たちは三点セット即ち後世の「三種の神器」を考え出したのであろうか。
剣・鏡は中国大陸、朝鮮半島にもあるという。勾玉に関しては朝鮮半島にもあるという。但し、日本からの伝来品と説く見解もある。従って、三種の神器が国外から来たのなら朝鮮半島からであろう。九州北部の族長はみんな三種の神器とともに永遠の眠りについているので、現在、皇室が正統たる帝の証しとして、皇位継承と同時に継承するレガリア的なものとは異なっていたかと思う。そもそも、三種の神器のうちで「草薙剣」は熱田神宮の、「八咫鏡」は伊勢神宮の、ご神体になっているのに、「八尺瓊勾玉」だけが皇居にあるというのも三位一体的発想からするとバランスを欠くようにも思われる。これに対しては、三種の神器とは元々大和・伊勢・尾張にそれぞれ由来する宝物があり、後世それらを巧みにつなぎ合わせるため構想したものとの見解もある。三種の神器などはなかったと言うことか。宝物とは熱田神宮のご神体の剣(草薙剣)と伊勢神宮のご神体の鏡(八咫鏡)並びに大神神社の磐座を言ったものか。三種の神器は元々宮中の天皇の側にあったのであるが、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになった。剣と鏡はそれぞれ形代が作られた。八尺瓊勾玉は現在に至るまで天皇の側に置かれている。崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇のお三方は三種の神器を宮中から追い出そうと懸命であった。
崇神天皇6年、百姓の流離・背反を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神を宮中の外に移した。「古語拾遺」によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになった、と言う。(奉遷天照大神及草薙釼 令皇女豊秋鍬入姫命奉齋焉)
垂仁天皇25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す。倭姫命は天照大神を伊勢に鎮座。
景行天皇40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じる。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命より草薙剣を授かった。(倭姫命取草薙劔、授日本武尊曰「愼之。莫怠也」)
とは言え、この三天皇が追放したのは剣と鏡のようであり、玉は始めからなかったか。

崇神天皇60年7月、飯入根が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。「古事記」には日本武尊に類似の話がある。
垂仁天皇26年8月、物部十千根は天皇の勅で出雲に出向き、出雲の神宝の検校を行なっている。
両天皇は従来の怨霊のついたような神宝を廃止して出雲の神宝を採用しようとしたものか。

そこで「三種の神器」の由来だが、結論を言うと九州北部の三種の神器と大和の三種の神器は由来が違うのではないか。
「魏志倭人伝」に言う、
「我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授」
「金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤」
このほか織物などがたくさん下賜されているが、それらが後世まで残存するとは考えられず、一応、我々が目にすることができるのは「金印」「金塊」「五尺刀」「銅鏡」「真珠」「鉛丹」ではないか。そのうち真珠は「真珠一代」と言われるように劣化が激しく、鉛丹は絵の具そのものなのですぐに消費されたのではないか。さすれば残るのは「金印」「金塊」「五尺刀」「銅鏡」となろうかと思われる。卑弥呼女王もご下賜されたときは身の回りにおいて臣下の者に見せたと思われるが、ご臨終後はこれらのものはどうなるかだ。当時にあっては次の天皇なり大王は先代と同じところに住むわけではなく、結局、先代の遺物は墳墓の中へとなったのではないか。無論、今で言う「形見分け」もあったかと思う。しかし、そういうものも数代にわたって祭祀行事に使用したら劣化して「お墓入り」となったのではないか。結局、皇室の三種の神器は「古語拾遺」の言う「即 以八咫鏡及草薙劍二種神寶 授賜皇孫 永爲天璽 【所謂神璽釼鏡是也】」が正と言うことか。「金印」は誰でももらえるものではないし、「金塊」は鋳つぶして使用してしまったか。さらに、「更鑄鏡造釼 以爲護御璽」とあるのも、今でも天皇陛下が遠くへ移動するときは宮内庁の職員が宮中の「三種の神器」を持ち歩く制度のことを言ったものか。即ち、天皇家の「三種の神器」は元々は天皇の「お守り」で皇位継承の際の必須継承的なものかは疑問である。族長や豪族が墓に入れているところを見ると継承するものではなく一代限りのものなのであろう。
九州北部の「三種の神器」は弥生時代早期からあり、日本の「三種の神器」の発祥の地なのである。おそらく、鏡と剣のセットは中国や朝鮮半島にもあり、勾玉が日本で付け加えられたかと思われる。そもそも、銅鏡や銅剣のオリジナリティは中国にあり、中国では道教が呪具として使用したようである。それが、日本に入ってきて王権のシンボルとなったのはいかなる理由からであろうか。呪具と言うから全知全能の商売道具だったのだろうか。それを持つものがアフリカのマジシャンよろしく王となったのであろうか。勾玉も獣類の歯牙(しが)に穿孔(せんこう)したものが祖形とする説もあり、そうすれば何か護身用の道具であったか。鏡・剣とセットになったのは祭祀に主用されるようになったからではないかと考えられている。縄文・弥生・古墳時代を通じてみられるが、時代が下るにつれて装飾品としての使用は廃れてしまったようである。

★銅鐸はどうなったの

畿内発祥の祭具としては「銅鐸」が著名であるが銅鐸が神器に加わらないのはどうしたことか。これまた、結論を言うと銅鐸は大阪湾岸や淀川流域の祭具ではなかったかと思う。これらの地域の有力豪族だった大伴氏や物部氏が天皇家に取り込まれ大和へ引っ越しをしたのでその祭祀も廃れてしまったのであろう。一部は地域祭祀の祭具として残ったようだが多くはしかるべき時に廃用となったのであろう。神器だったので鋳つぶして再利用などにはせず、人が容易には発見できないような処へ埋納したのではないか。

★邪馬台国東遷説

九州北部の青銅器文化や甕棺墓などが突如として廃滅してしまう。これには九州北部の青銅器文化と畿内に起こった古墳文化とは密接なつながりがあると言う。即ち、九州北部の文化の担い手が青銅文化の末期に大和に移り、その地で古墳文化を発達させた。具体例としては、甕棺や石棺が埋められた地上に盛り土をした形跡があるが、これは高塚式古墳の封土の源流ではあるまいか、とか、甕棺の主な副葬品であった鏡・玉・剣は古墳の被葬者たる豪族の珍重するところとなり、ついに天皇家の「三種の神器」に発展した、など。
お説ごもっともであるが、これは何も九州北部の勢力が実力を発揮して大和へ行ったのではなく、大和朝廷が九州北部の有力者を大和へ集めたものと思う。その中に青銅器技術者や弥生墳墓築造者もいたことであろう。しかし、これらの人々が畿内の巨大古墳に影響を与えたかははなはだ疑問だ。ただ棺の上に土を盛っただけの人が堅牢な封土を築けるかはやや疑問が残る。

★まとめ

皇室の「三種の神器」は中国の皇帝からいただいた威信財を皇位継承のレガリアとしたものかと思われる。文献的には「魏志倭人伝」の邪馬台国(大和国のことであろう)の卑弥呼女王が魏の明帝からいろいろな品物を賜っているが鏡と剣はその中から採用されている可能性は高いと思われる。九州北部の弥生甕棺に副葬されている鏡・剣・玉については、京都大学名誉教授故小林行雄博士によれば、シベリアから中国東北部、日本に至る各地にあったシャーマニズムには、榊の枝などに凹面鏡をつるして太陽光線を反射させ、人々の目をくらました、と言う。私見ではそれに中国で道教の剣が加わり、日本で玉が追加されたのではないか。シャーマンと言えば女性(巫女)と思われがちだが、男性シャーマンもいた。有名な山口県の土井ヶ浜遺跡には制裁を受けたシャーマンの遺骨がある。九州北部の三種の神器は呪具で皇室の三種の神器は皇位を証明する品なのである。

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