助川とは

★はじめに

先日、常陸国(茨城県)や陸奥国(福島県)の装飾古墳を見ていたら現在の日立市は以前は助川村と言った、などと曰っている方がおられたので、調べてみたらやはり茨城県は発祥の地らしく助川の苗字を名乗る人がダントツに多く、次いで福島県となっていた。そこで茨城県、福島県の装飾古墳ともども助川の地名も調べてみたら、以下のことが浮かび上がってきた。

1.助川の地名は古典では「常陸国風土記」に常陸国久慈郡助川の駅家、「和名抄」に常陸国久慈郡助川郷があり、「続日本紀」天平宝字三年 (七五九) 九月二六日に 「玉野(たまの)・避翼(さるはね)・平戈(ひらほこ)・横河(よこかわ)・雄勝(おがち)・助河(すけかわ)ならびに陸奥国嶺基(みねもと)等の駅家を置く」 とある。前者は茨城県日立市助川町、後者は山形県東田川郡三川町助川を遺称地とするか。そのほかに現在では青森県三戸郡南部町下名久井助川という地名もあるようだ。なお、秋田県山本郡八峰町峰浜塙字助川と言う地名もあったようだが、八森町と峰浜村が合併して八峰町となった際消滅したようだ。

2.助川氏の発祥は常陸国久慈郡助川郷だけのようで全国に散在する助川姓の人はそのルーツをたどると茨城県日立市にたどり着くようだ。但し、助川氏のルーツの地名に常陸国多賀郡介川(茨城県日立市)と出羽国櫛引郡助川(山形県東田川郡三川町助川)を挙げている人がいる。

3.助川の語源も何説かあるようだ。何せ古文書に出てくる同地名は二ヶ所で、ほかに青森県に一ヶ所(今は大字の地名に含まれているが古くは字地名だった)あるだけなので語源などと言われるような言葉はあるのかどうか。

以上のことがおぼろげながら解ってきたが、1.の地名については二ヶ所をこねくり回しても始まらないので比定地その他の検討は割愛する。また、2.の助川氏についても分布が多いのは茨城県、福島県と言うことで古代の装飾古墳に関わった一族とも考えられるが別に所見を述べられている方もおられるので、おおざっぱな検討の中ではこれも割愛することとする。以上より検討するのは「助川の語源」と言うことになるが、一般に語られているほかに少し別の角度からも見てみようと思う。

★助川の語源

一般には以下の説が語られることが多いようである。

1.助川の「助」は、「常陸国風土記」によれば、助川の旧称「遇鹿(アフカ)」を、国宰久米大夫のときに河から鮭(原文では、鮏の字になっているが読みは不明)を取ったために名を助川と改めたが、土地の人の言葉では大きい鮭(原文は、鮏祖)のことを「須介(スケ)」と言ったという。よって、助川とは鮭川のことである、と。因みに、鮭川は鮭の単語が新しく出現(平安時代半ば頃か)したらしく鮭川及び鮭川村は山形県最上郡鮭川村だけである。もし、茨城県で鮭がたくさん採れたというなら鰐川の方がましではないか。以下の通りである。

茨城県鹿嶋市 鰐川(わにがわ)<鰐川沿いの町名>
茨城県潮来市 鰐川橋(わにがわばし)<鰐川に架かる橋>
茨城県神栖市 鰐川(わにがわ)<鰐川沿いの町名>
茨城県行方市 石神 鰐沢<地図で確認できず>
茨城県久慈郡大子町 鰐ヶ淵橋(わにがぶちはし)
こんなに鰐がうじゃうじゃいたわけではなく、おそらく鮭の意味ではないか。

学者でもこの説即ち助川とは鮭川であると言う説を採用する人が多い。

2.楠原佑介等編著「古代地名語源辞典」では、地形地名で「スキ(剥)・カハ(川)」、すなわち「(両岸が)崖をなした川」の意とみる。旧称の遇鹿(あふか)もほぼ同義の「アブ(崩)・カ(処)」(崖となったところ)と言う。これに対しては、日立市の助川町には現実に崖地はない、と反論する意見がある。しかし、これは程度問題であって日本の川は一般的に真ん中に水路があり、両サイドに川原があり、その先に河岸段丘の堤(つつみ)があるのが普通だ。しかし、中には川原はなく水路の両サイドは土手とか堤(つつみ)と言われる今にも崩れ落ちそうな堤防などになっていることがある。この土手や堤のことを崖と言ったのではないか。楠原等説は川が千仞の谷底を流れている状態を言ったものではないと思う。

3.菅(すげ)の生えてる湿地及びその近隣の川説

「十巻本和名抄」10に「菅唐韻云菅(・・・・・・須計)草名也」とある。須計(すけ)川即ち助川は菅(すけ)川で川原に菅の生えている川を言うか。楠原佑介等見解によれば、地名に植物名を入れるのはまったく話にならないそうで、素人考えというのであろう。しかし、菅(すげ)は用途が広く菅の採草地を菅(すが、すげ)××と名付けているところは多い。例、菅原、菅田、菅野、菅沢、菅岡など。これらを全部、菅の読みは「すか」で「州処(すか)」の意味に解し、砂地というのはいかがなものか。また、「スキ(剥)・カハ(川)」説にも無理があるのではないか。なお、「スケ」の当て字で一番多いのは「菅」の字である。

以上は一般に論じられている「助川」に対する語源説だが、以下は私見が書籍等を見て論理を組み立てたものである。

4.「すけ」(から。ので。)は「さかい(SAKAI)」の転という。

「そなさかい、明日は晴」 → 「そうすけ、明日は晴」
SAKAIのAIは「え」と発音するところもあり、その場合は「さけ」となり、さかい→さけ→すけ、となったか。元の「さかい」を堺と解すれば、助川は元々は堺川(境川、界川など)の意味であり、久慈郡と多珂(多賀)郡を分ける堺にある川の意味か。

5.文字通りの助川で上水や農業用水等を引水する用水路もしくは支流(数沢川)の意味か。

常陸国久慈郡助川郷の推定地域を地図で示している人がいるがそれによると助川郷とは現日立市助川町界隈を言うようで、助川の現呼称と思われる宮田川とは少しばかり離れているようだ。よって、宮田川とは直接関係がなく、宮田川は宮田川、助川は助川と言うことではないか。また、山形県東田川郡三川町助川もあまり川とは関係がなくせいぜい小川がある程度でこれまた少(すく)川で小河川のことを言ったものか。但し、現今の三川町助川は一級河川<赤川>に接しているようである。しかし、赤川の前は助川と言ったというような伝承はない。逆に赤川にはアイヌ語語源説があり、赤とはよく言われるAQUA(アクア)から発生した言葉か。

6.類似の地名として、高知県の宿毛市はあるいは古く「すけ」と読んだか。

高知県の「宿毛」は「葦の枯れたもの」という古語「すくも」の当て字という。あるいは、藻屑説もあるがあまり採用されていない。高知県宿毛市も茨城県日立市もややもって太平洋岸に面しており、同じ海洋文化圏かとも思う。菅と言い葦と言い元々は同じものを言ったかも知れないが、何分にもかなり早くから発音が違うことが致命的だ。また、埼玉県さいたま市岩槻区笹久保字須久毛(鎌倉時代中期<1326>の書状に武蔵国須久毛郷とある)もスクモとなっているのでスクモは元からあった言葉か。

★まとめ

以上を概括してみると、やはり専門家である楠原佑介等説の「スキ(剥)・カハ(川)」、すなわち「(両岸が)崖をなした川」の意と見る説が優れてはいると思う。崖と言っても何も断崖絶壁を言うのではなく、脆(もろ)い土手ほどの意味かと思う。ただ、助川郷との整合性から言ってどうなのであろうか。おそらく、助川郷には水量豊富な水がとうとうと流れ両岸がすぐに土手になっているような川が流れていたとは思われない。当時の地形と今の地形は違うとは思うが、助川(現宮田川とする)と助川郷の関係が今ひとつすっきりしない。
助川をマスノスケ(鱒の介)の介に飛びつくのは安易な考えではないか。もっとも、マスノスケは英語では KING SALMON と言うらしく、命名の発想は日本と同じらしい。日本の介は国司の四等官のうち次官である介(すけ)を意味し、長官である守(かみ)は在京なので介は現地では最高位となる、と言う説がある。しかし、古代人の鮭の消費量と鮭にまつわる地名はアンバランスで、助川ないし鮭川の地名が一桁しかないところを見ると、助川イコール鮭川にはならないと思う。
助(すけ)は菅(すけ、すげ)のことであると言う説も某大家によれば動植物名を地名とすることはほとんどない、と言う見解からすると、採用しがたい説かも知れないが、古代人にとってもその生存に関わる動植物があったはずでその目印として動植物名を地名に付けることは考えられないことではないと思う。特に、菅(すが、すげ)の地名は多いように思われる。但し、菅川(すけかわ、すげかわ)の地名はあまり見かけないようだ。
くどくどと言っても切りがないので、結論を言うと常陸国久慈郡助川郷と出羽国助川の双方の立地条件を満たすものとしては、少(すく)川説が穏当ではないか。即ち、助川とは上水や農業用水等を引水する用水路もしくは支流などの小河川を言ったものと思料せられる。

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