装飾古墳

★はじめに

装飾古墳とは現在では古墳内部に浮き彫り、線刻、彩色の文様等が施された古墳を言うようであるが、以前は専ら彩色された古墳をいい、地域も九州北部(特に、有明海沿岸)と福島県太平洋沿岸(茨城県の虎塚古墳を含む)に集中していた。浮き彫りや線刻は古墳時代初期のものに多く、石棺や石障に描かれていることが多い。九州から途中を飛ばして福島県にだけあるので九州の豪族一族が福島県に引っ越して装飾古墳を広めたのだろう、などと言う、今では思いもよらない見解を述べる大先生もいた。その起源とするところも、外来(高句麗、中国)のものとする説と日本に自然発生(呪術に起因するという。多数説か)したものとする説が対立していたようだ。装飾古墳で問題になるのは海外の壁画が故人の生前の栄耀栄華を描いて目的がはっきりしているのに対し、日本の場合は幾何学文様<直弧文(ちょっこもん)・蕨手文(わらびてもん)・鍵手文(かぎのてもん)・円文・同心円文・連続三角文・菱形文・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・区画文など>があり、抽象的で何を意味しているのかはその道の泰斗でも解らないらしい。よって、石室の中の壁画等はまちまちな解釈がなされ装飾古墳内部の文様等の解釈学が必要だ、と説く先生もいる。そこで本稿では九州を中心とした装飾古墳に描かれた文様の解釈を主に行ってみる。

★なぜ粉飾古墳は発生したのか

1.古墳の文様による装飾は初期の頃からあると言っても、それは単純な石棺の蓋などに描かれたあまり意味のない装飾で、図文としては直弧文、鏡、円文、武器武具などであるが一般には魔除けとしての辟邪(へきじゃ)と考えられている。即ち、悪霊が石棺に入るのを防ぐためである。
ところで、ここで問題にする装飾古墳は抽象文様(丸、三角、バツ印等)と具象文様がそろっている彩色された古墳を言うのであるが、この種の文様が九州北部の古墳に現れるのは五世紀の終わり頃と言われ、竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品などが主体だった前期古墳に対し、横穴式石室で、副葬品は軍事的な馬具・甲冑・刀などに移行した中期古墳時代への過渡期であったと思われる。当然のことながら古墳築造の先進地は畿内で、副葬品とて畿内から地方へ伝播していったと思われる。そこで、当時はやや僻地と思われる有明海沿岸地域では畿内の副葬品が軍事的な馬具・甲冑・刀などに代わっていたのに未だにその前段階の呪術的な鏡・玉・剣・石製品などに固執し、大和から派遣された古墳築造監督官(土師氏か)に執拗に要求したのではないか。要求された方も無い物ねだりをされても困ってしまい「そんな物はもうない」と言っても現地の人たちは納得しなかったようだ。おそらく鏡は舶載品で外国(中国・朝鮮半島)でも既に遙か昔に生産終了となっていたのではないか。国産品だったらある程度需要があれば生産再開もあっただろうが、おそらく九州北部以外には要望はなかったのであろう。そこで「鏡・玉・剣」の代用方法として絵画が描かれたのではないか。一説によると、装飾古墳には副葬品が少ないと言う見解もある。日本では青銅器と鉄器がほぼ並行して導入され、青銅器は祭祀具、鉄器は実用具として棲み分けをしていたようだが、有明海沿岸の人々は失礼ながら柔軟性に乏しくいつまでもそれにこだわっていたと言うことか。とは言え、彼らは装飾古墳という我が国独自の古墳を開発したのであり、一長一短はあったと思う。

2.これは私見で恐縮ではあるが、雄略天皇の末期に「日本書紀」によると何やらそれまでの現在で言う福岡港発朝鮮半島経由の北回り航路から柳川港(湿地帯であったようで具体的場所の特定は難しい)発南回り航路の開発を行ったのではないかと思われる節がある。具体的には、

景行天皇十八年七月七日
時に水沼県主猿大海、奏して言さく、「女神有します。名を八女津媛と日す。常に山の中に居します」

雄略天皇十年九月四日
身狭村主青等、呉の献れる二の鵞を将て、筑紫に到る。此の鵞、水間君の犬の為に喰われて死ぬ。是によりて、水間君、恐怖り憂愁えて、自ら黙あること能わずして、鴻十隻と養鳥人とを献りて、罪を贖うことを請す。天皇、許し給う。

水沼県主猿大海と水間君はどういう関係にあるのだ、と言われればそれまでだが、血縁関係はなくとも近隣の地域(久留米市三潴町界隈か)に住んでいたのではないか。

水沼県主猿大海は「八女津媛」と言っているのでおそらく彼は有明海沿岸の住人であろうと思われる。もっとも、水沼県主猿大海の水沼県主を役職名、猿大海を氏名と解するなら、「猿」は一般に崖地、崩落地を言い、「大海」は猿大海邸の前面に広がる有明海の大海原を言ったのかも知れないが、今から見ればずいぶん危険な場所に住んでいたのではないかと思われる。

「呉」の国とは、中国南北朝時代の南朝の王朝「宋(420年 – 479年)」のことと言われている。首都は建康(現・南京市)。

文献は少ないが、当時は飛行機もない時代だから、おそらく身狭村主青等は南回り航路で上海、南京へ行き、帰国も上海から柳川へ南回りで帰ってきたものと思われる。その後、この南回り航路は雄略天皇崩御とともに尻切れトンボになったようであるが、有明海の地元では地理的な条件からそれなりに利用されて中国との交易を行っていたのではないかと思われる。
話は飛ぶが、中国との交易に従事した筑紫商人が中国での見聞を広め、中には壁画古墳を見学した人物も現れたのではないか。彼が帰国して古墳築造業者に壁画古墳のあれやこれやを話しているうちに「青銅器はいらない、絵画でいこう」となったのではないか。彼我の絵画の内容が大きく違うのは描画能力の稚拙と言うより、中国墳墓の見学者と日本の古墳築造者の意思疎通が十分ではなかったのではないかと言う説がある。もっとも、中国・朝鮮の壁画古墳で日本に影響を与えたものは高句麗の四神の玄武・青龍・朱雀と見られる図像(福岡県宮若市・竹原古墳)と同じく高句麗の月像と思われる円文の近くにある月を象徴するヒキガエルの図像(福岡県うきは市・珍敷塚古墳)の二例しかないという見解がある。中国の影響となると奈良県明日香村の高松塚古墳となるのであろうか。

この話には後日談があるのではないか。即ち、呉の献上した二羽の鵞は水間君の犬に喰われて死んでしまう。雄略天皇はお年を召されて好々爺となり、水間君の陳謝に対して「いいよ、いいよ」とお許しになったというのが「日本書紀」の見解であるが、実際はどうだったのか。「三つ子の魂百まで」と言うことわざもあるが、雄略天皇の乱暴な性格は簡単に変わったものか。おそらく水間君が天皇の元へ謝罪に来たときは天皇はカンカンになって怒り、「お前みたいな間抜けは一族郎党荷物をまとめて蝦夷との戦の最前線に行って討ち死にしてしまえ」などと怒鳴り散らしたのではないか。水間君は取るものも取りあえず一族もろとも現在の茨城県か福島県に落ち着いたのではないか。装飾古墳が福島県の太平洋岸に多いと言うのも筑紫の豪族一族が福島あるいは茨城へ引っ越したからと言う説があながちいい加減なものではないと言うことになろうか。この説は確かその道の大家の意見でインターネットユーザーの無責任な意見ではない。

★壁画古墳の図像の意味

抽象図形(幾何学文様)
直弧文(ちょっこもん)・蕨手文(わらびてもん)・鍵手文(かぎのてもん)・円文・同心円文・連続三角文・菱形文・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・区画文など。おそらく、これらは基本的に呪術的副葬品を図案化したものであろう。
*直弧文(ちょっこもん) 一般には辟邪を表すとされる。何をモデルにしたかは解らないが、バツ印が多いのは現代で言う「立入禁止」の意味であろうか。図案考案も難解らしく、作者に意図を聞かなくてはわからないと言うところか。ほかに組帯び説、鏡の割れ目説など。
*蕨手文(わらびてもん) おそらく呪具副葬品のうち「勾玉(まがだま)」を図案化したものであろう。ほかに靫(ゆき)の上に描かれているものは靫を背負う肩帯のようなものか。靫の横から出ている蕨手文は靫がずり落ちないように胸や腹で結ぶ帯であろう。動物(馬など)の廻りに描かれているものは牧草か。渦状文の一種とも言う。渦状文は、水流の渦、指紋、巻貝の螺旋形、ヘビのとぐろなどが起源という。渦状文は見ようによっては木材の年輪を連想させ木棺や刳舟なども考えられる。
*円文・同心円文 呪具の鏡(三角縁神獣鏡など)、太陽、月、的など。おそらく地方の人にとっても鏡はいちばん欲しかったものと見え、図像の中には真ん中に紐(ちゅう)があり紐(ひも)でつるしてあるほか、周囲には鋸歯文を描いてある。福岡県うきは市の珍敷塚古墳には太陽の輝く現世からゴンドラ風の舟に乗って靫が並ぶ難所を越えてヒキガエルが住むという月の来世へ旅立つという絵が描かれている。何か「記紀」の言う「黄泉」とか「根の国」とかとは少しばかり違うようだ。的(まと)というのはいかがなものか。福岡県筑紫野市五郎山古墳の壁画に的に弓を射る人が描かれているように見える図もあるがあれは的(まと)ではなくて月なのではないか。月の中にはいろいろな動物がいると想像され、日本ではウサギが有名だが、そのほかヒキガエルなども一部の地域で語られているようだ。そういう動物を弓で射殺そうとした図ではないのか。的説は普遍的ではなく的外れなのでは。
*連続三角文 連続三角文にせよ単一の三角文にせよその意図したところは銅鏡の縁に描く鋸歯文ではなかったか。鋸歯文は建物の内と外とを分ける塀のように境界を意味したのではないか。辟邪の一種か。
*菱形文 三角文の変形したものか。三角文と同じく地文として描かれることがあり、辟邪とか境界を表したものか。蛙の胴体を図案化したものとの説もある。
*双脚輪状文 諸説がある。長い柄をつけて貴人にかざすさしばをかたどったもの、あるいは、スイジガイの貝殻説、冠帽状かぶり物(双脚は鍔を表すという。現今のセイラー帽で後<うしろ>に二条のリボンを垂らしたもの)説、クラゲ説、高句麗の蓮華文起源説、動物模倣説、円文と蕨手文の複合説など。南方の貝殻は装飾品として使用(腕輪など)されたのであるいは貝殻が起源かも。
*区画文 土地の区画をヒントに道(道路)を図案化して区画を表す文様としたか。縄文時代からあるという。

具象図形

*福岡県筑紫野市五郎山古墳
生前の墓主の生活ぶりが一番よくでている。馬や舟に乗って狩りに出かけたのだろう。犬や馬を家畜として飼養していたようである。同心円の外が赤く縁取られたのが太陽で、黒く縁取られたのが月か。靫と舟が多く、当時、威力を発揮した武具は弓矢であったことが解る。舟も二艘描かれているが載っている箱のようなものは木棺か古墳用の石材か。墓主は弓の練習に余念がなかったことは言うまでもない。
*福岡県うきは市珍敷塚古墳
左に現世の太陽と鳥舟が、中に靫が三腰(こし)、右に来世のヒキガエルと月、楯を持つ人間、梯子状のもに止まっているのは現世の鳥か。舟は用済みになって沈みつつあるのか。ヒキガエルは高句麗の絵では月の中に収まっているのに日本では月から飛び出しているのはおかしいという人もいる。ピョン、ピョンと飛び出して二匹になっている。
*福岡県宮若市竹原古墳
一対の「さしば」(団扇様の日よけ)、龍(四神の青龍か)、馬を曳く人(舟から降ろそうとしているのか、載せようとしているのか)、舟、波形文、三角連続文、玄武、朱雀などが描かれている。

以上の絵画はいずれも中国や朝鮮半島の影響を受けていると思う。

★まとめ

装飾古墳は畿内に波及しなかったと言うが、当時の人々にとっては装飾古墳は遅れた古墳ではなかったか。中には最先端の副葬品を入れている古墳もあるが、多くは少ない副葬品の代用品として装飾絵画を描いたのではないか。筑前の絵画は朝鮮半島の、筑後や肥後の絵画は中国の影響を受けたものか。当時の日本には古墳の壁画を描くような画師は畿内にしかいなかったであろうし、しかも高句麗、新羅の国から来た人だという。少なくとも最先端の壁画というなら高松塚古墳の出現を待たなければならないのではないか。装飾古墳と壁画古墳は違うと言うことである。但し、畿内の古墳には玄室上部に鉤(かぎ)型鉄製品が遺存するするものがあり、この金具に布幕を掛けてその布幕に九州の古墳壁画と共通する図文を描いたのではないかと言う見解もある。でも、その数は少ないのではないか。また、他界観も「記紀」に書かれている「黄泉の国」とか「根の国」とかとは少し違うような気がする。交易を生業とする人々は舟(鳥舟)で死者をあの世に送るようで、あの世とは海の彼方・水平線の彼方(ニライカナイの他界観)ないし月(オボツカグラの垂直他界観)のようである。海の彼方は南方交易(中国・江南か)の影響を、月は朝鮮半島(主として北方・高句麗か。天孫降臨もこちらからか)との交易の影響を受けたものであろう。日本人の他界観はその地域の人がどこの国の人と主に交流があったかによってがらりと変わるもののようである。

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