大阪湾北岸の支配者

★はじめに

現在の大阪湾は大阪府と兵庫県(淡路島も含む)に囲まれた波静かな内海だが、古代から中世にかけては今とは少しばかり様相が違っていたようである。人によって描く地図は違うが、当時は現在の大阪市や東大阪市、守口市などの地域は河内湾・河内湖と言われ、海や湖となっていたようである。当然、現在の大阪府の都市には人の住まないところが多かったのではないか。従って、旧摂津国の人口は今の兵庫県側に偏っていたと思われる。元々西日本の縄文遺跡は少ないと言われるが、住む土地のない大阪府はますますだっただろうと思われる。
ところで、縄文弥生の時代に大阪湾岸の人口が集中していたかも知れない六甲山麓に保久良神社(兵庫県神戸市東灘区本山町)というのがあり、祭神がかの著名な椎根津彦命(しいねつひこ。「日本書紀」による表記で珍彦<うづひこ>とも。「古事記」では槁根津彦<さおねつひこ>という)と言うことで一説に「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長」と言い、それに追随するものとして、

「日本書紀」仁徳天皇
「六十二年夏五月 遠江國司表上言 有大樹 自大井河流之 停于河曲 其大十圍 本壹以末兩 時遣倭直吾子籠令造船 而自南海運之 將來于難波津 以充御船也」とか、

「続日本紀」巻第廿九〈起神護景雲二年正月、尽三年六月。〉
「《神護景雲三年(七六九)六月癸卯【七】》○癸卯。摂津国菟原郡人正八位下倉人水守等十八人賜姓大和連。播磨国明石郡人外従八位下海直溝長等十九人大和赤石連」とかで補強する見解もある。

前者は倭直吾子籠(あごこ)が造船技術者であったと言うのであろう。後者は倉人水守や海直溝長が椎根津彦命の子孫であるというのか。倉人水守は保久良神社由緒書に「椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る」とある由。

★上記諸説の検討

*神武天皇と珍彦(うづひこ)が出会ったのは速吸門(はやすいのと)と言うが諸説がある。1.豊予海峡の古称(「日本書紀」)2.吉備国の児島湾口の古称(「古事記」)3.明石海峡の古称(「古事記」)の三説が有力である。1.については大分県大分市佐賀関に椎根津彦をまつる椎根津彦神社がある。2.については、岡山県岡山市東区水門町に、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩をまつる亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。3.については、兵庫県神戸市垂水区に海神社(わたつみじんじゃ。古くはあま、たるみ)があり、祭神は「中津綿津見神、底津綿津見神、上津綿津見神」で、神功皇后帰還時創建と言う。祭神については「豊玉彦・豊玉姫・椎根津彦」とする説がある、と言うのが唯一椎根津彦にまつわるものである。やはり関連神社は神戸市の保久良神社というのであろうか。ほかに、珍彦(うづひこ)というので珍彦の「うづ」は『渦』のことで、速吸門とは鳴門海峡のことである、と言う見解もある。やはり「椎根津彦命は大阪湾北側の雄」とするならば、明石市あるいは神戸市あたりに椎根津彦命にまつわる神社があっても良さそうなものだが、現実にはほとんどない。この地域は海人族の主なる神社は住吉神社であり、次いで海(わたつみ)神社である。その意味からも椎根津彦命(保久良神社の祭神)が有力な海人族と言えるかどうか。いずれにせよ椎根津彦命は綿津見族(阿曇氏)に連なる人のようであり、「記紀」の記載では大阪湾岸で断然優位と思われる住吉系海人族を差し置いて綿津見系(阿曇氏)海人族を主力としている。また、変わったところでは倭国造は大和国の国造であるとともに瀬戸内海の海人族をも管掌していたという。その現状を追認して椎根津彦命の説話が作られたのだという。
*倭直吾子籠は仁徳天皇とともに難波高津宮(現大阪市中央区あたりか)にいたのであろうか。一応、仁徳朝から雄略朝の国造と言うことだが、倭国造一族の分家の人か。倭直祖麻呂の弟という。国造は都に上り天皇に宮仕えしていたのかも知れないが、倭国造と言うからには主たる居住地は奈良盆地(ほかに闘鶏国造、葛城国造がいた)であろう。神武天皇から応神天皇まで400年ほどを経ていると思われるがそんな長い間大河もない山国で造船の技術を代々継承できたものか。倭直吾子籠は「古事記」にはあまり出てこないが、「日本書紀」には、仁徳天皇即位前紀に「額田大中彦皇子が倭の屯田(みた)及屯倉(みやけ)を私に管理しようとしたところ、屯田司出雲臣之祖淤宇(おう)宿禰がいちゃもんを付け、結局、韓国に出張していた倭直吾子籠を淤宇宿禰が呼びに行き子細を聞くことになった」とか、履中天皇即位前紀に「皇太子である履中天皇に違え弟の住吉仲皇子に与したため皇太子に殺されそうになり妹の日之媛を采女として貢ぎ「仍請赦死罪」という。このとき、住吉仲皇子に与したものに淡路・野嶋之海人である阿曇連濱子がいて倭直吾子籠は海人族と知り合いになったのではないか。阿曇連濱子は後に履中天皇に捕らえられ履中元年四月墨刑に処せられ、<免從濱子野嶋海人等之罪、役於倭蔣代(こもしろ)屯倉>ともある。ここいらで阿曇海人族と大和国の関係が構築されたか。
*倉人水守や海直溝長が大和連ないし大和赤石連に賜姓されたのは神護景雲三年(769)と言うことで保久良神社創建は奈良時代末期か平安時代初頭頃と言うことかと思う。そんな遅くに何のために創建したのかと言うことになろうかと思う。保久良神社由緒書によると「社名の起因も1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る 2、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、古い方を採用すれば神功皇后時代となるかと思われるが、何分にもインターネットの一般ユーザーも言っているとおり資料(古記録)不足で式内社なので平安時代にあったことは間違いないが、その内容となるとはなはだ不明な点が多い。倉人水守が椎根津彦命の子孫なら海直溝長は阿曇氏の出身であろう。従って、倉人水守が大和連と言ってもおかしくないが、海直溝長が大和赤石連というのはおかしいのではないか。そもそも、倭国造(大和国)の直系の子孫が摂津国の山の中に居るのもおかしい。

★他の諸説の検討

1.保久良神社とか倉人水守と言うが、「保久良」は秀座で磐座の意と言うのが多数説のようである。ほかに、火倉、火の山、烽火場、火座などの諸説がある。もう一つ式内社で穂椋神社(論社が二社あり、そのうち一社は、大正4年7月までは和泉市和田町小倉山に鎮座。現在、和泉市三林町の春日神社に合祀の穂椋神社。もう一社は岸和田市三田町小倉にある穂椋<ほぐら>神社。いずれの地にも小倉の地名があるので小倉もホクラの転訛したものか)と言うのがある。保久良神社も穂椋神社も山の中にあったらしいが、日本の神社(神殿)で平地に起源があるのは積雪量の多い北国の神社くらいで、ほとんどの神社は山頂とか山腹に起源があることが多い。よって、「ホクラ」の意味を秀座即ち磐座と即断するのはいかがなものか。保久良神社(兵庫県神戸市東灘区本山町)でさえ「磐座と見られる岩が露出していることから、降臨した神にものを捧げた場所に由来して社名が付けられたのであろう」と保久良神社由緒書を否定するがごとき見解もある。私見では「ホクラ」は「穂蔵」と解して稲の倉庫の意味に解したい。また、倉人水守の倉人も蔵人であり、今で言う倉庫係ではなかったか。天皇の秘書役の蔵人(くろうど)とは違う。あるいは、穂高蔵で高床式倉庫を言ったものか。穂椋神社の方も詳細は不明であるが現在の祭神を「保食神」とするインターネットサイトが多いようである。明治12年「神社明細帳」では「祭神不詳」となっているようである。池上曽根遺跡のお膝元だけあって穂椋神社の方は弥生時代の稲作関連神社であることを色濃く出している。祭神の「保食神」は食物(「日本書紀」に保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた、とある)の神様ではないのか。「ホクラ」はそれらの食物を保管する倉庫であり、食糧の不足する冬場を乗り切る安全弁であったのではないか。あるいは、保久良神社は高地性集落の跡(保久良神社遺跡)という見解もあるが、根拠とするのは『灘の一つ火』(一種の常夜灯)と言うことのようだが、高地性集落は単に信号発信所というのではなく集落の語がつくとおり人々の生活の場だったのであろう。
2.「記紀」編纂の史料として、
「日本書紀」持統天皇五年(691)
「八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記」とあるが、阿曇氏はあっても倭氏はない。ほかにも多くの有力氏族が選に漏れているが、国政に参与する度合いが低かったと見なされたのであろうか。中央豪族ばかりであるが、各氏の先祖の説話が天皇氏と競合したり、相反するものであったりしたらまずいと思ったのか。吉備氏、出雲氏、尾張氏などは天皇氏の圏外の氏族となったようだ。

★結論

1.速吸門を明石海峡に関連づけるなら椎津根彦命を祀る神社は播磨国明石郡(神戸市垂水区宮木町)の海神社(あまじんじゃ、現・わたつみじんじゃ)がよいのではないか。
2.保久良神社は、本来、椎根津彦命とは何ら関係がなく食物の神を祀っていたのではないか。
3.「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長」と言う見解は、「記紀」の説くところでは大阪湾北側にかかわらず大阪湾沿岸は綿津見(阿曇氏)系海人族が跋扈していたようであり、天よりの天降り神話を始め国生み神話等はこの海人族から採取したもののようである。しかし、現実には大阪湾岸には同じ海人族の住吉系海人もいたのであり、例えば、住吉大社と摂社・大海神社(おおわたつみじんじゃ)との関係のように住吉系の方が上位にあったのではないか。もっとも、大海神社は津守氏一族の神社だったようで津守氏は綿津見系で住吉系に取り込まれてしまったようだ。
4.珍彦と摂津国八部郡(やたべぐん)宇治郷(うぢのごう)との関係については宇治郷の「うぢ」が珍彦(うづひこ)の「うづ」に音が似るとのことで、「雄伴郡は、淳和天皇の時代(在位823年 – 833年)、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名された」とあるように、例え、珍彦と宇治郷が同根であるとしても、雄伴郡(大伴。雄伴国と書く古文献もあるらしい)の下部組織として宇治郷があるわけで、雄伴郡(大伴)が住吉系で宇治郷が綿津見系となるのではないか。即ち、住吉系海人族が上部機構であり、綿津見系海人族は下部機構であったのではないか。
5.総じて大阪湾岸は広範囲に大伴氏が縄文弥生の時代から覇権を握っており、一族かどうかは解らないが四国には佐伯氏、久米氏などがおり、紀氏とは隣同士だったとのことである。大伴氏は今で言うコンツェルンの総帥で水産業、製塩業、採石業などを生業としていたのではないか。海神社とか大海神社などがあるので綿津見(阿曇)系海人もいたとは思うが、「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長」と言うほどのことではなく後世の播磨国明石郡にいた中小土豪ではなかったか。とても「大阪湾北側を支配する海部の首長」とまではいかなかったのではないか。椎根津彦命一族は大伴コンツェルンの水産業のうち大阪湾北岸の水先案内を担当していたか。

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