先史時代の人はどのように日本列島を移動したか

★はじめに

氷河期の日本列島の位置を地図で見ようとインターネットで検索していたらほとんどは予想どおり間宮海峡で沿海州と樺太が繋がり、宗谷海峡で樺太と北海道が繋がっている。南北に細長いユーラシア大陸の半島である。しかし、なかには北海道、樺太、沿海州を一体化した半島がユーラシア大陸極東の半島として描かれているものもある。我が国の紀伊半島のような感じだ。もし、これを正とするならば当時(二万年前という)の北海道は完全にユーラシア大陸の一部であり、本来ならもっとシベリア方面の動植物の遺物や化石があってもいいはずだが、そんなにはないようである。但し、津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘したブラキストン(最近はブレーキストンと言うらしい)線があるので、やはり北海道と古本州島は元々大陸と孤島と言う関係であったことが解る。しかし、その後の地球温暖化により現在の日本列島が形成され、四島の大きな島とその付属諸島から成り立っている。当然と言えば当然かも知れないが当時にあっては現在の北海道と旧古本州島に住む人は異なった人たちで男性を取り上げれば、Y-DNA Haplogroupは、おそらく、北海道で「D1b」(以前はD2と言われていた)で古本州島は「C1」であったと思われる。女性も北海道ではmtDNA「N9b」、古本州島では「M7a」かと思われる。北海道のY-DNA「D1b」もmtDNA「N9b」も現在の樺太や沿海州などの日本で言うシベリアに起源があったのであろう。ことに、Y-DNA「D1b」は北海道、樺太、沿海州が一体化した半島の北海道エリアで発生したのではないか。また、古本州島のY-DNA「C1」やmtDNA「M7a」は沖縄県の先島諸島や台湾あるいはその対岸の華南などが起源、とする説もあり、南方系の人と認識されているようである。

ところで、日本列島・日本人の元祖とも言うべきY-DNA「D1b」とmtDNA「N9b」やY-DNA「C1」とmtDNA「M7a」がどこからやって来たのかは大きく分けて北方から来たとする説と南方から来たと言う説に分かれている。理由はいろいろあり、どの説に信をおくべきかは難しいが、一応、南方説は東京大学OBの先生に多いようである。北方説は大阪医科大学元学長松本秀雄博士を始めとして関西系の大学出身者に多いようである。全部を紹介できないので、変わったところとしては、元国立科学博物館人類研究部長溝口優司という先生のお説では形態学的形質の典型性確率で調べたところ東北地方の縄文時代後・晩期の集団とオーストラリア南東部、メルボルン近郊のキーローから見つかった化石人骨が最も近縁だったと言うことです。スンダランドから南北へ人が別れて移動したと言うことですが、お説ごもっともかと思われるが、これは日本ではY-DNA C1a1(旧C1)」とmtDNA「M7a」の人々と思われオーストラリアの化石人骨もアボリジニであれば、これまたY-DNA「C系統」と考えられる。Y-DNA C1a1(旧C1)は青森県まで確認されているので縄文時代の東北地方にも存在していたと思う。日本ではY-DNA C1a1(旧C1)は少数派で日本人の移動の大宗には繋がらないと考えられる。なお、Y-DNA C1a1(旧C1)」が北方から来たという説はない。

次いで、Y-DNA「D1b」とmtDNA「N9b」に関してであるが、Y-DNA「D1b」については北方から来たと言う説と南方から来たと言う説がある。ここでくどくど言っても話にならないので、最近の傾向として、
ISOGG (International Society of Genetic Genealogy)<遺伝子系譜学国際協会(いでんしけいふがくこくさいきょうかい)>というところは以下のごとく宣っている。

Y-DNA haplogroup D is seen primarily in Central Asia, Southeast Asia, and in Japan and was established approximately 50,000 years ago. Subgroup D-M15 is seen in Tibet, Mongolia, Central Asia, and Southeast Asia, and the subgroup D-P47 is seen in Central Asia. The subgroup D-M55 is seen almost exclusively in Japan. The high frequency of haplogroup D in Tibet (about 50%) and in Japan (about 35%) implies some early migratory connection between these areas. Examination of the genetic diversity seen in subgroup D-M55 in Japan implies that this group has been isolated in Japan for between 12,000-20,000 years. The highest frequencies of D-M55 in Japan are seen among the Ainu and the Ryukyuans. Subgroup D-L1366 is so far noted only in the Philippines.

この意見を集約すると、北方説で日本に来るまでの間にY-DNA「D1b」が見当たらないと言う批判に対してMongolia, Central Asiaを挙げている。草創期の移動経路につき「migratory connection」とはチベットと日本を直線で繋いだ線上を上下して確保された道を移動路と見ているのではないか。よって、東南アジアより中国へ北上し、朝鮮半島などより日本列島にたどり着いたというのは採用するところではない。東南アジア諸国や島嶼部へはチベットから行ったと言うことなのだろう。私見ではチベットと日本は関係がなく中近東あたりで袂を分かったと思われる。即ち、チベットがY-DNA Dの分岐中継点ではないと思う。まず、DEが中近東あたりでDとEに分かれ(通説はアフリカ説)、その後、Dはユーラシア大陸を東へ向かったグループと南へ向かったグループに分かれ、東へ向かったグループは大陸の極東の地北海道へたどり着き、そこでY-DNA「D1b」が発祥したと言うことであろう。Y-DNA Dが発祥(50000年前)し、日本にたどり着く(20000年前)あいだ(30000年)、Y-DNA Dはどこにいたのかと言えば、Mongolia, Central Asiaあたりと言うことになるのだろう。最近の欧米の説でも、Y-DNA「D1b」が移動した経路につき北回り説が有力になってきているのではないか。但し、スペンサー・ウェルズ(Dr. Spencer Wells)と言う米国の人類学者・遺伝学者(ナショナルジオグラフィック協会のジェノグラフィック・プロジェクトのプロジェクト・ディレクター)という人物がいて南回り説を主張している。彼の信奉者も多く南回り説も有力かと思う。

Y-DNA O(オー)系統であるが、日本には弥生時代に大陸や半島から水田稲作文化を携えてやってきた人と考えられている。主なるハプログループはO2b1とO3で、O2b1は朝鮮半島北部(朝鮮族)やその北部の隣接地帯(満州族)に多いと言う。まあ、こういうところでは稲作は考えられず、おそらく高句麗や百済の難民が主体の人々であろうかと思われる。即ち、日本の先史時代の文化形成には何の影響も与えていない。しいて言えば、天日槍命がお役に立てた筆頭かと思われる。極言すれば、弥生時代には日本列島に「O2b1」はほとんどいなかったのである。
ハプログループO3は現在の分布状態を見ると中国、朝鮮半島、東南アジア、チベットなど東アジア全域を網羅しており、日本にはどの地域から渡って来たのかは解らないが(いろいろな地域のO3がやって来た、と言う説もあるようだ)、稲作文化と結びつけるならば中国の「華南」から直接やって来たと考えるべきかと思う。日本の稲作用語は華南から北ベトナムのあたりの言葉に似ているとする見解もある。人数も少人数であり、現在の比率もO2b1よりやや下回っている。早稲田大学の金子浩昌先生の以下の見解が参考になる。
「縄文から弥生にかけての社会構造の変化は、非常に緩やかなもので、弥生人が入って来たとしても、日本列島の生活文化に彼らが合わせていった痕跡がある」と。あるいは、「弥生時代とはいえ、農耕と狩猟が混在した社会だった」とも。従って、稲が主食になるのに1000年余(弥生時代の期間)かかったと言うことか。昨今の「大改造!!劇的ビフォーアフター」などは考えられないことだ。

★日本人は国内をどのように移動したか

Y-DNA C1a1(旧C1)について

Y-DNA C1a1(旧C1)は世界的に見てもY-DNA Cハプログループのトップランナーであり、日本列島の古本州島が中国の華南に接続していたかも知れない時代にスンダランドとか東南アジア方面からやって来たものと思われる。その後、熱帯から亜熱帯、温帯、亜寒帯の気候に適応し、古本州島の最北に当たる現在の青森県まで到着したようである。Y-DNA D1bに先立つ27500年前頃に古本州島へやって来て、島内で全国に拡散したようである。人口に対する比率も、特に、沖縄、九州に多いと言うことはなく、全国的に満遍なく散らばっている。一応、本州、四国、九州の旧石器遺跡はY-DNA C1a1(旧C1)の人々の遺跡とみてもよいであろうが、縄文時代に入るとY-DNA C1a1(旧C1)の人々の遺跡とY-DNA D1bの人々の遺跡は判然としなくなる。鹿児島県の縄文遺跡はY-DNA C1a1(旧C1)のものあるいは隼人族のもの、と言う見解もあるが、疑問ではある。九州はC1a1(旧C1)のほかC2(旧C3)もあり、これがD1bの比率を下げている。C2(旧C3)は縄文時代あたりに朝鮮半島経由もしくは樺太・北海道経由で日本に来たと言う見解もあるが本当か。九州の偏在を考えれば、あるいは、元寇の時に助けられたモンゴル人兵士の子孫か。日本でY-DNA C2(旧C3)とお付き合いのあるのはアイヌ人だけで、旧石器時代に北海道のY-DNA D1b(旧D2)に追放されて流れ流れて九州にたどり着いたとは考えづらい。その他の九州の特色としては、水田稲作発祥の地のせいかO3が他の地域に比べやや多い。
C1a1(旧C1)は短期に古本州島に拡散しているところを見ると、舟(丸木舟)で移動したことが想定される。D1bにもその傾向があり、これは日本が島国である必然とも考えられる。C1a1(旧C1)とD1bの違いは前者が太平洋側の海岸沿いに北上したのに対し、後者は、一部は北海道→下北半島→太平洋岸とわったようであるが、主流は日本海側の海岸沿いに南下したことくらいであろうか。出身地の違いが現れたのかとも思われる。前者は南国で太平洋側の地域は温暖な地が多い(例、宮崎県、高知県、紀伊半島、湘南など)。後者は北国で日本海側は豪雪地帯が多い。関東地方に旧石器の遺跡が多いのはこの原理に基づくC1a1(旧C1)の遺跡かなとも思うが、「開発に伴う発掘調査が多いだけ」というにべもない返事をする人もいる。浦和一号縄文人骨もmtDNAがM7cの東南アジア(インドネシア人及びマレーシア人)系と言うことなので太平洋岸ルートできたのかなと思いきや、縄文人骨(縄文前期、5900年前の人骨という)と言うからには縄文人で旧石器時代までは遡らない、と。関東ではほかに中妻遺跡(茨城県取手市、縄文後期・晩期)の17個体からブリヤート人と共通のmtDNAハプログループM10が解析されている。要するに、縄文時代の関東は北航路と南航路の交差点だったようだ。
C1a1(旧C1)が日本で主導権を握れなかったのは、やって来た人数が少なかった上、古本州島に満遍なく散らばったため生産性の低い集団となったからであろう。おそらく、一集落は二軒くらいの家で構成され、やや大袈裟に言うとその日暮らしに毛が生えた程度の生活だったのではないか。
残念ながら、日本の基層文化のどの部分がY-DNA C1a1(旧C1)に由来するものかははっきりせず、また、これがY-DNA C1a1(旧C1)の遺跡だ、と言うものもない。日本列島にやって来て、おそらく舟で主に太平洋岸から日本列島に拡散したのであろう。あるいは、三内丸山遺跡の水産業的部分はC1a1が担っていたのかも知れない。

Y-DNA D1b(旧D2)について

Y-DNA D1b(旧D2)は現在の日本男性の35%~40%の割合で存在する。発祥地は日本と考えられその地域はどこかというと、最北端の北海道か、最南端の沖縄と言うことになろうかと思うが、一説によると沖縄は何回か人の総入れ替えがあり、人間の連続性から北海道で発祥したのではないかと思われる。しかし、北海道にはD1bの子亜型がないため発祥地ではないとする説もある。子亜型なるものは発祥地周辺で一番多いと言う。無理な論理を押しつければ、北海道は次から次へと本州へ人材を供給していたとか、北海道発祥の子亜型はその後滅亡したとか、常識では考えづらいことである。このことが、Y-DNA D1b(旧D2)南方起源説に繋がっている。まあ、北海道と言ってもアイヌ文化(13世紀<鎌倉時代後半>ころから)もその前の擦文文化(7世紀ごろから13世紀まで<飛鳥時代から鎌倉時代後半>)も担い手は同じアイヌ人という説もあり、一体全体、北海道縄文人はどこへ行ったのか、と言うことだ。やはり多くは本州方面へ渡ったのであろうが、現在に至るまで北海道に住んでいた人もいたはずで、それらの人々はアイヌ人と一緒くたにされてしまったのか。現在の北海道人は失礼ながら全国からの寄せ集めであまり研究の参考にはならないと思う。
一応、科学的にも松本秀雄博士のGm遺伝子解析による北方起源説や小山修三先生による縄文時代の人口の東重西軽説から考えても縄文人(Y-DNA D1b(旧D2))は北方由来の人々ではないか。松本博士の「日本人の南方系モンゴロイドとの混血率は低く7~8%以下である」というのも、Y-DNA C1a1(旧C1)のことを言っているのであろう。また、小山修三先生の縄文中期人口密度データを元にした鬼頭宏先生の分布地図を見ても関東、伊豆、上信越高地が主で、関東、伊豆は格別、上信越高地は現在で言う寒冷地と思われ、やはり縄文時代の主流派は北方の人ではなかったか。
以上を総括するなら、縄文時代に北方・東日本の人が優位だったのは植生の違いによると言われ、落葉広葉樹林帯が主力だった東日本は当時の主食とも言うべき堅果類(コナラ、クルミ、クリ、トチなど)に恵まれ人口の自然増を招いたのではないかと思われる。一方、西日本は縄文前期(6000年前)以降照葉樹林帯が一般的になり堅果類はカシ、シイなどで生産量が少なかった。それが人口増加がままならなかった一つの理由かと思われる。ほかに半島・大陸からの人の流入による疫病の流行をあげる見解もある。西日本が本格的に人口増加に転ずるのは水田稲作の普及が進んでからのようである。縄文中期(4500年前)以降、日本列島は寒冷化が始まるが、東日本は寒冷化にもかかわらず照葉樹林が押し寄せたという。そのため食糧不足を招き衰退に向かったという。しかし、照葉樹林帯は稲作地帯とも言うのでどうして稲作を導入しなかったのかまったくもって意味不明である。また、関東への水稲稲作伝播ルートについては現在の福岡県から日本海を北上し青森県に到達し、そこから太平洋岸を関東へ南下したという。だから関東の稲作導入が遅れたというのであろうが、どうしてこんな迂回路を通るのか解らない。
北海道や北東北の縄文遺跡は規模が大きく、遺跡の存続期間も1000年単位であり、「北海道・北東北の縄文遺跡群」は「世界遺産暫定一覧表記載文化資産」として、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」は「世界遺産暫定一覧表候補の文化資産」として認定されている。北海道や北東北の大規模、継続性が何を意味するかであるのだが、大勢の人間がいると言うことは人々は必然的に外向きになり、北海道一円だけでなく、現代的に言うなら本州方面とか樺太、バイカル湖、南は沖縄あたりまでの交易に精を出したのではないか。そのためには要所、要所に拠点を設けなければならず、また、そういうところには人材も派遣せねばならなかったであろう。津軽半島へは松前半島(松前町東山遺跡、福島町館崎遺跡、知内町湯の里遺跡群など。いずれも縄文前期後半より)から移動し、下北半島へは亀田半島(函館空港中野A・B遺跡、函館市豊原4遺跡、いずれも縄文早期より)から移動したものであろう。時代が下るに従って青森県側から北海道への土器等の移入が多くなるようだ。北海道が送り出していた人材が枯渇してしまったのであろうか。ところで、小山修三先生が集計した縄文時代における日本の人口(除く、北海道、沖縄)を見てみると、
縄文早期(20.1千人)、縄文前期(105.5)、縄文中期(261.3)、縄文後期(160.3)、縄文晩期(75.8)、弥生(594.9)と言うことで、縄文中期には北海道に4万人ほどがいたのではないかと言い、結局、縄文中期は全国で30万人ほどがいたようである。当然、人が活発に動き回ったのは縄文中期で当時の人口が多かった地域は南関東と中部高地(長野県、山梨県など)で、次いで北海道のようだった。北海道や東奥羽は稲作時代ではなかったので食糧事情は安定していたようだ。ほとんどの集落は鮭などが遡上する川沿いに造られ、函館市大船遺跡(縄文中期)では放置するほどの石皿があるという。なかには本州の遺跡では見かけない光景だと言い、要するに、豊富な動物性タンパク質と植物性タンパク質で優秀な人材が育ったのではないか。北海道は縄文中期までは日本の人材派遣基地であったようだ。縄文中期の人口増が単に食糧事情の好転のみならず、北方から継続して人々<Y-DNA D1b(旧D2)>がやって来たからではないのか。

Y-DNA O3について

日本には稲作が伝わったのは諸説がありはっきりしないが、一応、弥生時代にまとまった人が来たようだ。それがY-DNA O3なのだろうが、少人数だったので米はすぐには普及せず、主食の座を勝ち取るのに1000年あまりかかったようだ。しかも、Y-DNA O3が定住したのは畿内から西の方で、鈴鹿山脈より以東は旧来の縄文人<Y-DNA D1b(旧D2)>が見よう見まねか、Y-DNA O3に教わったかは解らないが、独力で稲作技法をマスターしたのかも知れない。その後は着実に日本での人口を増やしていったようである。皇室のY-DNAはO3という人もいるが、古代の日本の指導者層はO3だったのか。Y-DNA O3が華南ないし江南から日本(九州北部)に来て移動したのは九州と畿内の間だけのようだ。

★まとめ

日本列島の住人はY-DNA D1b(旧D2)、Y-DNA O2b1、Y-DNA O3、Y-DNA C1a1(旧C1)の男性群とその人たちと行動を共にした女性群とで構成されるのであるが、Y-DNA D1b(旧D2)は北方、Y-DNA O2b1は朝鮮半島、Y-DNA O3は華南もしくは江南、Y-DNA C1a1(旧C1)は南方よりやって来たようである。Y-DNA D1b(旧D2)は狩猟、Y-DNA O2b1は牧畜、Y-DNA O3は稲作農業、Y-DNA C1a1(旧C1)は漁業とその生業を棲み分けていたようだが、主産業が農業になってからほかの産業従事者は低く見られるようになったようだ。農業は定住産業なのにほかの産業はやや大袈裟に言うと移動採取的な要素がある。収入も最初は農業の方が高かったらしく、漁業が農業と肩を並べるようになったのも江戸時代に各藩で財政が逼迫し漁業は儲かっていると考え徴税強化に乗り出したからという説もある。
北海道からは旧石器時代末期に細石刃の技法を伝える人々が本州・四国へやって来たと考えられ、この人たちが日本民族始原の人たちかどうかは解らないが、人々の日本列島北から南への移動は早くからあったようである。土器の発明も極東及び日本列島が早いようで沿海州、北海道、東日本(青森県、長野県、新潟県、関東地方など)に草創期のものが出土している。以上より判断するなら、北海道は石器文化、土器文化の草創期の地域であり、日本の人や文化は北から南へと流れ、北海道や北東北は日本列島に人が住み始めてからの人材供給基地と考える。北海道は食料が思いの外豊富にあり、その加工技術にも長けていたので人々を餓死や栄養失調に追いやることはなかったのではないか。従って、日本の国を定期的に移動していたのはY-DNA D1b(旧D2)であり、草創期は北海道から、縄文中期以降は北東北が主導して日本文化を形成していったものと思われる。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中