生石(おいし)の意味するところは

★はじめに

先日、何の気なしに「生石」という地名を見ていたら『「生石」は「出石」と同じで、朝鮮半島から渡来し、神功皇后の母系の祖先という「天日矛(槍)」の集団に関係する地名です』とあり、『「生石」が石材の産地というのは、恐らく違います。本来の由来が分からないので、字面からそのように解されたものと思います』ともあり、おやおやと思った。おそらく出典は「釈日本紀」あたりにあるらしく、生石の読みは「伊豆志(いずし)」と言うらしい。また、生石八幡神社(松山市高岡町)では神功皇后が出産を遅らせた石を持ってご神体としたと言うもののようである。しかし、「古事記」に出てくる天日槍命にまつわる日本の地名は難波と但馬であり、「日本書紀」では、播磨国、近江国、若狭国、但馬国であり、かてて加えて、日本に上陸したのは垂仁紀八十八年秋七月「昔有一人 乘艇而泊于但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍」とあり、直接、但馬にやって来ている。ただし、垂仁紀三年春三月に「一云 初天日槍 乘艇泊于播磨國」とも言っている。おそらく、当時は但馬あたりには朝鮮半島やユーラシア大陸からの漂着民が多かったらしく、天日槍命もそういう人々の一人ではなかったか。難波や播磨が多いのも、私見で恐縮だが、有名な「魏志倭人伝」で邪馬台国と狗奴国の戦いで邪馬台国の先鋒であった天日槍命が狗奴国の前衛であった伊和大神(葦原志挙乎命)を撃破した話が手を変え品を変えして伝わったものであろう。「播磨国風土記」では自国の祖神が他国の神にこてんぱんにやられたなどと書くのは気が引けるので一種の「うけい」で天日槍命は但馬へ行ったとなっている。天下分け目の邪馬台国対狗奴国の戦いはその後長らく人々の記憶に残ったようだ。いずれにせよ天日槍やその子孫が活躍した地域はそんなに広くはなく、播磨国、摂津国(難波)あたりであろうかと思われる。それが、広くに存在する「生石」の地名や「生石神社」に結びつけるのはいかがなものか。

★生石の地名、神社名

生石神社(おうしこじんじゃ)  兵庫県高砂市阿弥陀町生石(おうしこ)
生石神社(しょうせきじんじゃ) 和歌山県有田郡有田川町大字楠本
生石神社(おいしじんじゃ)   岡山市北区門前
生石神社(おいしじんじゃ)   酒田市生石(おいし)字大森山
生石神社(おいしじんじゃ)   洲本市由良町由良
「釈日本紀」によれば、「出石刀子」を祭る神社は生石社であると言う。一般には出石神社という。生石鼻(おいしのはな)や生石山の地名あり。あるいは、地名が先行していたか。
生石神社(いくしじんじゃ)   広島県尾道市瀬戸田町名荷(みょうが)。生口島(いくちじま)。「いくいしじんじゃ」とも言うか。
生石(於保之*)郷 備中国賀夜郡 (参照)同郡大石(於保之)郷
生石(いくし)  大分県大分市生石
生石高原県立自然公園(おいしこうげんけんりつしぜんこうえん)  和歌山県海南市、紀美野町、有田川町
生石(おんじ)  岡山県浅口市鴨方町六条院中生石
生石(「おいし」「おおいし」「おうし」の三とおりの読みがある)  岡山市高松の旧村名生石村に対する岡山県立図書館の回答。

以上を検討してみると、神社名は元宮があってそこから分祠をして新しい神社を興すので読みのぶれは少ないようである。元宮は兵庫県高砂市の生石神社か。
尾道市生口島の生石神社(いくしじんじゃ)、大分市生石(いくし)は生石神社とは直接関係がなく地形地名ではないか。即ち、生石(いくし)というのは「い・くし」の意味で井串とか生櫛とか書く表記もある。この場合には「くし」に本意があり、「くし」は「くじく」を語源とする崩壊地形や浸食地形を言うようである。
岡山県浅口市鴨方町六条院中生石(おんじ)は恩地とか隠地とも書き、日陰や火山灰土壌を言う、と言う説がある。比較的新しい地名でここに出てくる「生石」地名とは異なると思う。即ち、検討対象外と言うことである。
地名、神社名を総括するなら「生石」の読みは「おいし」で、地名、神社名ともにそんなに古いものではないであろう。神社の元宮とおぼしき生石神社(おうしこじんじゃ・高砂市)は、「社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている」が、生石神社は「延喜式神名帳」や国史に掲載されていない。「播磨国内神名帳」(養和年間<1181~1182>の成立か)に「生石太神 印南郡生石村」が文献初見であると言う。要するに、生石神社なるものは延喜式神名帳作成時(927)にはなかったと言うことである。但し、「播磨国風土記」(霊亀元年<715年>頃成立か)には「石の宝殿」が出てくるのでその頃には神社(建物)はともかく、加工された「石の宝殿」はあったようである。同風土記には「聖徳太子の御世に物部守屋が造った」とある。

★まとめ

「生石」の読みは岡山県立図書館の回答にあるように「おいし」「おおいし」「おうし」の三とおりがあり、おそらく、本来の読みは「於保伊之(おほいし)だったのが、「おおいし」はそのままだが、「おいし」は「おほいし」の「ほ」が欠落し(古代にこの種の欠落は多いようである)、「おうし」は「ほ」が「う」に転訛したものであろう。高砂市の「おうしこ」は「おうし」に「どじょっこふなっこ」の「こ」を付けた類いの話か。その意味するところは「大石」即ち大きな石(岩)の意味で、神代の昔には天日槍命の関係者は古墳築造にかかわったのではないか。古墳には石槨、石棺などの言葉もあるように小石はもとより大石が必要だったのである。
とは言え、生石神社の発祥は古墳時代をはるかに過ぎたものであり、神社のご神体には大石にまつわるものが多い。例えば、兵庫県高砂市の生石神社は「石の宝殿」で有名だし、洲本市の生石神社は「<ダイミョシさん>」という巨岩があり、山手の斷崖の中腹に小さな祠があった」と言い、岡山市の生石神社は「<生石>の名のもとと言われる大きな柱のような石が生石明神として祀られている。性の石とも言われる」とあり、和歌山県有田川町の生石神社には「本殿裏山の夫婦岩は今も御神体として尊ばれ、神職以外の者の立入りは禁止されている」と宣っている。
いずれの神社にも大きな石のご神体があり、かっての磐座信仰のリバイバルブームでも起きたのか。
地域的には旧吉備国の勢力下にあるものが多い。吉備国に大石の特段の需要があったとは思われず、また、巨石のご神体もほかに持ち出されていない。「寄らば大樹の陰」とやらで、今日で言う災害時の避難場所とでも考えられていたのか。

追記になるが、吉備津神社には五つのおもだった社殿があり、吉備津五所大明神という由。その第五位に当たる岩山(いわやま)神社であるが、祭神は吉備国の地主神と言う建日方別(「古事記」では吉備児島の別名という)を祀り、神体は巨岩で、吉備の国魂を祀ったものと思われる。生石(おいし)神社と言ったこともある、と言う。「梁塵秘抄」(1180年頃)に「一品聖霊 吉備津宮 、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人、丑寅みさきは恐ろしや」とあり、五社の成立ひいては岩山神社の創建もかなり古いものではないかと思われる。あるいは、生石神社の起源も吉備国なかんずく吉備津神社にあったのかもしれない。地名にも「和名抄」に備中国賀夜郡生石郷とある。

結論を言うと、生石神社とは磐座信仰の時代が下った発展形なのではないか。

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