伊茶仁カリカリウス遺跡の人はどこへ行ったか

★はじめに

伊茶仁カリカリウス遺跡の人はどこへ行ったか、と言っても、その末裔は現在でも日本列島におられるようだ。当たり前のことを言うなと言われればそれまでだが、多くの遺跡がやや断片的に存在するのに対し、伊茶仁カリカリウス遺跡は一説によれば一万年の長きにわたり存在し、そこに人が住み、生業や生活様式を継承してきた、と言うことである。その様子を北海道標津町ホームページで見ると、

【ポー川史跡自然公園】より

「この遺跡では、約10,000年にも及ぶ長い歳月の中で人が生活した痕跡を、埋まりきらずに窪みとしてみえる竪穴住居跡の存在によって知ることができます」
「日本最大級の縄文集落として有名な、青森県三内丸山遺跡でみつかっている竪穴住居跡の数は約800軒といわれています。しかしここ伊茶仁カリカリウス遺跡に残された竪穴住居跡窪みの数は現在までになんと2,549軒!これは1つの遺跡の竪穴軒数としては日本一の数です。さらに周囲の他の遺跡を加えると、この地域だけで約4,400軒の竪穴住居跡が残されています」

但し、「世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る提案書」では若干絞りをかけてか、

「縄文時代からアイヌ文化期の約 8,000 年に及ぶ長い期間、同一地域において居住が繰り返されていたことは、当該地域の人々が自然と調和した生活を継続的に営んできたことを物語り、人類と自然の調和を示す顕著な見本であることから、周辺の環境と共に、世界遺産に登録して後世に引き継ぐべき貴重な文化資産と考えられる」とか
「窪みの形状や分布調査結果から、両遺跡群<常呂遺跡、標津遺跡群>の集落は、縄文時代早期から続縄文時代を経て、擦文・オホーツク文化期のおよそ 7,000 年もの長期間にわたって営まれていることが明らかになっている。さらに、アイヌ文化期のチャシ跡もあることから、アイヌ文化展開の舞台ともなっており、その成立を探ることができる重要な遺跡群でもある」と述べられている。

日本最古の縄文遺跡と言われる鹿児島県の上野原遺跡が桜島の噴火で断続的に存在するのに対し、伊茶仁カリカリウス遺跡は継続して存在していたことも遺跡としての価値は高いように思われる。遺跡が火山灰で埋もれなかったので今でもミズナラ林に密集する住居跡が確認でき、さながら縄文版高級住宅街に見える。

★伊茶仁カリカリウス遺跡の人はどんな人

伊茶仁カリカリウス遺跡は北海道にあるのでその遺跡の始めから終わりまで女性のミトコンドリアDNAのハプログループN9b及びM7a、Y染色体DNAハプログループD2だったのかと思いきや、そうはならなかったようである。伊茶仁カリカリウス遺跡が区切りを付ければ縄文期から擦文期(7世紀から13世紀)の遺跡であり、常呂遺跡が擦文文化のものに混じってオホーツク文化(北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定)の住居跡がある遺跡と言う。擦文文化の担い手はY-DNA D2の日本列島固有の人々かと思われるが、オホーツク文化の担い手には諸説がある。オホーツク文化は明らかに大陸系文化と言うことで、1.アムール流域の靺鞨族 2.樺太に住んでいた人々(鈴谷式土器<縄文土器>) 3.ニヴヒ 4.粛慎(みしはせ)など。過般の北海道大学の研究では「現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかった」とのことである。当然のことながら、オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあったと考えられ、北大研究グループが作成した図を見ると、アイヌ人とは擦文人とオホーツク人の混血人種らしい。後世の北海道は擦文人(縄文時代以来の日本人か)、オホーツク人、アイヌ人が共生し、北海道文化を築いていたと思われる。伊茶仁カリカリウス遺跡の人々は縄文人、擦文人の系譜を継いだ人々であろうかと思われる。即ち、当時の擦文人、オホーツク人、アイヌ人は完全に同化したわけではなく、現在の日本人に連なる人、北方少数民族の人、アイヌ人に連なる人が営々とその血脈を貫き今日に至っているのではないか。もっとも、東京大学教授の西秋良宏と言う先生は「オホーツク文化の場合は、出土する人骨の形質学的研究によって彼らが続縄文人や擦文人とは非常に異なった顔かたちをしていたことが判明している。その顔立ちはむしろ大陸のアムール川流域、樺太方面の人々と最も似ており、故地もその辺りにあったらしい。オホーツク文化の担い手たちは確かに異民族であった」というところまでは通説と変わらないが、「彼らの習俗は先住民たちとは著しく異なっていた。拡大家族として生活し五角形や六角形の巨大な竪穴家屋に起居していたこと、流氷とともにやってくる海獣と魚の獲得などで生計をたてていたこと、北方経由で大陸の金属製品を入手していたこと、クマを始めとする動物信仰に篤く家屋内に骨塚をもうけていたこと、先住民とは居住地を異にし異なる生態を異なる技術で開発し続けていたもののついには融合し、一〇世紀頃には姿を消してしまったことなど、常呂の現地調査が彼らの生活を仔細に暴きつつある」とある。先住民とは擦文人やアイヌ人を言うのかとも思うが、擦文人が核家族単位で生活していたのに対し、オホーツク人は親・子・孫等が集まった拡大家族として生活していたようである。しかし、五角形や六角形の竪穴住居はないものの擦文人も竪穴住居に住んでおり、同じ標津遺跡群の三本木遺跡はオホーツク文化期の遺跡と言われ、その下層に続縄文時代の遺構も確認されているとある。擦文文化とオホーツク文化は共存していたのではないだろうか。函館市の大船遺跡の竪穴は2m以上あり、おそらく複数階の建物と考えられ大型竪穴住居と思われる。擦文人とオホーツク人が別というのは、いわゆる、「セパレート・バット・イコール」的な関係なのか。また、海獣や鮭・鱒などの魚も擦文人は食べていたと思われる。アイヌ人が夏はチセ(掘立柱建物)に住み、冬季は「トイチセ」(土の家)という竪穴式住居に住んだという。以上を見るなら、アイヌ文化が擦文・オホーツク両文化の後に来るものとは言え、長身のオホーツク文化人はY-DNA O 系統の人と思われ、ただし、ニヴフならC3、O、Pなどが多いらしい、北海道でも本州同様Y-DNA D2 と O が混血したのではないか。

★伊茶仁カリカリウス遺跡とはどんなところだったのだろう

伊茶仁カリカリウス遺跡には何人くらい住んでいたのだろう。
竪穴住居跡窪みの数は現在までになんと2,549軒と言っても、常時、全部の窪みに家があって人が住んでいたとは考えられない。三内丸山遺跡のおよそ800軒の竪穴住居跡から判断した住人は500人から少ない方では数十人という説まであるようだ。竪穴住居跡の数から比例按分すれば2549軒を800軒の3倍とすると、1500人から数十人と言うことになるであろう。しかし、先史時代のことは何分にも憶測に過ぎず、正確性は期しがたい。よって、記録が残っている江戸時代の数値を参考にする。

江戸時代の現・標津町界隈の記録

元禄13年(1700) 「御国絵図」 「ちべ内」(比定地不詳」
安永3年(1774)~寛政元年(1789) 「野作図全図」(飛騨屋作成) シベツ・チニロ・チフルイ・コタヌカ・クン子ヘツ・サケムイ等
天保5年 (1834) 「天保郷帳」 シベツ・イヂヤニ・コタヌカ・チウルイ・クンネベツ・サキムイ・コヱトイ(以上、アイヌ人居住地)
地誌に関しては松浦武四郎の安政5年(1858)「戊午東西蝦夷地山川地理取調日誌」(「戊午日誌」)に詳しい。また、アイヌ人居住については「寛政蝦夷乱取調日記」(1789)、「蝦夷図」(1826頃)、「初航蝦夷日誌」(1845)等に記録があると言うが、肝心の人口については、「廻浦日記」(松浦武四郎)によれば、「・・・先年は土人共六十五六軒も有りし由。当時二十五軒人別百十八人・・・」とあるので、往時はシベツだけで300人ほどが住んでいたのではないか。松浦武四郎は標津町界隈の地名を海岸部、標津川筋、忠類川筋、伊茶仁川筋、薫別川筋と分けて記載しているので、先史時代の人々も川を生活の道具として最大限利用していたと思われ、縄文人の生理現象(尾籠な話だが糞便)を心配する向きもあるが、そんな心配はなかったのではないか。縄文時代の遺跡は川筋や湧き水がでているところに多いと言う。おそらく、縄文時代中期においてもその最盛期の伊茶仁カリカリウス遺跡界隈における人口は川筋別総計で1000人はあったと思う。1000人もいれば食料の心配をする向きもあろうかと思うが、当時の人は「食べられるものは何でも食べる」主義だったようで、オニグルミ、カシワ、クリ(今のところ道南の遺跡からしか出ていない模様)などの堅果類を始め、海獣、鮭、鱒などの海の生物、鹿、熊などの陸の生物が食され、ほかにイモなどの栽培植物を挙げる説がある。後世の米(こめ)一辺倒は飢饉に弱いらしい。もっとも、縄文時代の北海道では集落の人口は多く見積もって100人ほどというのが定説のようである。

次いで、そこに住んでいた人たちだが、どのような人たちだったのだろう。
オホーツク人が北海道に定住したのは前述のように5世紀から9世紀の間のようであり、それ以前はY-DNA D2の人々がほとんどだったかと思われる。その顔つきは今のアイヌ人にやや似ていたのではないか。しかし、擦文時代が始まるとオホーツク人(標津遺跡群三本木遺跡)と擦文人の通婚が始まりその顔つきや身体的特徴は今の日本人と変わらなくなったのではないか。しかるに、江戸時代に蝦夷地に渡った日本人はアイヌ人を土人と呼び区別しているようだ。無論、アイヌ文化期になってからはアイヌ人同士の近親婚的なものが強くなり、アイヌ人に本来あった身体的特徴が増幅されて今日に至っているのであろうが、北海道古来の人に日本人的形質を否定するのはいかがなものか。もっとも、江戸時代になれば本州からも蝦夷地に渡った人はそれなりにいたと思われ、その北海道の人が本州から渡ってきた人の末裔か、はたまた、元々北海道の人かは判別がつかないかも知れない。

★まとめ

日本の縄文時代の人口は東高西低で、東日本は北海道から関東地方まで集落らしい集落遺跡があるのに対し、西日本では草創期の上野原遺跡(鹿児島県)のように計画的な地域づくり、次元の高い生活道具(連穴土坑<燻製製造>、集石<石蒸し>)を備えた遺跡もあるが、何分にも人間が住む環境が整っていないせいか人口が少なく、「量より質への変換」(ヘーゲル)が計れなかったような気がする。そこで、旧石器時代から縄文時代にかけての日本における北海道の位置づけであるが、北北海道と南北海道に中心となるべき集落が有り(標津遺跡群、大船遺跡)、定住期間は標津が8000年、大船が500年ほどと言われている。大船は標津の8000年や三内丸山遺跡の1500年に比べ存続期間がかなり短かったようであるが、今後の発掘の成果を待つほかない。当時の人も北海道の中でも寒冷や大雪を避けた土地に集落を建設したようで、「竪穴住居跡窪みの数は現在までになんと2,549軒」とあるのも伊達や粋狂、はたまた、“趣味の穴掘り”で掘ったわけではないと思う。従って、日本の縄文時代の人口の集合地は、おそらく、北海道で人口が集落の限界点を超えると本州に移動していたのではないか。そうでもなければ、伊茶仁カリカリウス遺跡の「周囲の他の遺跡を加えると、この地域だけで約4,400軒の竪穴住居跡が残されています」は到底考えられないことだ。私見の推計人口1000人もその飽和点の一つではなかったか。

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