古代吉備国はなぜ神社が少なかったか

★はじめに

吉備国は、法然(美作国久米郡<現・岡山県久米郡久米南町>出身で押領使・漆間時国の子と言う。浄土宗の開祖)や栄西(備中国賀陽郡<現・岡山県加賀郡吉備中央町>出身で吉備津神社権禰宜賀陽貞遠の子と言う。臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖)を輩出し、鎌倉新仏教では、時衆(時宗)の始祖の一遍が十三世紀後半、美作の中山神社に結縁して念仏をすすめたとか、日蓮宗では鎌倉最末期の頃、日像の直弟子大覚大僧正が備前・備中で信者を獲得し「備前法華」の礎を築いた。下って幕末・明治には黒住教(備前国御野郡今村<現・岡山市北区今>の神官黒住宗忠が創祀)や金光教(備中国浅口郡大谷村の赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神<こんこうだいじん>が創祀)の発祥の地で、様々な宗教が吉備国と繋がりを持っている。日本の宗教とも言うべき神道に関しても備中・吉備津神社は大和・大神神社と類似点があるようだ。
しかし、古代宗教の総まとめとも言うべき「延喜式神名帳」には、肝心の備前国の吉備津彦神社(備前国一宮の地位は天慶の乱(939)勃発当時に朝廷に味方した備中国の一宮である吉備津神社より御霊代を分祀されて創建した吉備津彦神社(岡山市北区一宮)に移った等の表記もあり、「延喜式神名帳」編纂時(927)には存在していなかったか)、備後国の吉備津神社(神社の名前が最初に確認できる史料は1148年(久安4年)の八坂神社の記録『社家条々記録』であり、境内の発掘調査でも12世紀以降のものしか出土していない、とあり、「延喜式神名帳」編纂当時(927)には存在していなかったか)はいわゆる式内社とはなっていない。本来の吉備国総鎮守は後世の備中国吉備津神社で、吉備国の三国への分割(689)後も備中国吉備津神社は吉備三国の総鎮守であり続けたようである。その後文献でははっきりしないが「諸国一宮制」のようなものができ、総鎮守社は備中国一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったようである。また、吉備国は先史時代から古代にかけて他の有力国だった丹波国(後世の丹波国、丹後国、但馬国)、尾張国、武蔵国、山城国、摂津国、大和国等と比較すると「延喜式神名帳」で見る限り貧相である。但し、門脇禎二著「吉備の古代史ーー王国の盛衰ーー」(NHKBOOKS)「・・・キビツヒコ命を祀る吉備津神社やその分霊を祀る、おんざき・うしとら神社など吉備津系神社は、備中・備後に集中するほか瀬戸内全域、北は島根・鳥取、東は奈良・和歌山にわたり、三○九社に及ぶ。故岡山大学名誉教授藤井駿先生をリーダーとする調査結果である(山陽放送学術文化財団リポート二二号)」とあるが、それはそれこれはこれで、「延喜式神名帳」でそれぞれを比較してみると、

相甞祭の官幣を受ける大社六十九座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座
新甞祭の官幣を受ける大社三百四座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座
吉備津神社を始め熱田神社(熱田神宮)、杵築神社(出雲大社)、八幡大菩薩宇佐宮神社(宇佐神宮)、宗像神社3座(宗像大社)等の神社は官幣に与っていなかったようである。吉備、尾張、出雲、豊前、筑前などの国名が上記にはない。

各国の神社数を比較してみようと思うが、たくさんの国を挙げて比較しても切りがないので、四道将軍が派遣された国(大和にとっては列強と思われる)を比較すると、
「日本書紀」には北陸(大彦命)、東海(武渟川別命)、西道(吉備津彦命)、丹波(丹波道主命)とある。ここでは、一応、北陸を後世の越前、加賀、能登、越中、越後とし、東海を尾張、美濃、三河(「東方十二道」と言っても意味が分からないので勝手な私見とした)とし、西道を備前、備中、備後、美作とし、丹波を丹波、丹後、但馬と広げて解釈する。

北陸の神社数(301座:大11小290)
越前國:126座:大8小118
加賀國:42座:並小
能登國:43座:大1小42
越中國:34座:大1小33
越後国:56座:大1小55

東海の神社数(186座:大9小177)
尾張國:121座:大8小113
參河國:26座:並小
美濃國:39座:大1小38

西道の神社数(72座:大3小69)
美作國:11座:大1小10
備前國:26座:大1小25
備中國:18座:大1小17
備後國:17座:並小

丹波の神社数(267座:大30小237)
丹波国:71座:大5小66
丹後國:65座:大7小58
但馬國:131座:大18小113

以上を見ても西道の神社数は最少で、次いで少ない東海の半分にも満たない。西道の国々の神社を詳細に見ても、
・美作国 大庭郡:佐波良、形部、壹粟(二座)、横見、久刀、莵上、長田、苫東郡:高野、中山(名大)、英多郡:天石門別。
・備前国 邑久郡:美和、片山日子、安仁、赤坂郡:鴨(3座)、宗形、石上布都之魂、布勢、和氣郡:神根、上道郡:大神(4座)、御野郡:石別、尾針、天、伊勢、天計、國、石門別、尾治針名眞若比女、津高郡:鴨、宗形、兒嶋郡:鴨、田土浦坐。
・備中国 窪屋郡:百射山、足高、菅生、賀夜郡:古郡、野俣、鼓、吉備津彦、下道郡:石畳、神(みわ)、麻佐岐、横田、穴門山、小田郡:在田、神嶋、鵜江、後月郡:足次山、英賀郡:比賣坂鍾乳穴、井戸鍾乳穴。
・備後国 安那郡:多祁伊奈太伎佐耶布都、天別豊姫、深津郡:須佐能袁能、奴可郡:迩比都賣、沼隈郡:高諸、沼名前、比古佐須伎、品治郡:多理比理、葦田郡:賀武奈備、國高依彦、甲奴郡:意加美、三上郡:蘇羅比古、惠蘇郡:多加意加美、御調郡:賀羅加波、世羅郡:和理比賣、三谿郡:知波夜比古、三次郡:知波夜比賣。
以上を総括すると、創建年代が「大化の改新」以降のものが多いようで、且つ、地元固有の神社は少ないようである。

★吉備国にまつわる有力豪族

吉備国の豪族、特に、吉備氏にまつわるものとして、吉備津彦命、吉備武彦、御友別が挙げられる。
吉備津彦は、第七代孝霊天皇と妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、蝿某姉<はえいろね>/意富夜麻登玖邇阿礼比売命<おほやまとくにあれひめのみこと>)との間に生まれた皇子で、その名についても、「紀」には、本の名:彦五十狭芹彦命 (ひこいさせりひこのみこと)、亦の名:吉備津彦命 (きびつひこのみこと)とあり、「記」には本の名:比古伊佐勢理毘古命 (ひこいさせりひこのみこと)、亦の名:大吉備津日子命 (おおきびつひこのみこと)とある。活躍したのは「記」と「紀」では異なり「日本書紀」崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、いわゆる、四道将軍の一人とされる。派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため(同書崇神天皇10年9月27日条)、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った、と言う。また、同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別とは出雲振根を誅殺している。「古事記」では、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊)段に、「大吉備津日子命與若建吉備津日子命 二柱相副而 於針間氷河之前居忌瓮而 針間爲道口以言向和吉備國也」とあり、崇神天皇段にはない。
子については「記紀」ともに記載はないが、「記」では大吉備津日子命を吉備上道臣の祖とし、異母弟(母は大吉備津日子命の母の妹蝿某弟)の若日子建吉備津日子命を吉備下道臣・笠臣の祖とする。「紀」では吉備津彦命は四道将軍の一人として西下したのみ、稚武彦命(若日子建吉備津日子命)は吉備臣(吉備氏)祖とするが、「記」(景行段)では吉備臣の祖は御鋤友耳建日子とする。(爾天皇亦頻詔倭建命 言向和平東方十二道之荒夫琉神 及摩都樓波奴人等而 副吉備臣等之祖 名御鋤友耳建日子)また(此天皇 娶吉備臣等之祖 若建吉備津日子之女 名針間之伊那毘能大郎女)ともあり、御鋤友耳建日子と若建吉備津日子とはどんな関係なのだろう。一応、「日本書紀」では「稚武彦命」、「古事記」では「若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」「若建吉備津日子命」は同一人物とされる。

吉備武彦は、二次資料(「新撰姓氏録」「日本三代実録」等)によれば稚武彦命の孫または男(子か)となっているが信じがたいところもある。おそらく、吉備津彦・稚武彦は吉備中山に地盤があった人たちであり、吉備武彦は後世の播磨国に権力基盤があった人ではなかったか。あるいは、稚武彦命の直系の分家かとも思われるがよくは解らない。「日本書紀」景行二年春三月丙寅朔戊辰 立播磨稻日大郎姫 【略】 爲皇后、とあり、「古事記」景行段に「此天皇 娶吉備臣等之祖 若建吉備津日子之女 名針間之伊那毘能大郎女」とある。若建吉備津日子を稚武彦命とするなら景行天皇とは世代が離れすぎており、おそらく、吉備武彦の間違いであろう。また、「日本書紀」景行天皇51年8月4日条において、吉備武彦の娘(「記」では武彦の妹)・吉備穴戸武媛が景行天皇の妃になったとある。吉備穴戸は吉備穴海(現在の児島湾か)かとも思われるが、備後国安那郡や備中国下道郡穴門山神社を言うと言う見解もある。そうすると、播磨の播磨稻日大郎姫との整合性がとれなくなる。いくら当時の権力者が物好きとは言え備後国安那郡や備中国下道郡穴門山神社のような不便な地には住まなかったのではないか。吉備穴戸武媛の一点だけを見ると吉備武彦は吉備中山の出身と思われる。

御友別は、「日本書紀」廿二年秋九月辛巳朔庚寅(10日)「因以割吉備國 封其子等也 則分川嶋縣封長子稻速別 是下道臣之始祖也 次以上道縣 封中子仲彦 是上道臣・香屋臣之始祖也 次以三野縣 封弟彦 是三野臣之始祖也 復以波區藝縣 封御友別弟鴨別 是笠臣之祖也 即以苑縣 封兄浦凝別 是苑臣之始祖也 即以織部 賜兄媛 是以 其子孫 於今在于吉備國 是其縁也」とあって、御友別こそが実質上の吉備氏の祖と言わんばかりだ。御友別自身を「日本三代実録」元慶3年(879年)10月22日条では、吉備武彦命の第二男とする、また、「新撰姓氏録」右京皇別 吉備臣条では、御友別を稚武彦命の孫とする。しかし、信じがたい。御友別は応神天皇を葦守(足守)宮で饗応しており、おそらく、足守に地盤があったであろう。一説によると、御友別の本拠地は足守川と篠ヶ瀬川に挟まれる地域という説もあり、これまた吉備中山を本拠地とするようであるが、造山古墳や作山古墳を見るともう少し現在の総社市寄りにあってもいいのではないか。

吉備国と対等であったと思われる出雲国はひっきりなしに王と言おうか国造と言おうかその種の人が大和朝廷に滅ぼされている。おそらく、吉備国も多かれ少なかれ同じような運命をたどったと思われ、吉備津彦命の子孫は景行天皇に滅ぼされ、吉備武彦の子孫は応神天皇に滅ぼされ、記紀の編纂時には御友別の子孫が生き延びて吉備国の主要「県(あがた)」を支配していたのではないか。

★結 論

吉備国に神社が少ないと言ってもその原因は 1.地元で発生した神社が少ない 2.地域的に影響を受けたのは大和国で、美和(邑久郡)、大神(上道郡)、神(下道郡)、天石門別(英多郡)、石別、石門別(御野郡)、<大和では天岩戸別命(あまのいわとわけのみこと)と言い、神社名も天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)と言う>、鴨(赤坂郡)、鴨(津高郡)、鴨(児島郡)、石上布都之魂(赤坂郡)、意加美(甲奴郡)、多加意加美(惠蘇郡)。また、大和国ではないが宗形(赤坂郡)、宗形(津高郡)、須佐能袁能(深津郡)がある。宗形神社があって住吉神社がないのは興味深い。鴨神社が多いのもあるいは伝播地名ではなく、津高郡賀茂郷もあるので、地形地名(河岸侵食のカマの転訛語か)かも知れない。意外と吉備国は東の大和と西の筑紫に挟まれて右顧左眄する状態にあったのかも知れない。古墳も造山古墳や作山古墳のような全国的にも屈指の古墳があるが、故近藤義郎岡山大学名誉教授によると「前方後円墳は弥生墳丘墓から一歩一歩変遷をとげて出現したのではなく、どうやら突如として創出されたもののようである。というのは第一に、弥生墳丘墓から最古型式の前方後円墳に至る“進化”的足取りが見られない点である。次に前方後円墳の最古型式のものは弥生墳丘墓にくらべ非常に相違した特色を持っている」(責任編集 近藤義郎・吉田晶「図説 岡山県の歴史」<河出書房新社>)とあり、本当はもう少し引用したいのであるが冗長になるので割愛する。ここで近藤先生が言いたいことは前方後円墳ははじめから大型・堅牢・規格の統一等があり、技術的に優れたものである、と言うことであろう。このような大型・堅牢な構築物は我が国では雪国に見られ、たとえば、大型竪穴式住居は、知床半島に近い標津町の伊茶仁(いちゃに)カリカリウスあるいは大船遺跡(函館市。三内丸山遺跡との類似性から同遺跡が衰退後青森から函館に移った人たちが開拓したか)の住居は、竪穴の周りに掘りあげた土から底まで、2メートルから2.5メートルもの深さがあり、天井から出入りしたものと推測される、と言う。また、面積で大きいものは三内丸山遺跡の長さ32メートル、幅10メートルのものがある。同遺跡には六本柱建物跡なる遺構もある。今は太い柱六本が立てられているだけだが、現在で言う三階建て建物と見る向きが多くインターネット上ではその絵も描かれているものがある。また、出雲大社の大型神殿は有名である。吉備の文化はこのような大型・堅牢・規格化が見劣ったので他から顧みられなくなったか。3.岡山平野の地形も吉井川、旭川、高梁川が何度も流路を代え神社などはすぐに流されてしまったか。

広告
カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中