出石郷のこと

★はじめに

「和名抄」には出石郷と言う郷名が三件ある。美濃国山県郡出石郷、但馬国出石郡出石郷、備前国御野郡出石郷である。但馬の出石と備前の出石には「伊豆志」「以都之」(以上、但馬)とか「以豆之」「伊豆之」(以上、備前)の読みがついているが、美濃の「出石」は読み不明と言うことでおそらく「いづし」ないし「いつし」と読むのだろうと推測されている。その意味合いとするところは備前国御野郡出石郷の出石は「突堤」(具体的には、桟橋、防波堤、防砂堤など)のことを言うとの見解があるが、他の出石については一般論として「イヅ」は「厳」で崖など嶮しい地形を言う、とか、あるいは「イツ」は「稜威」で美称、「シ」は「石、磯」の略か、と言う説がある。イヅシの区切り方であるが、漢字に則したものでは「イヅ」「シ」であろうが、「イ」「ツシ」はどうだろうか。「イ」は接頭語で、「ツ(ヅ)シ」は土(例、淡路国津名郡都志郷)の意味ではないか。美濃国山県郡出石郷の比定地は未詳であるが、岐阜県岐阜市山県岩が有力とか。但馬国出石郡出石郷は兵庫県豊岡市出石町宮内あたりに比定され、中心地は現在の出石神社のあるあたりと推定されている。備前国御野郡出石郷は現在の岡山市北区出石町あたりに比定されている。但馬の出石郷と備前の出石郷には弥生時代からの遺跡があるようで(但馬:宮内黒田遺跡<出石神社近隣>など、備前:鹿田遺跡<岡山大学医学部敷地>など)、美濃の出石郷は「延喜式式内社は山県郡に一社もない」とか「読み」「比定地」ともに不詳とか、検討をしようにも資料が乏しく、ここでは割愛する。一応、備前の出石郷は「旭川デルタ地帯にあった」といい、但馬の出石郷は「但馬国で一番最初に稲作が始まった地帯」というので、いずれの郷も弥生時代からの稲作地帯だったと思われる。水は出石川(但馬)や旭川(備前)から引いていたのであろう。但し、旭川デルタ地帯と言うから旭川という大河があってそれが運んできた土砂でデルタ地帯ができたのかと思いきや、デルタ地帯には旭川が幾条もの小河川に別れて流れていた、などと言う見解もあり、どの説を採っていいものか分からないのが実情だ。従って、「出石」と言っても「石がゴロゴロしていた土地」を言うものではないと思う。
ところで、この但馬の出石郷と備前の出石郷は地形や地質などに由来した自然発生的な地名でたまたま偶然に一致したものか、はたまた、どちらからか人とともに移動した伝播地名なのか、今ひとつはっきりしない。しかし、現在の遺称地は全国的に見てもこの二ヶ所しかない。自然発生の地名ならばもう少し全国的に散在しても良さそうなものだ。依って、「出石」というのは但馬もしくは備前の発音の違い、意味の違い、単語の合成法の違い等に由来する広い意味でのいずれの国かの方言で、どちらかに起源を有する伝播地名ではなかったか。

★但馬国出石郡出石郷

但馬の出石郷は前述したように弥生時代の遺跡はあるが、古墳は早期、前期のものは少ない。例を挙げてみると、

六方川水系の古墳
森尾古墳 (所在地)兵庫県豊岡市森尾市尾 (概要)古墳前期 古墳(方墳、竪穴式石室)、方墳辺35.0×24.0m。 (遺物)第1竪穴式石室:方格規矩鏡、第2竪穴式石室:三角縁四神四獣鏡、 第3竪穴式石室:三角縁同向式神獣鏡(「□始元年 陳是作・・・」の銘文がある。同笵鏡:群馬県蟹沢古墳、山口県御家老屋敷古墳)
田多地(ただち)3号墳 (所在地)兵庫県豊岡市出石町田多地 (概要)古墳前期 古墳(方墳、木棺直葬)、方墳辺30.0×?m。 (遺物)仿製五弧内行花文鏡
下安良(しもやすら)城山古墳 (所在地)兵庫県豊岡市出石町下安良 (概要)古墳前期 古墳(円墳、シスト系組合式石棺)、墳径約20.0m。 (遺物)四獣形鏡
但し、田多地、下安良城山の両古墳は古墳中期とする説もある。

谷山川水系の古墳
谷山茶臼山古墳 (所在地)兵庫県豊岡市出石町谷山 (概要)古墳中期 古墳(円墳)、直径49m、高さ7m、三段築造。 (遺物)円筒埴輪の破片、家形埴輪
長持形石棺の遺材 (所在地)出石城跡 (概要)古墳時代中期か。 古墳(前方後円墳か) (備考)17世紀初頭の出石城築城の際、この古墳が壊されて出石城の一部城域になったか。

式内社
出石郡には式内社が23社(内訳、大9、小14)あり、関係のありそうなものを抜粋してみると、
出石神社 祭神 天日槍命、出石八前大神。創建 不明、「一宮縁起」(社伝)によれば、谿羽道主命と多遅麻比那良岐命が祖神天日槍命を祀ったのが始まりと云う。
諸杉神社 祭神 多遲摩母呂須玖神(但馬諸助・天日槍命の子)。創建 不明。
石部神社 祭神 (主祭神)天日方奇日方命ほか多数。創建 不明。
小野神社 祭神 天押帶日子命。創建 不明。一説には、米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみ)が当地に永住し祖神・天押帯日子命を深草天皇十八年八月に奉斎したという。
伊福部神社 祭神 素盞嗚命、天香山命、 伊福部宿弥命。創建 不明。式内社・大生部兵主神社の論社を主張している。神社由緒書にいわく「創立年度不詳なれど天平十九年(747)伊福部連 其祖天香山命を祀ると。又成務天皇四年二月國造船穂足尼素盞嗚命を祀る大生部兵主神社を弘原庄中村に鎮座し之を大生部神社と崇めた」

人物
土師部美波賀志 天平勝宝二年(750)の「但馬国司解」に見える人物。
伊福部連 天平十九年(747)伊福部連 其祖天香山命を伊福部神社に祀ると。

以上を勘案するなら、但馬国出石郡の古墳は大型前方後円墳は江戸時代初期に出石城築城の際破却されてしまったようで、残された長持形石棺の遺材から三基の前方後円墳があったのではないかと言われている。多遅摩母呂須玖、多遅摩斐泥、多遅摩比那良岐の但馬氏三代の墓か。

石部(いそべ)神社は、「石」は「石(いし)」と「磯(いそ)」の略形「石(いそ)」の両様の読みがあったようである。出石郷の石部は「いそべ」と読んでいるようなので、本来は「磯部・磯辺(いそべ)」で西日本に多い「海部・海辺(あまべ)」に対する東日本版で海人族を言うとの説がある。また、「イシ」「イハ(岩)」「イソ」は同源という説もある。奉斎氏族は「新撰姓氏録」に言う「石辺公」と思われ、それによると、
左京 神別 地祇 石辺公 公 大国主[古記一云。大物主。]命男久斯比賀多命之後也
山城国 神別 地祇 石辺公 公 大物主命子久斯比賀多命之後也
とあり、大国主あるいは大物主の子久斯比賀多命(天日方奇日方命)の子孫という。陵墓造営が土師氏と伊福部氏、尾張氏と石作氏のコンビで行われているので、これは出雲臣氏と石辺公氏のコンビがあったと思われるが、こちらの石辺(石部)氏は需要のなくなった陵墓造営にはタッチせず、採石事業を専らとしたのではないか。石部神社は近江国を起点に北陸に分布が見られる。近江では「延喜式神名帳」に近江国甲賀郡に石部鹿塩上神社を載せるがここは昭和三十二年(1957)頃まで石灰石の産地として盛んだったらしい。つらつら考えるに、石部はやはり「いし・いは」が本義で「いそ」は後世の読みではないか。当然のことながら、出石郷にも奉斎氏族である「石部氏」がいたのではないか。

伊福部神社は、創建は飛鳥・奈良時代ではないかと思われるが、一応、その頃出石郷に伊福部氏という有力氏族がいたと思われる。伊福部古墳もあると言うが不明。伊福部・五百木部が北は陸奥から南は薩摩まで広く存在するのに伊福部神社はここ以外に際立ったものはない。伊富岐・伊吹・結城等の社名で代用する見解もあるが伊福部と同義かは不明である。ただ社家と思われる伊福部氏は因幡国一宮社家伊福部氏と同じと思われ、伊福部の発祥が但馬、因幡方面か。祖神を大己貴命と言い、祭神を素戔嗚尊と言っているのも「新撰姓氏録」が「尾張連同祖 火明命之後也」と言っているのとは異なる。但し、愛知県愛知郡東郷町にある富士浅間神社は延喜式神名帳に言う「尾張國愛智郡伊副神社」に比定され、祭神は木花咲夜毘売命、素戔嗚尊、大物主命、崇神天皇と言う。祭神の木花咲夜毘売命は社名変更後に付け加えられたものであり、本来の祭神は素戔嗚尊、大物主命だったか。また、伊福部神社の裏山は出石町鍛冶屋となっており、伊福部とは鍛冶屋の集団とも言う人がいる。山の中に鍛冶屋というのもおかしな話で本来は梶谷ではなかったか。梶の葉は神前の供物を供えるための器として用いられたそうである。依って、伊福部氏は石部氏同様本来は石工(石棺や石槨を作っていた)ではなかったか。石部神社が入佐山古墳群の麓・入口にあるのも興味深い。地元の墳墓築造ではまず、石部氏が覇を唱え、次いで伊福部氏が起こったものか。但し、元祖とも言うべき都市牛利(土師氏)とか伊聲耆(伊福部氏)は畿内の大型古墳築造のため大和国等畿内の諸国へ出向き、残された人の技量はどれほどかは不明である。

★備前国御野郡出石郷

備前国御野郡出石郷がある旭川流域一帯は吉備国発祥地と言っていいほどで古墳前期の大型古墳が築造されている。ただ規模が大和のものよりやや小ぶりなので大和朝廷の管掌下にあったのではないかと思われる。以下、主な旭川、吉井川界隈の前期古墳を列挙してみると、

・矢藤治山弥生墳丘墓  岡山市北区西花尻・東花尻にある。前方後円墳。墳長約35.5m。弥生墳丘墓と前方後円墳の転換点。
・神宮寺山古墳  岡山市北区中井町一丁目にある。前方後円墳。墳長約150 m。前期(西暦3世紀後半~4世紀)古墳。
・尾上車山古墳  岡山市北区尾上にある。前方後円墳。墳長約135 m。前期(西暦3世紀後半~4世紀)古墳。
・浦間茶臼山古墳  岡山市東区浦間にある。前方後円墳。墳丘全長138m。前期(西暦3世紀後半~4世紀)古墳。箸墓古墳の2分の1の相似形。
・網浜茶臼山古墳  岡山市中区東山4丁目にある。前方後円墳。墳長92m。前期(西暦3世紀後半~4世紀)古墳。箸墓古墳の3分の1相似形。
・中山茶臼山古墳  岡山市北区吉備津にある。前方後円墳。前期(西暦3世紀後半~4世紀)古墳。大吉備津彦命墓として宮内庁の管理下。
・操山109号墳  岡山市中区平井1丁目にある。前方後円墳。前期(西暦3世紀後半~4世紀)古墳。
・備前車塚古墳  岡山市中区四御神(しのごぜ)・湯迫(ゆば)にある。前方後方墳。墳長48.3m。古墳時代前期の4世紀初頭に築造。被葬者は「吉備上道臣之祖」大吉備津日子命か。
・宍甘山王山古墳 岡山市東区宍甘(しじかい)にある。前方後円墳。墳長68.5m。箸墓古墳の4分の1相似形という。備前車塚古墳に次ぐ。
・金蔵山古墳  岡山市中央区沢田にある。前方後円墳。墳長165 m。前期末(西暦4世紀末)古墳。
・湊茶臼山古墳  岡山市中区湊にある。前方後円墳。墳長約125 m。4世紀後半から5世紀当初に築かれた。

以上、大和朝廷のお膝元とも思われる大和国の古墳に負けず劣らずの古墳群である。前方後円墳の発祥が吉備国でそれをより大型にしたのが大和国の古墳なのか、はたまた、大和国が発祥でそれを小型化したのが吉備国かはなかなか分かりづらいが、一応、吉備国の古墳の副葬品に「三角縁神獣鏡」などの威信財があるので「三角縁神獣鏡」が畿内のものとして大和国発祥と仮定する。一説によると、古墳の築造は大和から派遣された管理者がいて、その管理者が築造方法の指導はもとより、墳形や大きさ、周濠の有無等々並びに副葬品の数量や品定めを朝廷に上申し、朝廷の許可を得て築造、埋葬を行っていたという。上記の古墳を一覧しても墳長100m超のものは元吉備国の国王級の人物などが連想され、箸墓古墳の相似古墳は箸墓古墳の被葬者との血縁関係が想像される。旧吉備国の古墳は現在はほとんどが宮内庁の管理下にはないのでこれを子細に観察すれば古墳時代の本質のようなものが出てくるのではないか。

伊福郷

備前国御野郡には出石郷のほか伊福郷と言うあまり吉備国とはなじみのない郷名が出てくる。伊福郷は全国的に散在しており、遠江国引佐郡、尾張国海部郡、美濃国池田郡、大和国宇陀郡、備前国御野郡、安芸国佐伯郡に伊福郷が見える。しいて言うと、東海地方、山陽地方にあるようだ。備前国の伊福郷は出石郷とともにその弥生時代からの豊富な遺跡で著名だ。出石郷には鹿田遺跡があり、伊福郷には上伊福遺跡や津島遺跡がある。いずれの遺跡も遺物が豊富。旭川デルタ地帯は早くから水稲稲作が始まっていたようだ。大和朝廷に対抗する勢力というのも宜なるかなである。
備前国御野郡には延喜式神名帳では、八社(石門別神社、尾針神社、天神社、伊勢神社、天計神社、国神社、石門別神社、尾治針名真若比女神社)が記載されている。
石門別神社が二社あるのは古墳の神社であろうが、そんなに大きな古墳もないのに何の古墳を祭神としたものか。但し、付近に都月坂古墳群(3基)や七つぐろ古墳群がある。尾張系神社も二社あるが、尾針神社、尾治針名真若比女神社とも後世大化の改新後に墳墓築造にやって来た尾張氏にちなむものであろう。但し、尾針神社は、一帯は古くは「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地であったという、と言う見解もある。尾治針名真若比女神社は(おじはりなまわかひめじんじゃ)のルビーがついているが、失礼ながらおそらく間違いであろう。元々は「おはり・はりま・まわかひめ」と読んだのではないか。即ち、尾張国の人と播磨国の人が住んでいたと思われる。天神社、天計神社と言うのは「雨」の意味か。即ち、古くは水田地帯と思われ雨乞いの神様か。伊勢神社は天武天皇後伊勢神宮が国教となった。国神社は大国魂のことで産土神か。

★まとめ

備前国御野郡出石郷と但馬国出石郡出石郷は「出石」の地名がたくさんあるわけではないので無関係の関係とは言えないと思う。どちらからか人の移動があって同じ地名になったと思われる。いわゆる、伝播地名の一つであろう。出石神社が但馬国にしかないので伝播地名とするなら備前国にもあっても良さそうなものとか、水は高きより低きに流れるものなので文明度の高い吉備国(備前)より但馬国へ移動したのではないか、とか、いろいろ考えられるが、森浩一編「倭人伝を読む」(中公新書p.54~55)で、岡田英弘東京外大教授は「・・・生産力の高いところが中心になるとすると、中国の首都は歴代江南デルタになければならないわけですけど、あったのはごく特殊な一時期だけですよね。ですから、わたしは森先生と同じ意見でして、仮にその当時最もたくさんの人口を擁した集落が見つかったところで、それが邪馬台国の遺跡であるということにはただちにつながらない。むしろ、邪馬台国の立地条件としては、それが交通の要衝であるという点が必要だろうと思う」と。言うなれば、水は高き(吉備国)から低き(但馬国)に流れたのではないらしい。もし、朝鮮半島から大和国へ行くのに、日本海ルートを通ったなら、但馬国は水路と陸路の接点とも言うべき要衝の地であっただろう。これに対し、吉備国は瀬戸内海ルートを通ったとしても寄港するかしないかは船頭の判断一つであっただろう。吉備の稲作の生産力が高くても潤ったのは吉備国の人だけで他国の人はその恩恵が受けられなかったのだろう。
古墳築造技術についても、但馬国には満足な古墳がなく、吉備国には弥生墳丘墓以来の技術が蓄積されているのではないかと考えられるが、孔子様のお言葉にもあるように「後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」ではないが、当時にあっても、必ずしも吉備国が但馬国に優っていたとは言いがたいのではないか。そもそも、古墳築造者として名を残したのは「土師氏」や「伊福部氏」あるいは後世の「尾張氏」「石作氏」や「出雲氏」「石部氏」であって、吉備国の人は皆無だ。
私見では、土師氏はその遠祖は「魏志倭人伝」に言う<都市牛利>で、伊福部氏は同じく<伊聲耆>ではないかと思っている。当時の日本の外務省は後世の但馬国出石郡出石郷にあったようで外務大臣は<難升米>で、配下の都市牛利や伊聲耆は万能官吏として活躍したようだ。
以上より結論を出すと、出石の起源はその地名に「出石」とか「石部」とか「伊福部(石城部)」とか石のつく地名等が多く、古墳築造にも何らかの関係があった但馬国ではなかろうか。また、「大生部兵主神社」の大生部も何に関係したものなのだろうか。

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