土師氏考

★はじめに

古墳の築造者については、今更言うまでもなく野見宿禰とその子孫の土師氏が延々と主導権を握り大化の改新で薄葬令が発せられ、火葬が普及して古墳の必要性がなくなるまでその職掌を担っていた。野見宿禰や土師氏が古墳築造や葬送儀礼を扱うようになったのは、「日本書紀」によると、

垂仁七年秋七月己巳朔乙亥条に
「朕聞 當麻蹶速者 天下之力士也 若有比此人耶 一臣進言 臣聞 出雲國有勇士 曰野見宿禰 試召是人 欲當于蹶速 即日 遣倭直祖長尾市 喚野見宿禰 於是 野見宿禰自出雲至 則當麻蹶速與野見宿禰令角力 二人相對立 各擧足相蹶 則蹶折當麻蹶速之脇骨 亦蹈折其腰而殺之 故奪當麻蹶速之地 悉賜野見宿禰」とあり、
垂仁天皇が當麻蹶速と野見宿禰に相撲を取らせ、野見宿禰が勝った(蹶速の腰骨を踏み折り殺したもののようだ)ので、當麻蹶速の領地を奪い、悉く野見宿禰に賜った、と言う意味であろう。その意味するところは通説によれば、
1.我が国の相撲の起源とされる。
日本の相撲に似た格闘技は世界中いたるところにあり、我が国でもこの取り組みが相撲の端緒ではないと思う。当時の相撲はこれまた世界中同じようなもので、拳で打つ、殴(なぐ)る、蹴(け)るなど(現在の喧嘩類似行為か)して対戦相手のいずれかが再起不能になるまで戦ったようである。従って、上記に「(當麻蹶速の)腰を踏み折り殺した」などと言うのも当時のルールでは当然だったのだろう。よって、この一事を持って「我が国相撲の起源」とは言えないと思う。また、「即日 遣倭直祖長尾市 喚野見宿禰 於是 野見宿禰自出雲至」とあるのも、長尾市が一日か二日で野見宿禰を出雲から連れてきたとも解され、それはおかしいと言う見解もある。この場合の出雲は現在の奈良県桜井市出雲のことという説もある。但し、私見で恐縮だが銅鐸に描かれている相撲の様子は現在の四つ相撲と同じもので上記のテコンドーやキックボクシングに似た相撲というのは我が国本来の相撲ではないのではないかと思う。
2.當麻蹶速から二上山の採石権を奪い、野見宿禰に賜った。
野見宿禰の野見は石材を加工する際に使う「鑿(ノミ)」を意味し、野見宿禰は石材業者ではないかとする説がある。即ち、大和国の古墳築造の権利を當麻蹶速から野見宿禰に移譲したと言うことである。これなどは勝負は時の運なので野見宿禰が勝つか當麻蹶速が勝つかはわからなかったとは言え、垂仁天皇は野見宿禰の勝利を確信し、両者に相撲を取らせ、野見宿禰の勝利を見込んで古墳築造権を彼に移譲したのではなかったか。當麻蹶速の従来の弥生墳丘墓ではダメと言うことなのだろう。但し、野見宿禰の説話は「日本書紀」には出てくるが「古事記」にはないので「日本書紀」編纂者が外国文献を引用したと言う説もある。この場合、野見宿禰の存在をも否定するのは言うに及ばず垂仁天皇も存在しなかったとする説があるようだ。

垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条に
「皇后日葉酢媛命 【一云 日葉酢根命也】 薨 臨葬有日焉 天皇詔群卿曰 從死之道 前知不可 今此行之葬 奈之爲何 於是 野見宿禰進曰 夫君王陵墓 埋立生人 是不良也 豈得傳後葉乎 願今將議便事而奏之 則遣使者 喚上出雲國之土部壹佰人 自領土部等 取埴以造作人馬及種種物形 獻于天皇」とある。
皇后日葉酢媛命が崩御された。垂仁天皇は、殉死(従死)を禁止していたので、群臣にその葬儀をいかにするかを詮議したところ、野見宿禰が「君王の陵墓に生きた人を立てて埋めるのはよくない。後世に伝えるべきは、願わくば土部百人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、種々の形をした埴輪を造らせ、天皇に献上し・・・」その意味するところは、
1.我が国の(形象)埴輪の起源とされる
埴輪の起源は、弥生時代後期に吉備地方の弥生墳丘墓(例、楯築墳丘墓)から出土する特殊器台・特殊壺であるといわれている。三世紀中頃になると、前方後円墳(岡山市都月坂1号墳、桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号憤)から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している。前方後円墳の出現は、大和朝廷の成立を表し、前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壺が採用されていることは、吉備地方の首長が大和朝廷の成立に深く参画したことの現れだ、と言う。従って、「日本書紀」で説かれる「埴輪の起源は野見宿禰の発案である」というのは、一般的には全否定されている。要するに、吉備の人の発案と言うことなのだろう。
ところで、埴輪には円筒埴輪と形象埴輪があり、大和では今のところ形象埴輪は発掘されていない。もっとも、大和の主要古墳は未発掘であり、今後の発掘いかんによると思うが、今のところ最古級の前方後円墳から形象埴輪がでてくる可能性は低いと思われる。ますます持って、野見宿禰の事績は皆無に近くなる。

★野見宿禰は架空それとも実在

*架空説
野見宿禰の名前は外国文献に載っていた人物名を日本風に書き直したもの、あるいは日本に類似の話があってその主人公の名を借用したものであろう。架空の人物なので當麻蹶速との相撲の話も皇后日葉酢媛命陵の埴輪の話も架空のもので、そんな話はなかったことになる。当然のことながら、後世、土師氏が野見宿禰の後継氏族を名乗っているのははなはだ疑問だ。また、土師氏と葬送儀礼との関係から生まれた伝説という説がある。土師氏が古墳築造がなくなりそれまでの技官から文官に転向することを余儀なくされたとき、自分たちの祖先を創作したとも考えられる。この場合は「日本書紀」編纂と近い時期であろう。とは言え、架空と言い切ってしまうと身も蓋もない話になるので、虚実を検討してみる。「日本書紀」では出雲国となっているが、送り手とも言うべき出雲国における野見宿禰の伝承は皆無と言っていいほどで、まず、野見宿禰の出身地らしきところを検討してみると、
氏の根拠となるべきところとして、「和名抄」より抜粋してみると、以下の郡郷がある。
1.摂津国島上郡濃味郷(現・大阪府高槻市天神町上宮天満宮<摂社に野身神社>あたりか。ほかに高槻市野見町)
2.加賀国能美郡野身郷(石川県能美市小長野町、小松市高堂町あたりか)
3.因幡国高草郡能美郷(鳥取市安長・秋里・江津・徳尾あたりか)
4.安芸国豊田郡能美郷(東広島市豊栄町乃美あたりか)
5.肥前国藤津郡能美郷(佐賀県鹿島市<もと能古見・鹿島と言われた>あたりか)
以上の内、野見宿禰の伝説を持つところは、「摂津国島上郡濃味郷」と「因幡国高草郡能美郷」である。前者には野身神社(野見宿禰の墓という横穴式石室の宿禰塚古墳がある)が後者には大野見宿禰命神社(本殿の北西には円墳があり、野見宿禰の墳墓といわれている) があり、いずれも祭神として野見宿禰を祀っている。一般的には、いずれの地も地名が先行していて、後世、土師氏が居住するようになり、祖先神たる野見宿禰を祀ったのではないかと言われている。
・摂津国島上郡濃味郷を野見宿禰の出身地とする根拠と言えば、倭直祖長尾市が一日・二日で往復して野見宿禰を連れてくるには当時としてはせいぜいこのくらいの距離ではなかったか。野見宿禰は後世で言う濃味郷の「郷長」クラスの人で土師器なども製作していたのか。日葉酢媛命陵の埴輪を作った出雲国の土部百人もここから来たのであろうか。今の高槻市界隈に土師器の一大生産地があったかどうかだが、古墳時代前期・中期の遺跡として井尻遺跡、上牧遺跡、梶原南遺跡などがあるようだがはっきりしない。
・因幡国高草郡能美郷が野見宿禰の所領とするなら「日本書紀」で出雲国と言っているのは因幡国の誤記か。以前はそういう説も見かけたが最近は野見宿禰架空説が有力になったせいかあまり見かけなくなってしまった。また、倭直祖長尾市が一日・二日で往復して帰ってくるのは至難の業と思われる。しかし、「参考資料 名字由来net」によれば、「野見」姓の都道府県別ランキングで「鳥取県 2,068位 およそ30人」とあり、また、「能見」姓では「鳥取県 759位 およそ100人」とあり、やはり野見宿禰と因幡国能美郷は関係があったか。

以上を見てみると、濃味、野身、能美、野見などと言うのは地形起源の地名とみられ、人物(野見宿禰)由来のものではないと思われる。野見宿禰も野見の地名あっての野見宿禰だったかと思われる。

*実在説
実在説はだんだん形勢不利になっていくが、一応、野見宿禰出雲国出身説も生き続けている。有力どころとしては、この場合の出雲は出雲でも大和国の出雲であると言う説である。大和国はその開闢以来、東の横綱「磐余彦」と西の横綱「長髄彦」が対立していたところで、土部も東西で対立していたのではないか。因みに、「播磨国風土記」では野見宿禰のことを土師弩美宿禰(はじののみのすくね)と言っている。何か土方(どかた)の統領のような感じだ。即ち、東の土部が西の土部を破って大和国の土部(はじべ)を統一したと言うことか。変わったところでは、出雲大社が「野見宿禰は第13代出雲國造(出雲大社宮司)である襲髄命(かねすねのみこと)に別称です」などと言いだしている。あまつさえ、平成25年10月18日出雲大社境内に摂社として野見宿禰神社を創建したという。「新撰姓氏録」では出雲国造と野見宿禰は同じ祖先をいただくのでそうなるのかも知れないが、事実かどうかは大いに疑問だ。

★野見や土師の検討

そもそも「野見」や「土師」はどういう意味を持つのかと言うことだ。

「野見」は、1.地名ないし地形説 2.石材加工道具の「鑿(のみ)」説 3.古墳適地選定者(野を観察する)説などがある。2.3.ともなれば古墳築造を意識した命名で、何やら野見宿禰などと言うのは創作上の人物かとも思われる。一応、ここでは濃味、野身、能美、野見の地名は稀な地名ではなく「野見宿禰」の名も、実在あるいは架空はともかく、どこかの「ノミ」地名より付けられた名前なのではないかと思料する。
「土師」は「土師氏の名は、ハニ(土器や瓦などの製作に適した粘土)に由来する。すなわち、ハニを用いて作られるのが埴輪や土師器(はじき)であり、製作する工人がハニシ(土師)であった」とする説を代表に「ハニシ」の転訛とする説しかない。

「野見」と「土師」の関係については、「日本書紀」垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条の末尾に「天皇厚賞野見宿禰之功 亦賜鍛地 即任土部職 因改本姓 謂土部臣 是土部連等 主天皇喪葬之縁也 所謂野見宿禰 是土部連等之始祖也」と言い、野見が土師(原文では土部)へ昇格したことを宣っている。「臣」から「連」にカバネが代わっていると言うことは「連」の方が「臣」より位(くらい)が高かったと言うことか。あるいは、垂仁天皇の時代は「臣」しかなかったのかも知れない。「彦」(場合によっては「キミ<王・公・君など>」)が王なら「臣」は大臣級だったのだろうか。この話をそのまま信ずる人は少ないと思う。「日本書紀」編纂時の歴史概念で書かれたものであろう。ところで、前述の「参考資料 名字由来net」で「土師」姓の都道府県別ランキングを見てみると、

「土師」氏
大阪府 1,464位 およそ800人
鳥取県 1,448位 およそ50人
岡山県  770位 およそ400人
福岡県 1,138位 およそ600人
佐賀県 1,148位 およそ80人
大分県  867位 およそ200人

となっている。大阪府が多いのは「土師の里」や「百舌鳥古墳群」があるからであろう。九州が多いのも九州の土師氏は「土師氏は筑紫の国奏言郡大領の前田臣市成の祖先が旧夜須町三牟田に住み、すぐ傍の三並鳥巣窯で土師を焼いて耶麻王の祭礼の担当を命じられていた」という説からであろうか。岡山県と鳥取県が問題でまたまた鳥取県が現れる。
岡山県は円筒埴輪の始原の地と思われ、そのため「土師」氏が多かったとも思われる。大阪府の「土師」氏は因幡国の土師氏の流れをくみ形象埴輪の元祖だったか。「野見」氏とはこの因幡国の土師氏を言ったものか。
土師氏とは、言うなれば、粘土細工の専門家で石材工事や土木工事のような技量を必要とする仕事はできなかったのではないか。

★まとめ

土師氏は各地域にお互い無関係の独立した土師氏がいたようで、野見宿禰に一元化し、その末流傍流に各地の土師氏がいたと言う見解はいかがなものか。埴輪には円筒埴輪と形象埴輪があると言ってもその根源は同じではないと思われる。一応、「日本書紀」では野見宿禰は土師であり石工であり土工でありオールマイティーな人物として描かれているようであるが、やはり後ほど土師を名乗っているように埴輪等の土器造りが専門だったのではないか。古墳の花形工事は石材工事と土木工事でこれは野見宿禰のような中小豪族が請け負ったのではなく、当時の有力豪族が担ったものと思われる。前方後円墳や前方後方墳の草創期を「記紀」で言う崇神天皇や垂仁天皇の頃と仮定すると当時は四道将軍という有力豪族がいたが、はたして彼らに巨大古墳を造営する能力があったかどうか。しからば、これらの巨大古墳は誰が作ったのであろうか。
まず、「土師氏(はじし)」が上げられる。しかし、「土」を「はに」と読むのは正当か。上記垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条には「取埴以造作人馬及種種物形 獻于天皇曰 自今以後 以是土物更易生人 樹於陵墓 爲後葉之法則 天皇 於是 大喜之 詔野見宿禰曰 汝之便議 寔洽朕心 則其土物 始立于日葉酢媛命之墓 仍號是土物謂埴輪 亦名立物也」とあり、「仍號是土物謂埴輪」というのは「土物(つちもの)」と「埴輪(はにわ)」は違うと言う意味だろう。しからば、「土師・土部」は「はにし」ないし「はじ」と読むのではなく、まず、「つちし」ないし「つし」と読むのが正当ではなかったか。古墳時代盛行期にあっては「埴」に引かれて「はにし」とか「はじ」と読むようになったものかも知れない。
ところで、「つし」と言えば、かの有名な「魏志倭人伝」では、
「帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利・・・・」という件(くだり)がある。この場合の次使都市牛利の「都市牛利」だが、一般的には「つしごり」と読んで人名とする。読み方にもいろいろあって中には日本語になじまないような読みをする人もいる。異説としては、吉田孝著「日本の誕生」(岩波新書)では「中国では古くから「都○」(「都」は主<つかさど>る、統<す>べるの意)という官(広義)があり、のちの時代にも広く用いられている。漢から魏のころにも、たとえば、「都水(水利のことを主る)」「都候(巡察のことを主る)」・・・<等々たくさんの例を挙げ>・・・問題の「都市」はどうかというと、これも証拠が見つかっている。「都市」と刻まれた伝世の二つの印(『十鐘山房印挙』官印)があり、市を統べる官と解されているからである」と。しかし、大夫難升米の「大夫」は中央政府の高官名であることと、「都市」は地方政府の下級官職名であることから均衡を失する等により断言するには至っていない。
私見では「都市牛利」の読みは「つしごり」で、日本語の名と思われる。この場合の、「つし」はあるいは「つち」の意味かとも思われ、「ごり」は「古事記」開化天皇段に出てくる「旦波之大縣主 名由碁理」の「碁理」と同じで丹波、但馬、因幡方面のカバネではなかったか。
一般に、前方後円墳はその形が吉備国の弥生墳丘墓に似ており、また、円筒埴輪の起源が吉備国とされ、その草創期の築造者は吉備国の人ではないかと思われている。連れて、大和朝廷は吉備国が建設したと言う意見もある。しかし、これを子細に見てみると、「魏志倭人伝」の邪馬台国と狗奴国は当時の国力から見て後世の「大和国」と「吉備国」が有力で、大和国が勝利し、その後大和の一極支配が始まったのではないかと思う。また、土師部や土師郷の分布についても、土師部は丹後、但馬、出雲(当然他の国もあるが議論とは関係がないので割愛する)に見受けられ、土師郷は「和名抄」によると河内、和泉、丹波、因幡、備前(当該議論に関係のない国は割愛)があり、いずれにも日本海側の古丹波地方の国が名を連ねている。無論、これらは古墳草創期よりかなり後のものであろうが、意味なくしてそういうところに名を連ねているとは思われない。土師郷の方は地元に古墳が多くそのメンテナンスのために設置されたとも思われるが、技術者である土師部のいた丹後、但馬、出雲は技術の継承があったからではないか。よって、古墳造営草創期の統括責任者は「都市牛利」で、土木工事は「都市牛利」(氏族は土師<つし>氏か)が、石材工事は「伊福部(五百旗頭)」が、埴輪工事は「吉備の土師」が分担して造営したものと思われる。現在では「土師」「五百旗頭」姓は稀少姓となっているが、それでも、現在の兵庫県姫路市にまとまって存在すると言うことは古墳造営草創期から山陰の地よりこの地にやって来て吉備国の土師氏とともに連携を取りながら古墳造営を行っていたのではないか。

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