「臣」について

★はじめに

以前は「臣」の語源は「大身」で有力者の意味だ、と解説がついているのが普通だった。しかし、最近は「大身」の「身」が甲類とか乙類とか言って臣イコール大身の説はなくなってしまったような感じだ。さすがに古い辞書では新編「大言海」いわく「おみ(臣)《大身ノ約、君ニ仕フル人ヲ、傍ヨリ称揚スル名ナリト云フ》」と。ほかに朝鮮語説、敬称語のミに「大」を意味するオを付した尊称説がある。最近は最後の相手に対する敬称語説が有力であるようだ。今の言葉で言うと○○殿の殿に当たる言葉か。昔は年寄りが「臣」の文字を好み子や孫の名前に「○臣」とか「×臣」などの名を付けたようだ。今でもインターネットをブラウジングしていたら子供の名前に「臣」の文字を付けたい、付けたくない、と侃々諤々と投稿をしている人々がいた。とは言え、臣の起源は臣、連でお馴染みの姓(カバネ)にあるように思われる。古代にあっても一般庶民はあまり「臣」などという言葉には関心がなかったようで、古代の大衆文学とも言える「万葉集」などから「臣」の文字を検討してみる。

★文献に現れる「臣」「意美」は、

・「万葉集」では、「臣」の使用は以下のくらいなものである。「意美」はない。

1.01/0076物部乃 大臣もののふの おほまへつきみ
2.02/0196宇都曽臣跡うつそみと
3.02/0210打蝉等 念之時尓 [一云 宇都曽臣等 念之]うつせみと 思ひし時に [一云 うつそみと 思ひし]
4.02/0213宇都曽臣うつそみ
5.03/0322臣木毛おみのきも
6.03/0369臣之壮士者おみのをとこは
7.04/0509臣女乃おみのめの
8.(02/0165宇都曽見乃うつそみの)
2.3.4.の「臣」は音の「み」を表す文字として使用されており、いわゆる、「臣(おみ)」の意味ではない。「宇都曽臣」は〔「うつしおみ(現人)」の転〕①現世。うつせみ。「-の人なるわれや明日よりは/万葉集165」②この世の人。うつせみ。「-と思ひし時に携はり/万葉集213」、と言う。5.の臣木(おみのき)とは現在の樅(モミ)の木を言う。6.7.の臣之壮士(おみのおとこ)、臣女(おみのめ)は君に仕える者の意であろう。従って、6.7.が本来の意味の「臣(おみ)」で、臣は男女ともに使われたもののようである。臣之壮士とか臣女とか言っているところを見ると、現代で言う臣何某(しん、なにぼう)的な発想なのであろうか。

・「古事記」では、「意美」が使われている。意美と一音ずつ書かれているので「おみ」と発音したらしい。

「古事記」 須佐之男命の大蛇退治段

淤美豆奴神(おみづぬのかみ)

「古事記」 安康天皇段

都夫良意美(つぶらおみ)

「古事記」 雄略天皇段

都夫良意富美(つぶらおほみ)
有宇都志意美者(うつしおみあらんとは)
「宇都志意美」は上記辞書では「うつしおみ(現人)」となっているが、岩波文庫「古事記」倉野憲司校注では語義未詳となっており、中には「水に映しだされ顕れた大き御霊(オホキミタマ)」などという人もいる。意美とは「大き御霊(オホキミタマ)」のことらしい。敷衍すれば、意は大であり、美は御霊である。

・「出雲国風土記」の 「意美」「臣」

「出雲郡伊努郷の条」

意美豆努命(おみづぬのみこと) 区切り方が若干異なり、意は大、美豆は水、怒は主で、大水の主の神の意と言う説がある。おそらく、一般的には下記の八束水臣津野命の臣津野命の音を写した、即ち、八束の部分が欠落してしまったと思われるが、いかがなものか。

「出雲郡杵築郷の条」

八束水臣津野命(やつかみづおみづのみこと)

★まとめ

我が国には「魏志倭人伝」の邪馬台国時代(西暦200年前後)から官名と称するものがあったようで、それによると、

対馬国  大官曰 卑狗  副曰 卑奴母離
一支国  官亦曰 卑狗  副曰 卑奴母離
末廬国
伊都国   官曰 爾支  副曰 泄謨觚、柄渠觚
奴国    官曰 兕馬觚 副曰 卑奴母離
不彌国   官曰 多模  副曰 卑奴母離
投馬国   官曰 彌彌  副曰 彌彌那利
邪馬壹国  官有 伊支馬 次曰 彌馬升 次曰 彌馬獲支 次曰 奴佳鞮
狗奴国   官有 狗古智卑狗

卑狗、母離、爾支、多模、彌彌など現代にも通じる官名(原始的カバネ)もあるが、もっとも見劣りがするのは邪馬壹国でただ単に役職者の本名を並べただけのもので正式な官名が分からない。それは狗奴国にも言えることで狗古智卑狗とは菊池彦のことかとも思える。邪馬壹国にも当然官名があったはずで、それが後世カバネと言われる、成務天皇五年秋九月 令諸國 以國郡立造長(みやつこのおさ、国造のことか) 縣邑置稻置(いなぎ)なのか、あるいは、臣、連などなのかは日本の文献では分からない。一説によると、臣、連などは允恭天皇がカバネの乱れを糺して後という。私見を言わせてもらうと、臣は畿内では古くからあった原始カバネの一種ではなかったか。武内宿禰が臣を名乗っていたのに大伴、物部の両氏は無カバネか一般的でなかったカバネを名乗っていたので景行天皇は親族優遇とばかりに中国の制度である「連枝」を日本流に「ムラジ」と読み代えたのではないか。特に、大伴氏は名前の末尾に豊日とか武日とか「日」のつく人が多い。これが何らかのカバネのような作用をしていたのだろうか。武内宿禰も大臣とか言っているが「大身」もしくは「大美」の間違いであろう。「大臣」の読みも「おほおみ」ではなくて「おみ」だったか。おそらく、「臣」は卑弥呼女王の時代にも畿内にあった原始カバネの一種だと思う。傘下の国の王を大和に集め臣や彦のカバネを与えたのであまりにも高位のカバネの人が多く序列が付けられなくなったので実名を持って官名とし、序列を付けたか。

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