継体天皇

★はじめに

継体天皇は我が国史が有史時代に入って初期の頃と思われる天皇で、その出自が問題になっている。顕宗天皇、仁賢天皇と血筋が怪しくなってきたところに、突如、応神天皇五世の孫とか言って当時にあっては雲を掴むような話の中で出現した天皇ではなかったか。一応、大伴金村、物部麁鹿火、巨勢男人等のお墨付きを得ているとは言え、「山の彼方」からやって来た「よそ者」の感は否めない。大伴金村らは、まず、継体天皇の前座をつとめてもらうべく、仲哀天皇の五世孫と称する丹波国桑田郡(京都府亀岡市周辺)にいた倭彦王(やまとひこのおおきみ)に白羽の矢を立てた(但し、「日本書紀」にのみ)。お迎えの兵卒に倭彦王は怖じ気づいて山中に遁走した(倭彦王 遥望迎兵 懼然失色 仍遁山壑 不知所詣)と言う。おそらく、実態はすんなりと断られたのであろう。大伴金村らのメンツを立てるため遁走したなどと言っているだけで、倭彦王の墳墓は当該地にある千歳車塚古墳(墳丘長80m、前方後円墳)に当てられ丹波国桑田郡の有力豪族であったらしい。金村らは現代流に言うと候補者として 1.国造、県主などある程度の行政経験のあるもの 2.資金力のあるもの 3.警護の兵卒がいるもの 4.妻子のいるもの 5.ヤマトの豪族とは疎遠なこと、などを基準に選抜していたと思われ、「怖じ気づいて逃げた」はないと思う。血統は後付けの理論でよかったようだ。但し、「記紀」は血統に重きを置いているらしい。

★出身地

継体天皇の出生地として「日本書紀」の「近江國高嶋郡三尾之別業」(滋賀県高島市周辺)は有名だがこの「三尾」が現在の滋賀県高島市であるという説はどこかへ吹っ飛んでいった雰囲気で現在では福井県坂井市あたりに比定されているようだ。即ち、継体天皇の妃に二人の「三尾」氏の方がおられ、お一方は「三尾君堅楲の女・倭媛(やまとひめ)」と言い、継体天皇との間に「椀子皇子(まろこのみこ、丸高王) 三国公・三国真人の祖」という皇子がおり、この三国というのは現在の福井県坂井市三国町のことという。また、もう一方は「三尾角折君の妹・稚子媛(わかこひめ)」と言い、この場合の角折は地名とも考えられ、足羽川と日野川の合流点近くに角折の地名がある、福井市角折町。また、角折町の南約一八キロメートルに福井市三尾野町という地名がある。(以上は、福井県「福井県史」による)但し、坂井市三国町、福井市角折町、福井市三尾野町は各々少しばかり離れすぎているので有機的に結びつくかどうか。また、福井県「福井県史」は言う「天平五年(七三三)の「山背国愛宕郡某郷計帳」に「越前国坂井郡水尾郷」の記載があり、『延喜式』の北陸道の駅名のなかに「三尾」が存在している。丹生―朝津―阿味―足羽―三尾の順序からいって、三尾が坂井郡のなかにあったと考えられる」「三尾の地名は、竹田川を下流から上ってくると御簾尾(福井県あわら市御簾尾)付近で、熊坂川・清滝川・竹田川の三つに分岐することから、このあたりの土地を「三尾」と呼称するようになったもの」と。福井県「福井県史」説では継体天皇は生まれも育ちも福井県(越前国)となるようだ。地名から判断するなら継体天皇伝説は福井県が発祥の地か。おそらく、父王が幼少の時に亡くなり母姫の実家である三尾君氏の庇護援助のもと育ったのであろう。
次いで、天皇の出身地を「記紀」の「近江國高嶋郡三尾」以外にも近江国とする説がある。即ち、天皇の妃には広媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女)、麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女)、広媛(ひろひめ。根王の女)<根王は彦根王とか垂根王とかの前半の文字が欠落したものか>と言う堅く見積もっても三名の近江国出身の妃がいる。この三人の妃は近江国坂田郡の出身と思われ、継体天皇の出現期からそれまでの坂田氏に代わって息長氏が台頭し、よって、継体天皇は近江国坂田郡かつ息長氏出身という説もある。しかし、これには「記紀」編纂の発案者天武天皇それに兄の天智天皇が自分たちの家系を、途中、天皇でない人(祖父は押坂彦人大兄皇子と言う非蘇我氏系人物)がおり、天皇即ち蘇我氏と断絶した新王朝と考えていたようだ。押坂彦人大兄皇子は父が敏達天皇、母が皇后広姫(息長真手王の娘)と言うことで、息長氏賛美もその時に始まったという説がある。私見で恐縮だが、天皇の婚姻の話だけで近江国出身とするのはいかがなものか。越前国では仕事の実績の伝承もある。やはり継体天皇婚姻の話は天皇が大和国に南下する際、それに立ちはだかった人たちがいて、それに対する懐柔策の一環だったのではないか。茨田連小望とか和珥臣河内の娘は懐柔策で結ばれたとしても、尾張連草香の娘とはどういう縁で結ばれたのだろう。しかも、尾張連草香の娘の子供二人は天皇になっている。おそらく、当時は越前国の地方中小豪族に過ぎなかった継体天皇が尾張の大豪族の娘と結婚すると言うことは尾張連草香に娘しか子はなかったので彼方此方に娘を押し込み販売したのか。あるいは、継体天皇の親戚縁者は、越前、加賀、能登、近江、美濃、尾張に分布しているという説もある。また、継体天皇は琵琶湖の湖上交通路を支配することによって得た経済力を基盤に近畿北部から北陸、東海へかけての地方豪族の連合を背景に王位を獲得したと言う、岡田精司元三重大学教育学部教授説もある。加うるに、「風を望んで北方より立った豪傑の一人が応神天皇五世の孫と自称する継体であった」(直木孝次郎説)とあるが、いずれも信じがたい説だ。筑紫君磐井の叛乱で九州まで遠征して乱を鎮圧した物部麁鹿火、大伴金村中央豪族軍が後進地域の地方連合軍に負けるとは考えづらい。

★御名

継体天皇の御名は「男大迹」「袁本杼」「雄大迹」「乎富等」などと書かれ「をほど」と読むようだ。別名に「彦太尊(ひこふとのみこと)」(日本書紀)とあるが、太(ふと)は「ほと」の転訛であろう。そこで、「を」の意味だが漢字で書くと「小」とか「尾」の文字が当てられると思う。「ほと」ないし「ほど」だが、小川豊「あぶない地名」によると、「女性の陰部の古語から、1.舟形、穴形の地形で、河川の名に多い。2.山間の地すべり地形/程内、保戸野、程野/【例】埼玉県の宝登山(ほどさん)【例】横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町、とある。そのほかにも具体例として、
保戸沢(ほどさわ:青森県)、保土沢(ほどさわ:岩手県、静岡県)
保戸野(ほどの:秋田県)
保戸島(ほとじま:岐阜県、大分県)、程島(ほどじま:新潟県、栃木県)
保土塚(ほどづか:宮城県)
保土原(ほどはら:福島県)、程原(ほどわら:島根県、山口県)
保土ヶ谷(ほどがや:神奈川県
程森(ほどもり:青森県)
程田(ほどた:福島県)
まったくもって用例は形容詞的に使われており、案ずるに、これはものを大(おほ)、小(を)とのみ比較していたのに中(なか)という言葉ができる前の大、中、小を表す「中」の概念を意味する言葉ではなかったか。語源的には「ほどほどにする」などの「ほどほど」からか。また、「ほと、ほど」を単独で使う場合は保土ケ谷とか程久保の用例を見ても両側の山を意味するのではなく中の平地や河川のあるところを意味すると思う。即ち、保土ケ谷なら谷間を程久保なら盆地を意味するのではないか。小川豊説の舟形とか穴形とか言うのも舟形はウトウ(低くて小さい谷)、穴形は落とし穴のようなものではなく周りが低い山に囲まれた小盆地を言うのではないか。従って、継体天皇の御名である「男大迹」も男は小を表し、大迹は低い山に挟まれた谷(土地)や低い山に囲まれた土地を指し、「男大迹」とは小領主を意味したのではなかったか。なお、「ほと、ほど」が形容詞的に使われているのにその語源を「女性の陰部」などと言うのはいかがなものか。但し、形容詞的な「ホト、ホド」と名詞の「ホト、ホド」は語源が違うかも知れない。即ち、形容詞(副詞)では「ほどよい」などの「ほど」で中庸を示し、名詞では「ホ(掘るなどのホと同源)ト(処、トコロのト)か。
一番いいのは、福井県なり滋賀県に「おおと」とか「おと」とか「ほと」などの地名があればよいのだが、その可能性は皆無のようである。

★まとめ

継体天皇が応神天皇と繋がっているのかいないのかは今となっては検討の余地はない。その言うところの系譜は、「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ)が応神天皇と言うが、私見では何やら垂仁天皇の皇子「品牟都和氣命(ほむつわけのみこと)」の名を写したようにも見える。若野毛二俣王も焼畑農業に関係した語句という説がある。但し、一般的には応神天皇の系譜に載る「稚野毛二派皇子」と解している。大郎子(一名意富富等王)も継体天皇の小保土に対して大保土というような意味らしく対にして作出された名前か。乎非王も「をひ」と読め、誰の甥かと言うことになる。この系図も怪しいというほかないようだ。
出身地については天皇は幼少と言うより幼児の時に越前国に引っ越し(「天皇幼年 父王薨 振媛逎歎曰 妾今遠離桑梓 安能得膝養 余歸寧高向 【高向者 越前國邑名】 奉養天皇」)たと言うことなので、一応、出身地は「越前国高向邑」(現・福井県坂井市丸岡町高椋小学校あたりか)でよいのではないか。近江国を詮索しても有意義なものにはならないと思う。その意味では、福井県「福井県史」は説得力のある内容になっている。最初は高向邑の小豪族から出発して、後には現在の福井平野一帯を領有する大豪族になったのではないか。その実績を買われ大王に推挙されたのではないか。ただ、当時は中央豪族と地方豪族には力量に差があったと見え、大伴金村や物部麁鹿火らは男大迹王に脅威を感じなかっただろうが、地方豪族の嫉妬にあって都入りが遅れたか。坂田郡の坂田、息長、根王などは男大迹王をよく知っているだけに強烈な嫉妬心が働いたのだろう。もっとも、直木孝次郎説では「継体の大和入りと、神武東征の物語とは、いろいろの点でよく似ている点がある」と言い、「大和までの年数」のほか四点くらい上げておられる。「記紀」は元となる資料が少なく、同じ話をなんども焼き直ししたり、外国文献をそのまま転写したり、おそらく、資料的価値のあるものは国政の中枢を担っていた大連の大伴氏や物部氏のわずかな記録と、出雲から大和へ移動した語部の誦習した出雲神話だけだったのではないか。継体天皇にはこのほか崩年干支についても記紀に違いがある。また、「日本書紀」が「百済本記」から引用する「日本天皇及太子皇子 倶崩薨」と訳の分からぬ一文がある。おそらく、これを「日本書紀」の著者が解釈したのは安閑天皇前記「廿五年春二月辛丑朔丁未 男大迹天皇 立大兄爲天皇 即日 男大迹天皇崩」と言うことなのだろう。

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