物部八十氏

★はじめに

物部八十氏とは物部氏が没落した古代豪族を吸収し、自己の系図に取り入れた氏族を言うのかと思いきや、ほとんどの人は物部氏の遠祖という饒速日命を祖先に持つ氏族を言うらしい。なかには「新撰姓氏録」等から拾い上げたのか八十氏どころか二百氏ほどを物部八十氏としている人がいる。これなんか自己申告なのだから時代が下れば下るほどたくさんの物部一族ができてくるわけである。一応、「日本書紀」によれば物部氏の遠祖饒速日命は神武天皇より前に奈良盆地にいたと言うことになっているが、饒速日命は、まず、河内国河上哮峰(いかるがのみね)に「天磐船」に乗って天降ったとされ(「先代旧事本紀」)、いわば、河内国の人である。奈良盆地には、最初にいたのは長髄彦で、饒速日命は河内国からやって来た当時は新参者で長髄彦の妹を妻にして箔を付けたようだ。従って、真偽のほどは格別、「日本書紀」の該当箇所を見ると、

神武天皇 即位前紀 戊午年夏四月
乃還更欲東踰膽駒山 而入中洲 時長髓彦聞之曰 夫天神子等所以來者 必將奪我國 則盡起屬兵 徼之於孔舎衞坂 與之會戰

神武天皇 即位前紀 戊午年十二月
饒速日命 本知天神慇懃 唯天孫是與 且見夫長髓彦稟性愎佷 不可敎以天人之際 乃殺之 帥其衆而歸順焉 天皇素聞饒速日命 是自天降者 而今果立忠效 則褒而寵之 比物部氏之遠祖也

とあり、最初は長髄彦しか出てこず、後の方では饒速日命は長髄彦の殺し屋として出てくる。即ち、奈良盆地にいたのは長髄彦だけであり、饒速日命の話は後ほど物部氏あるいはその縁者の要請により付け加えられたものではないか。饒速日命は何やら論功行賞により登美(旧添下郡鳥貝郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近か)の地をもらったようだが、後世の物部氏がそんなところに勢力があったとは聞いたことがない。私見では、饒速日命の「天降り」や「虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国(くに)」の話や宇摩志麻遅命の「国見」(物部神社)の伝説ははなはだ疑問に思っている。
そこで、疑問である物部氏一族のさわりの部分を検討してみることにする。

★物部氏の系図

標準的な物部氏の系図解説では以下のごとくなっている。長々とは述べられないので初代の饒速日命から初期物部氏の嫡流を述べることにする。

饒速日命 → 宇摩志麻遅命 →

→ 湯支命 →

大彌命
出雲醜大臣命
出石心大臣命 →

大水口宿禰
大矢口宿禰 →

鬱色雄命
鬱色謎命
大綜杵命 →
大峰大尼命

伊香賀色雄命 → 大新河命
伊香賀色謎命   十市根命(以下、物部氏)

以上を見ていると、湯支命の息子二人は出雲醜大臣命と出石心大臣命と言い大和国の人のはずなのに急に日本海側の出雲とか出石とかが出てくる。次の大水口、大矢口も矢口は谷口とも解され何か水に関係する名前のようだ。また、いずれの美称にも「大」の文字がある。次の鬱色雄命、鬱色謎命の「鬱」は「内」とも書き地名か。大綜杵命、大峰大尼命も依然として「大」の美称を用いている。伊香賀色謎命や伊香賀色雄命の伊香賀は地名という。

これを見てみると、物部氏は河内国ないし大和国の人のはずが、出雲醜とか出石心とかの日本海側の地名が出てくる。管掌職種は武器製造とか司法、警察等と言いながら大水口とか大矢口などの農業ことに水稲稲作に関する水利権を管理する名前が出てくる。鬱色雄命とか鬱色謎命の鬱は内とも言いどこかの内氏(うちうじ)のことを言っているのか。伊香賀は枚方市伊加賀のことだという。これではまるで代が変わるたびに血筋は入れ替わり、物部氏として安定するのは有史時代に入ってからか。

宇摩志麻遅命
宇摩志麻遅の麻遅は「マチ」であり、街の意味か。街は縦、横の街路で囲まれた一区画を言う、と言う見解もある。宇摩志麻遅命は現代流に言うと農業土木者で農地の開拓を行った人か。遺跡的には奈良県御所市條(じょう)の中西遺跡か。

湯支命
湯支は「悠紀」の前身の言葉か。悠紀は大嘗祭(だいじょうさい)のとき、新穀・酒料を献上すべき第一の国郡とある。現代流に言うと神に供える新穀の専用田とも言うべき神田のあるところを言うか。あるいは、祭具、呪具の製作を行っていたか。

大彌命、出雲醜大臣命、出石心大臣命
出雲醜、出石心は出身が出雲や出石で「醜」や「心」は心の有り様を言う精神界の言葉らしく、神職に就いていたか。おそらく出雲や出石からは呪術や医術、農業、醸造業などの技術が持ち込まれ、それら先端技術を担っていた人達なのであろう。大臣命などと言っているが、単なる臣であろう。
大彌は近江と解する見解もあるらしいが、発音が違うので無理かとも思う。大彌は大身で後世の臣ではないか。従って、大彌命と言うのは「臣命」でその前の名前の部分が欠落してしまったか。

大水口宿禰、大矢口宿禰
大水口、大矢口はいずれも水の出口のことと思われ、大水口は人工水路の出口の水量を管理したものであり、大矢口は自然流水の谷川の水田に入る出口の水量を管理したものと思われる。カバネが急に「宿禰」となっている。地名としては水口神社(みなくちじんじゃ)(現・滋賀県甲賀市水口町)があるが、対となるべき矢口神社がない。

鬱色雄命、鬱色謎命、大綜杵命、大峰大尼命
鬱色雄命、鬱色謎命は内(鬱)色雄命、内(鬱)色謎命とも言うらしく、山代内臣(現・京都府八幡市内里内)に対して大和内臣とか河内内臣とか言った人か。あるいは、河内内臣は武内宿禰の出身母体で、山代内臣の味師内宿禰 (うましうちのすくね)とは何の関係もないか。記紀の武内宿禰と味師内宿禰の対決の話は全くの作り話か。地名としては枚方市渚内野や東大阪市吉田にあったという旧・内野分などがある。
大綜杵(おおへそき)命の「綜」は<へる【綜る】>の意味と言い、縦糸を、織る長さにそろえて機(はた)にかけることを言うとある。綜麻(へそ)と言う言葉もあるが、こちらは「紡いだ糸を環状に幾重にも巻いたもの、おだまき」とある。杵は機(はた)のことか。何やら織物に関係のある人物かと思われる。現代流に言うと繊維産業界の人か。また、「綣(へそ)」(滋賀県栗東市綣など)は地名で原意は織機にかけるために縒りあわせた麻糸のことを「へそ」と言うとあり、みんな少しずつ意味が違うようだ。また、近似の地名で「江曽」というのもある。地形としては「臍(へそ)」は盛り上がったところや凹んだところを言うようなので微高地の城のようなものを言ったものか。
大峰大尼命の大峰は地名で大尼は大彌即ち臣の意味か。具体的にどこの「大峰」かは不明。畿内で著名な「大峰」という地名は紀伊半島から奈良県吉野に到る大峰山脈、京都府綴喜郡宇治田原町大峰山などがある。枚方市大峰の地名は古くから(永禄年間<1558~70>に津田氏による新村開発)あるようだが、現在の地名は昭和54年にそれまでの「津田」から代わったものである。

伊香賀色雄命、伊香賀色謎命
伊香賀色雄命や伊香賀色謎命の伊香賀は枚方市伊加賀(「和名抄」河内国茨田郡伊香<以加加>郷)のことだと言う説が有力だが、滋賀県の伊香郡伊香郷と言う説もある。いずれにせよ、伊香賀氏は在地の豪族だったかと思われる。

以上を総括すれば、物部氏の草創期の系図は総じてでたらめの域を出ないと思われる。あちこちの人物をつぎはぎしただけのものである。地域的にも神武天皇の事績や大和朝廷草創期の地域に似る。天皇家が物部氏の説話を借用したものか、はたまた、物部氏が天皇家の伝承を真似たものかは不明である。一応、物部氏も出雲から畿内にかけて勢力を維持していたものと考えられるが、事実は河内や摂津を地盤とする地方豪族ではなかったか。物部氏の本貫が今ひとつはっきりしないので、いろいろおかしなことを妄想する人がいるようだ。そこで、その出身地を精査してみる。

★物部氏の出身地

物部氏の本貫がはっきりしないのは、例えば大伴氏なら「大伴の御津の浜」「大伴の高師の浜」とか言われ摂津や和泉の沿岸部にその出身地があるのではないかと思われ、中臣氏なら京都市山科区中臣町付近と考えられ、蘇我氏なら奈良県橿原市曽我町とか言って、地名と氏族名が符合し、おぼろげながらもその出身地が分かる。しかるに、物部という地名は畿内周辺には見当たらない地名である。「和名抄」に出てくる一番大和国に近い物部郷は近江国栗本郡物部郷である。氏族名と地名が符合しないのは物部氏だけか。鳥越憲三郎説は物部本宗の本貫を河内国渋川郡邑智郷もしくは河内国志紀郡邑智郷とし、以前は「邑智(おち)氏」ではなかったかという。
上述の物部氏系図を見ても物部氏の居住地は初期は奈良盆地、その後大阪府枚方市界隈、有史時代になると思われる十千根命以降はまた奈良盆地に戻っているようだ。十市根は現在の奈良県橿原市十市町に由来するものであろうか。十市根命が「物部」姓を賜ったのが物部氏の始まりとするならば何か現在の橿原市に関係があっても良さそうなものだ。あるいは、物部は十市根の居住地とはまったく関係がなかったか。奈良盆地と物部氏が結びつく地名があまりないのでほかの方法を考えてみた。

畿内の物部と類似の地名

物部に類似する地名に山城国乙訓郡物集(もづめ)郷(現・京都府向日市物集女)がある。物部(ものべ)も物集(もづめ)も字面が似ているし、読みの雰囲気も似ている。物部も三字化すると物野辺となるのであろう。本来、二字なら物辺あるいは物延となったものか。
物集女(もづめ)の意味は「も」は接頭語で、「つめ」は「詰め」の意味と言い、「平野部の行き詰まりの地」というのが有力説である。
ほかには、地形的には、物集女は向日丘陵の東麓に南北に広がる桂川の河岸段丘にあり、行き詰まりというのはおかしいと言い、喪祭にに人が集まるモヅメ(喪詰め)説がある。河内国(和泉国)大鳥郡百舌鳥には古墳築造を掌った土師氏にかかわる「土師町」という地名がある。あるいは、端的に「物集」をモヅと読んで大鳥郡百舌鳥の人が来て「モヅ」と言ったという説もある。物集郷の北の大江郷(西京区大枝)にも大江氏(元は土師宿禰)が来住していた。よって、物集は葬礼にかかわる地名という。確かに当該地には土師とか石作とか六人部とか古墳築造にかかわったと思われる氏が多いが、これらの人たちは百舌鳥古墳群を築造した人たちより一時代前の人たちではなかったか。私見では、出石の方からきた人たちだと思っている。例えば、西京区大原野の石作氏は垂仁天皇の時代の人とか。当然のことながらこれらの人たちが引っ越してきた時期も重要だ。大枝氏は長岡京時代になって奈良からきた人か、あるいは、元々大江郷にいた人か。しかし、一応、物集の「和名抄」のルビーは「毛豆女」(刊本)、「毛都米」(高山寺本)となっていて、モツメないしモヅメと読んでいたようなので、「百舌」の歴史的仮名遣い「モズ」とは違うと解し、地形説を採りたい。但し、百パーセント正解という説ではない。なお、「物集」を文字通り「ものあつめ」と読んで最初の「も」と最後の「つめ」に省略したものという説もあるがいかがなものか。
私見では「つめ」は「爪」と同源の言葉で、手の爪や足の爪がその先端部にあるように地形の先端部分を言う言葉ではないかと思っている。但し、イメージ的には「詰め」は後部の最先端を、「爪」は前部の最先端が想像される。物野辺も「も」を接頭語とすると「野辺」は山辺、海辺、川辺などのように「野のあたり」を意味するようになる。大阪府交野市星田(縄文中期から後期の遺跡あり)と言うところに「埜辺」と書いて「のべ」と読む「苗字」があるという。これに「も」という接頭語がついて物埜辺となり、物野辺から二字化により物部となったものか。しかし、人は土地と違い移動するものであり、この「埜辺」姓は交野市発祥と言うがどこから来たものか。無論、地名も人とともに移動するので物集郷の葬礼関連地説もそこにある。
ほかに考えられることとしては、向日市に向日市寺戸町東野辺という地名があり、文献初出は明治十年代の「京都府地誌」で、寺戸村の字地に見える由。新しい地名かとも思われるが、案外古かったりして、この野辺に接頭語「も」がついたものか。
物部郷の地名も丹後国与謝郡物部郷(現・京都府与謝郡与謝野町石川)から丹波国何鹿郡物部郷(現・京都府綾部市物部町)へ、また、近江国栗本郡物部郷(現・滋賀県守山市勝部町~栗東市綣)と繋がっているが、特に、京都府与謝郡与謝野町石川には小字として「物部谷」という地名があり、物部神社(祭神・蘇我石川宿禰命。地名が物部から石川に変わり祭神を石川宿禰命にしたようだ。領主が物部から蘇我へと変わったかは不明)もあるという。「物部」という地名は畿内では丹後あたりの発祥で丹波・但馬勢力の南下とともに畿内に来たのではないか。結論を言えば、物部氏はまず山城国乙訓郡物集郷にいたのであるが、丹波の丹波道主命あたりに追われて河内国茨田郡伊香郷かそこいらに逃げたが、ここでも先住権(既得権)を主張する伊香氏(淀川系か)や鬱(内)氏(天野川系か)に追われて、最終的に河内国渋川郡にやって来たのではないか。

★まとめ

物部氏はその先祖に土建業者、祭具製作業者、神主、水利組合長、紡織業者、漁業者などをちりばめており、とても言っている系図が一氏族だけのものとは思われない。何を本業にしたのかは分からないが河内国渋川郡に定着してからは湖沼(河内湖)の漁師と農業を主たる職業にして生計を営んでいたのではないか。今でも父はサラリーマン、息子は大工、孫は調理師などと言うこともあるにはあるが古代にそんなに職業環境が整っていたかどうか。
また、物部氏は大和盆地との関係が希薄なので、先祖の饒速日命や宇摩志麻遅命が大和国と関わりを持ったことは考えづらい。大伴氏は隣家が久米氏で久米氏から学んで久米舞など古典を伝承してきたが、物部氏はそういうことはなかったようである。
物部の地名も京都府与謝郡与謝野町石川には小字として「物部谷」があり、丹波国何鹿郡物部郷(現・京都府綾部市物部町)は盆地にあるという。「谷」も「盆地」も周りに山があるところであり、一説に「物部」とは「真野辺」の転で真野は間野で「狭間。谷・盆地」とある。さすれば、丹後国与謝郡物部郷や丹波国何鹿郡物部郷は地形地名とみてよいのではないか。残念ながら、近江国栗本郡物部郷は平坦地にあると言うことでその可能性はない。あるいは、伝説どおり物部宿禰広国が当地を領有し物部郷となったか。但し、物部郷の中心地とみられる勝部神社(旧物部神社)境内は、鎮守の森は大きく、かつ、木々が生い茂り、小川が流れているという。古い地形は今の平坦地とは若干様子が違ったのかも知れない。(「追記」参照)
物部八十氏と言ってもあら探しをするわけではないが、その子細を検討しなければならないと思う。みんながみんな中央の物部氏と関係があったかは大いに疑問である。完全に中央の物部氏とは関係のない在地の物部氏もあったのではないか。一説によると、物部とは1.令制の刑部省の官職名にちなむもの2.古代の大豪族物部氏及びその部民にちなむもの3.真野辺の転、に分けられるという。多くの物部郷や物部氏は中央豪族の物部氏に関連づけたいようだが、その数は少ないのではないか。
鬱(内)とか伊香とか物部などはみんな谷(ウトウ型地形即ち細い谷状の地形を言うらしい)や盆地を意味するようだが、鬱(内)と伊香は現在の枚方市界隈と思われ、物部氏の本貫は本来現在の枚方市や交野市、寝屋川市界隈にあったことを示唆するものか。
物部氏、大伴氏は初期大和朝廷にあって数少ない奈良盆地の外部からきた有力廷臣(私見では景行天皇とともに河内国や摂津国からやって来た)で、その出自に関し「記紀」の著者もご苦労なさっているのだと思う。これに対し、蘇我氏とか中臣氏は有史時代に入ってからの後発組で余計なことを詮索する必要はなかったのであろう。

「追記」 滋賀県には上記近江国栗本郡物部郷のほかに現・長浜市高月町東物部・西物部という「物部」地名がある。文献的には元亀元年(1570)富永庄所務帳(井口日吉神社文書)に「黒大豆壱升物部 源三太郎」「俵参石参斗七升五合物部ニテ」とか天正十三年(1585)閏八月山内一豊知行目録(山内文書)に「西ものへ」とある。遡って、「和名抄」では近江国伊香郡の郷名として、柏原郷、安曇郷、遂(遠)佐郷、楊野郷、余領(呉)郷、片岡郷、伊香郷、大社郷という八郷が記録されているが物部郷は見当たらない。物部は室町時代頃からの地名かとも思われるが、当該地には古墳時代の遺跡がたくさんあり、かつ、乃伎多(ノギタ)神社 と言うのが長浜市高月町東物部と長浜市高月町東阿閉にある。乃伎多の「伎多」は気多大社や気多本宮の「気多」のことで能登国から分祠されたのではないかと言うことだ。上古における大豪族の合従連衡策はいろいろあり北陸と湖北が繋がっていてもおかしなものではない。現に、継体天皇は近江国生まれの越前国育ちなどと二股膏薬のようなことを言っている。また、人物的には慶長(1596年から1615年まで)年中に神主物部五位某なる人物も見えるが出自は不明である。いずれにせよ、「物部」の地名は三方を山に囲まれた盆地を言うのであって地形地名と思われる。

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